第三十三話:悪の本性

文字数 7,958文字

 虜囚となった葵がひとりその身を置くこととなったのは、二十畳ほどもある質素だが十分に手入れの行き届いた広い座敷の中だった。
 ときおり、青々とした畳表の香りが鼻の先をかすかにかすめる。
 部屋の中に漂う空気には、カビや埃の存在を臭わす不快な刺激など欠片もなかった。
 人の暮らす生活臭も奇妙なほどない。
 どこか神殿めいてさえいる。
 板張りの廊下に繋がる襖には、薄墨で描かれた風景画までもが配されていた。
 決して華美な装飾ではないが、この静かな空間においてはむしろ符合していると評しても構わない出来だ。
 およそ状況を知らぬ第三者がこれを見れば、この座敷が名の通った大旅籠が有する自慢のそれだという説明を受けても疑問を抱くことなく納得してしまうのではなかろうか。
 まさに、それほどの印象を与えるひと部屋だと言えた。
 しかし葵は、ここがいわゆる座敷牢の類いなのだと知っていた。
 侍たちの手によって無理矢理彼女が連れ込まれたのは、武家屋敷の庭内にある真新しい蔵の二階部分だった。
 一尺(約三十センチ)以上もある分厚い壁に白い漆喰を塗って仕上げられたその堅固な造りのそれは、傍目からはどこにでもある物を貯蔵するための建物にしか見えない。
 おそらく、屋敷の主が藩に普請の届けを出した際には、まさしくその見た目どおりの用途に用いるものとして紙面に記されていたことだろう。
 だが現実には、この建物が物資の貯蔵などではなく、人の、それもある程度身分の高い個人を監禁するためわざわざ造られた代物であることに疑う余地などなかった。
 それは、いま葵のいる座敷を観察するだけでも明らかな事実だった。
 白髪の法師・頭白の手によって古橋ケンタと引き離された秋山葵がこの建物に幽閉されてのち、いったいどれだけの刻が過ぎたものか彼女には皆目見当が付かなかった。
 葵の監視役を兼ねて階下に控える女中たちの手によって定期的に清められ、極めて快適な生活環境を整えられているにもかかわらず、この座敷内には目に見える場所に小窓のひとつも設けられていないのだ。
 流れ込んでくる新鮮な空気を感じることができる以上、いずこかに外界との接点があること自体は間違いないのだが、それが彼女に日の光をもたらすことはまったくなかった。
 座敷の中は常に行灯による明かりが点され、望まぬまま同地の主人と成り果てた葵がその灯火を消さぬ限り、昼夜の隔たりのないあいまいな世界が延々とこの空間内では展開し続けていた。
 それは葵にとり、終わりの来ない夕暮れにも似た刻の流れであった。
「失礼いたします」
 どこか無機質に感じられる声とともに、三名の女中が音もなく襖戸を開けた。
 座敷の真ん中で座したまま呆然と無為な刻を過ごしていた葵に向け、湯浴みの時間がやってきたことを伝える。
 持ち込まれた大きなたらいに手際よく湯が張られ、年配の女中たちが少女の瑞々しい素肌の上から汗の汚れを洗い落としていく。
 女中のひとりは髪結いの者であるようだった。
 湯浴みを済ませた葵の黒髪を、まるで人形のそれを扱うよう慣れた手付きで見る見るうちに整えて行った。
 それは、葵がこの場所へ押し込められた直後より続いている、宗教儀式のごとき習わしだった。
 身を清められている間、彼女自らが何かをするということはなかった。
 女中たちがさりげなく、それを許そうとしなかったからだ。
 ゆえに、先だって女中たちの手並みを「人形のそれを扱うように」と例えたのは、実のところ比喩でもなんでもなく極めて率直な表現ですらあった。
 洗い立ての白い長襦袢に袖を通した葵は、女中たちが去って行ってからずっと行灯の火を見詰めながらただただ時間を浪費するしかなかった。
 外界からの刺激──頬をなでる風の流れや耳に届く虫の音などから遮断された密室の中では、ちょっとしたことに心動かし、余暇の苦痛を紛らわせることもできない。
 それは、好奇心溢れる十四歳の少女にとって、なかば拷問にすら近かった。
 座敷の真ん中には、女中たちの手によって夜具一式が敷かれてあった。
 この時代では高級品とも言える、厚みを持った綿布団だ。
