第36話 憂苦の騎士の最後(1)

文字数 3,275文字

 場面は再び、インカーンの丘に移る。

「あ、あ、あ、貴様、自分で何をしたのか分かっているのか」
 ナダベルは酷く動揺していた。眼の前で太陽の女神、テネアの太陽と称される絶世の美女が自ら、その美貌に傷をつけたのだ。
「愚かな。アルファンヌ譲りのせっかくの美貌を、自ら捨て去るとは愚か過ぎるぞ」
 ドラングルが叫ぶ。
「貴方は母の何を見ていたの」
「何イ」
「あなたは母の表面だけしか見ていなかったのよ。母の美しい容姿だけあれば、あなたは満足だったのでしょう。中身などどうでもよかった。あなたは母の容姿だけを愛し、一人の女性として母を理解しようとは思わなかった」
「き、貴様に何が分かる」
「分かるわ。父は例え母の顔に傷があったとしても変わらず母を愛したに違いない。父は母の内面を愛していたからよ。母もそれがわかっていたから、父のことを愛したのよ」
「嘘だ。嘘だ」
「嘘だと思うなら、母に問いかけてみるといいわ。母は亡くなるとき病床で微笑みながら逝った。父と会えて本当に良かったと」
 嘘だ。嘘だ。アルファンヌ、君は。不幸だったはずだ。苦しかっただろう。惨めだっただろう。エメラルドの華と呼ばれ美しかった君がこんな辺境の地で最後を迎えることになろうとは、さぞ無念だっただろう。これも愚かな男の愚かな理想の所為だ。一人で勝手にすればよかったものをあいつは、ルーマニデアは、関係のない君を巻き込んだのだ。許せない。許せるはずがない。
(それは違いますよ。コーネリアン様)
 アルファンヌ、そこにいるのか、君は。
(私はあの人の理想に同調したのです。民の幸せのために生きようという、あの人の理想こそ私の理想。その実現のため、私はあの人と一生を共にしようと誓ったのです)
 嘘だ。嘘だ。そんなはずはない。君は嘘をついている。
(人は自分の欲のためだけに生きては、いつか破滅が訪れるもの。砂漠に幾ら水を注ごうとも満たされないように、欲だけを追いかけても自分の心が満たされることはありません。人の為に生きる道こそが、唯一私の心を満たしてくれたのです。あの人は私の心を理解し、満たしてくれた人。私を心から愛してくれた人。そして私が心から愛した人)
 アルファンヌ。僕は、僕は一体、何を追いかけて来たのだ。
(あなたは幼き頃に亡くしたお母様の幻影を私に求めているだけなのです。あなたは母親の愛情を知らぬままに育った。ユラシル伯爵はそんなあなたを不憫に思い、与えられる物は全てあなたにお与えになったはず)
 物心がついた時、既に母上は冥府の人だった。私は君に母上の代わりを求めていたのか。

 見えてきた。ドラングル、お前は愛情に飢えているだけだ。心を満たしてくれる見返りのない愛情を欲している。
 マークフレアーの導きにより、ディーンはドラングルの心の内が分かるようになっていた。
 ナダベル、お前もそうだ。その苦しみはお前の心から発せられているものだ。苦しさから逃れたいといいながら、自らそれを望んでいる。そしてそれを人に強いている。