 一見するだけで寝心地の良さがうかがえる。
 何もかも忘れ、眠りの境地に身を委ねることは至極簡単なことのように思われた。
 しかし、葵はそうしなかった。
 そうすることができなかった。
 その胸の奥に淀む強いわだかまりが、彼女にその贅沢を選ばせなかった。
「古橋さま……お父さま……どうかご無事で」
 この世に存在するありとあらゆる神仏に向け、葵は祈った。
 胸の前で両手を合わせ、一心不乱に目を瞑る。
 いまはそうすることしかできない自分の無力さを、彼女は心の底から歯がゆく思った。
 非力な女であることが、無力な娘であることが、いま何よりも悔しい。
 非力でなければ、無力でなければ、私も古橋さまやお父さまと一緒に戦えたのに……戦えたのに……
 ふたたび襖戸が開かれ、予期せぬ来客が姿を見せたのはその時だった。
 ぬっと無遠慮に室内へと踏み込んできたそれは、見るからに魁偉な容貌を持つ鷲鼻の男だった。
 年の頃は、葵の父・秋山弥兵衛と同じぐらいであろうか。
 でっぷりと越えた身体を見るからに豪奢な衣装で包んでいる。
 明らかに、身分の高い武士だった。
 男はしばしその場で立ち止まり、あたかも値踏みでもするような眼差しで葵の全身をなめ回した。
 その向けられた視線の中には、隠そうとしても隠しきれない嫌らしさが濃厚に含まれていた。
「どなたさまですか?」
 座ったままの姿勢で男に対して向き直り、葵はすぐさま誰何の声を発した。
 わずかに芽生えた嫌悪の情を察せられぬよう、無理矢理その背筋を伸ばしてみせる。
 その態度がいわゆる強がりの一種だと見破ったのだろうか。
 男はにやりと口元をほころばせるやいなや、彼女の目の前に歩み寄って腰を下ろした。
 ひと言も許しなど得ようとせずに両足を崩し、傲慢無礼に胡座をかく。
 武士としてあまりに不躾なその態度は、まさに人を人とも思わぬそれと評して一向に構わぬほどのものだった。
「わしの名は姉倉玄蕃」
 文字どおり上から見下ろすような口振りでもって男は名乗った。
「当高山藩・城代家老の職に就く者じゃ」
「御家老さま?」
 その発言を耳にしたとたん、葵の両目に鮮烈極まる火花が宿った。
「左様な要職にあられる御方が、何ゆえこのような場所におられるのです」
 葵の言葉には、ありありと非難の色が浮かび上がっていた。
 それは、彼女の中に芽生えた率直な義憤がもたらしたものだ。
 この至極一本気な性を持つ十四歳の娘は、目の前で座す鷲鼻の男に向かい、まっすぐな言葉でこう尋ねているのだった。
 此度の一件、そのすべては貴方さまの差し金なのですか、と。
「ここがわしの屋敷だから、と申したなら、そちはいかがするつもりなのじゃ?」
 身を乗り出さんばかりにしている葵の姿をさも楽しげに眺めつつ、まるで軽口でも叩くように玄蕃は言った。
「あえて申し上げるまでもありません」
 叩き付けるように葵は答えた。
「私を、すぐさまここよりお解き放ちくださいませ。我が父のもとへお返しくださいませ」
「できぬな、それは」
「なぜでございます? その理由(わけ)をお教えください」
「なぁに、簡単なことじゃ」
 おのれのあごを右手の指でなでながら玄蕃が告げた。
「間もなく、そなたがわしの娘となるからよ」
「何を……おっしゃっているのですか?」
 男の言っていることを理解できず、葵はしばし絶句した。
 驚きに目を見開いたまま、鋭い口調で問いかける。
「私の父は、いまも、そしてこれからも、ずっと秋山弥兵衛ただひとりでございます。御家老さま。あなたは、いかなる理由(わけ)あって左様に莫迦げたことを申されるのです?」
「まあ聞け」
 軽く右手を挙げて玄蕃は言った。
「軽々に理解せよと申しても難しかろう。もとよりこれは、そなたの出生に絡んでくる事柄じゃ。まずは虚心に我が言葉へと耳を傾けるがいい。良いか。そもそもそなたは──」
 いかにももったいぶった言い回しで、玄蕃は葵に語り始めた。
 秋山葵というひとりの少女が密かに背負わされていた、いわゆる出生の秘密という重々しい真実を、だ。
 それは、彼女にとってあまりにも衝撃的過ぎる内容だった。
 彼が蕩々と言葉を綴っている間、葵は呆然とそれに聞き入るほか、まったく成す術を知らずにいた。
 荒波に揺さぶられる小舟のごとく、ただただ翻弄される我が心を空しく受け止め続けるしかなかった。
「私が……御領主さまの……姪?」
「左様じゃ」
 驚愕の事実を知りそれをいまだ咀嚼できないままでいる葵に向かって、大きく頷きながら玄蕃は告げた。
「そなたの母・秋山雅は、紛うことなく先代の血を受け継いだ確かな娘。すなわち、我らが殿・頼時さまにとっては、血の繋がったまことの姉にほかならぬ。ゆえあって、そなたの母は金森が血筋を引いているとは公に認められなんだが、何、そのようなことは由緒ある家においてはよくあることぞ」
「う……承りかねます!」
 瞳の奥に険しい色を滲ませながら、葵はきっぱりと言い切った。
「左様なこと、私は断じて承りかねます! たとえ誰からなんと言われようとも、私は秋山の血を引き継ぐ秋山の娘でございます。由緒ある金森の血統などとはほど遠い、どこにでもいるただの娘でございます。仮に……あくまで仮にでございますが、御家老さまのお話が真実であったとしても、母を金森の家中より追いやったのは、もとより彼の家の人々ではございませぬか。そのように薄弱な理由をもってこの私を拐かし、さらには私の大事なひとまでを傷付け血を流させるなど、まさに言語道断の所行でございます。御家老さまを始め藩政を司る方々とは、神仏にでもなったつもりでおられるのですか!」
「すべては飛騨高山がためじゃ!」
 葵の発言に割って入るかのごとく、大口を開けて玄蕃は吠え立てた。
 その魁偉な容貌が、怒気を孕んで膨れあがる。
 その様子を目の当たりにして思わず気圧されてしまった少女に対し、玄蕃はなおも言葉を連ねて畳みかけた。
「公にしてこそおらぬが、金森の殿がいま篤き病に伏しておられること、そなたらも風の噂に聞いておろう。口の端に上らせるのも恐れ多きことながら、正当な跡継ぎを持たれぬ殿がいま身罷られたなら、この飛騨高山藩が御公儀よりお取り潰しになることは必定。ゆえに、我ら重臣一同で計り、将軍家血筋の方を殿の御養子として、次代の御領主として迎え入れること決めたのじゃ。そなたに求められておる役は、新たな御領主となられるその御方の妻となり、金森の血筋を後世に残すこと。そして、このたびそなたが我が養女となるは、その体裁を整えるためにほかならぬ。女子として、藩の領民として、何より由緒ある金森家の血を引く者として、まずこれほどの名誉はあるまいぞ」
「嫌でございます!」
 叫ぶようにして、葵は玄蕃の熱弁を拒絶した。
 それを聞き「なんと!」とひと言口にしたまま絶句する鷲鼻の城代家老に向けて、彼女はなおも言い放った。
「断じて嫌でございます! 私は、私の生涯を左様な理由で余所さまに決められたくなどありません。それは、ひとりの人として、ひとりの女としての生ではなく、家に、血筋に、貴方がたに従う、忠実な駒としての生ではありませんか。そのような空しい生涯など、葵は断じて嫌でございます! ましてや、言われるがまま見知らぬ御仁に嫁ぐなど考えたくもありません。いま私には……私の胸の内には、すでにこのひとの妻となると、そう決めた御方がおられます。そう、たとえ我が父・弥兵衛がその御方を認めずとも、おのれの心を貫き通す覚悟ができておりますほどに!」
「よくもそこまで言い切ったものよ」
 ひとしきり彼女の言葉を聞き終えた玄蕃は、まるでその青臭い弁を嘲笑うかのごとくおのが口元を歪めてみせた。
 小刻みに両肩を揺らしながら彼は言った。
「だが、その気丈さこそ我らが欲して止まぬ気性ぞ。何、今日明日で心を定める必要はない。いまはゆるりとおのれの立場をかみ締めつつ、じっくりと身の振り方を考えるがよかろう。そのための時は、まだ十分にあるのだからな」
 大物然とした余裕を見せた玄蕃であったが、その心の奥で彼は間違いなく舌打ちをしていた。
 かつて彼の用人である生島数馬が苦々しそうに述べた言葉を、まざまざと思い出したからだった。
「それがし、紛れもなく誤り申した。よもや、この世に利と理のどちらにも従わぬ愚か者がおろうとは思ってもみませなんだ」