「確かに人のために良かれと思って為したことが意図せぬ結果をもたらすこともあるでしょう。でも人は失敗し成長するもの。それは死ぬまで続くもの。父と母はそれを最後までやり遂げたからこそ笑顔であの世に旅立った。人は時に苦しみ、傷つき、立ち止まり、後退し、それでも希望に向かって前に進むもの。ナダベル、あなたは何の為に生きているの。人が苦しむ姿を見て喜ぶのが目的なの。違う。あなたは人の幸せが羨ましいだけ。苦しむ人々をさらに追いやり、自分が満足したいだけ」
「やめろ、違う。私は愚かな人間共を正しく導きたいだけだ」
「愚かな人間などいない。誤った道に進むのが人だというのならば、過ちを償い、前に進む人を愚かな人間とは思わない。愚かなのは誤った道を正そうとしない人間。そう、あなたよ。あなたはただの臆病者」
 ナダベルの顔が歪む。
「過ちを認めなさい、ナダベル。そうしない限り、苦しみは消えない」
「違う。私は過ちなど犯してはいない」
「ディーン、斬りなさい。ジュドー流剣術に魂を魅せられた者を昇華させることが出来るのは、見偽夢想流(けんぎむそうりゅう)剣術の使い手たるあなただけです」
「はい」
 そうだ、それが騎士となった理由であり、俺の役目だ。
「ナダベル、苦しいのならば、お前はなぜ逃れようとしない。なぜ、誰かに助けを求めようとしない。なぜ人々を苦しみに誘おうとする」
 ディーンは上段に剣を構える。ナダベルは苦しんでいる。だが、その苦しみを人に強いるのは違う。今、その苦しみから開放してやる。
「憂苦の騎士ナダベルよ、憂苦の心よ、去れ」
 そう叫びながら剣を振り下ろす。
 物理的に何かを斬ったという手応えはなかった。だが、何かとてつもなく重いものを斬った感触が両手に残っている。
 ナダベルが蹌踉めいているのが見えた。斬れたのか。
「ディーンよ」とナダベルが語り掛ける。妖艶な男は笑みを浮かべていた。
「トラル・ロードによって右腕を失って以来、我が剣術の力はかつての半分にも及んでいないでしょう。この状態では、あなたの剣には勝てないでしょうね。この敗戦は甘んじて受けましょう。だが、覚えておくがいい、病を憂い、老いを憂い、生まれながらの容姿を憂い、生い立ちを憂い、そして運命を憂う。この人間の性は決して無くなりはしない。我が肉体が滅んでも、人々から憂苦の心は消えはしない。人々に苦しみを憂う思いが残る限り、私はいつでも復活する」
 ナダベルの体がみるみる崩れていく。そして、それはモヤモヤと黒い霧となり、発散しどこかへ消えていった。
「これは」「夢でも見ているのか」「憂苦の騎士は死んだのか」
 皆、目の前で起こったことが理解できない。
「あわわ、あわわ」
 奇声が発せられている方向を見ると、一人の男が体をブルブルと震わせながら猛然と走り出していた。ドラングルだった。
「チッ」
 ロラルドは慌てて追いかける。ディーンとナダベルの決闘を集中している隙をつかれてしまったのだ。
「待て、この野郎」
 テネア騎兵団の騎兵達が懸命に追いかけるが、馬に飛び乗りわずかに残った手下の者たちと共に逃げていく。
「この野郎」「逃さねえぞ」
「待ちなさい。負傷者の手当てが先よ。軍勢を再編してから追いかけるわ」
 マークフレアーの指示に、騎兵達は追撃を踏みとどまる。悔しさを滲ませるが、多くの負傷者がいる、この状況下では、マークフレアーの言う通りだった。
「リン。大丈夫」
 ラーナとロアナに介抱されている、リンをマークフレアーが気遣う。
「はい、大丈夫です。マークフレアー様こそ、私のためにそのお美しいお顔に傷をつけられるなど、私、私」
 マークフレアーの右頬についた血の筋を見て、リンが泣き出す。
「気にしないで、リン。あなたは大事な騎兵団の仲間」
「ホッホ、これを塗りなさい。ランビエル殿から頂いた塗り薬じゃ。何でもアデリー山脈の奥深くに生息する銀虎の肝から作られたものだそうじゃ。銀虎は幻の生き物と言われている。再生能力が恐ろしく強く、どんなに深い傷を負っても瞬く間に綺麗に治るときく」
「こんなに貴重な物を私なんかに勿体無いです」
「何をいうの、リン。これを塗って早く治すのよ」
「はい」
 ローノルドから手渡された、銀の容器に入った塗り薬を、ラーナはリンの右頬に塗る。
「ホッホ、マークフレアー様も早く塗りなされ」
「うん。そうね。ロド、塗って頂戴」
「は、はい」
 少年従卒のロドが慌てて前に出る。
「ほら、ちゃんと塗りなさいよ」
 ラーナが塗り薬を手渡す。
「わ、分かっている」
 ムッとしながらロドはマークフレアーの右頬についた切創に塗る。かなり緊張しているのが機から見てもわかる。
 マークフレアー様の身の回りの世話は従卒である僕の役目だ。気を引き締め丁寧に塗る。少しマークフレアーが顔をしかめたのが見えた。
「だ、大丈夫ですか、マークフレアー様」と慌てて聞く。
「少し傷が痛んだだけ。大丈夫よ。ありがとう。ロド」
「マークフレアー様、ご無事でしたか」
 そこへ第五騎兵隊長のアザムが駆けつけてきた。
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