 それは、彼が葵の父・秋山弥兵衛との談合に失敗したのち、平伏しながら主の玄蕃に語った報せの一節だった。
 普段ならそのような小者と遭ったおりには冷笑と嘲りをもって応えるであろう数馬の、そのいささかうろたえたようにすらうかがえる様相を玄蕃は幾ばくかのおかしさとともに受け止めた。
 この男の能力に不信感を抱いたわけではない。
 むしろ、そんなあたりまえの現実にいまごろ気付いた腹心を、どこか好ましくさえ思ったのだった。
 理論と学問の狭間に生きてきた数馬のごとき男にとり、斯様な事柄はもとより理解しがたいのかもしれん。
 この時、玄蕃はおのが心中に湧き上がった正体不明の優越感をさも愛しそうに弄んだ。
 人の心とは、いつだって不確定なもの。
 もとより定まった筋道を、すべての生者がそろって辿り歩いているわけではない。
 この世のことごとくに裏と表があるのと同様、人心そのものを操るにしても、まさしく千万の手段が存在するのだ。
 数馬は確かに切れ者だが、どうも書物を読み解くようにして物事を考える悪癖がある。
 それは大勢において常に正しき方策であるが、時として誤った道を堂々と選択する兆しともなり得る。
 左様、「知者、知に溺れる」「策士、策に溺れる」と人の巷で謳われるように。
 姉倉玄蕃というこの野心家は、無数の魑魅魍魎がうごめき続ける大名家中の出世街道において、おのずからそういった事実を学び取っていた。
 人という生き物は、端から見る限り常におのが利を追い続けているかのごとく映るが実のところそうではない。
 なぜならば、その追い求めている利が誰にとっても等しくそうあるものではなく、実際にはただその者が利と信じているだけの場合も多々あるからだ。
 この娘が信奉している何かとは、明らかに数馬の語る「利」や「理」ではない。
 これまでの経験に基づき、玄蕃は素早くそう悟った。
 「人の道」に「武士の魂」か。
 ふん、なるほどなるほど。
 確かに下らぬ。
 玄蕃は嘲るように鼻を鳴らした。彼は思った。
 斯様なところは実に父親(弥兵衛)と似ておるわ。
 さすがは親子、とでも言うべきところか。
 だが、そうとわかれば執りうる手段も明らかとなってくる。
 要は、この者が信じて求める核心を、力尽くにでもこちらが書き換えてしまえば良いのだ。
 ただ、それだけの話ではないか。
 その魁偉な容貌をより一段と歪ませつつ、この時、玄蕃は思わずほくそ笑んだ。
 それは、あたかも飢えた肉食獣のごとき笑顔だった。
 彼は自らが思い浮かべた新たな手段、その冒涜的な内容に嗜虐本能のどこかを強く刺激されたのだった。
 玄蕃はおのが背筋を這い上がるどす黒い情欲をじっくりと全身に行き渡らせつつ、目の前に座す少女の、まだ女として成熟しきっていない青い肢体に向け粘液質の視線を這わして行った。
 その目の奥には、彼の持つ好色漢としての素顔が見え隠れしている。
 玄蕃は、葵に気付かれぬよう小さく生唾を飲み込んだ。長年に渡り押さえ込んできた獣性を、いまあらわにすると決意する。
 それが「利」によって従わせることのできぬ「おんな」であるなら、代わりに「情」をもって支配するが良策だ。
 何、ひとたび割り切ってさえしまえば至極簡単な事柄よ、と。
 そもそも「おんな」という生き物は、もっぱら「情」と「絆」とをもってその心身を構成している存在なのだと、彼は心から信じていた。
 心の「情」と肉の「情」
 心の「絆」と肉の「絆」
 そのふたつをもって互いの心と肉を熱く繋げること叶うなら、女子(おなご)の中の「おんな」の部分は、いとも容易く陥落する。
 そう、たとえそれが度重なる暴力をもって無理矢理成し遂げられた結果であろうとも──…
「葵とやら」
 おもむろに玄蕃は尋ねた。
「そなた、『おとこ』は知っておるのか?」
 それはあまりに唐突な質問だった。
 「え?」とひと言口にしたまま、問われた葵は言葉を失うほかはない。
 それは、この教養ある武家の娘にとり容易に答えられる内容でなどありはしなかった。
 冗談にしては悪質に過ぎる。
 しかし玄蕃は、決して戯れ言を述べたつもりではなかった。
 答えを返さぬ葵に向け、改めて同じ意味を持つ問いかけを繰り返した。
「何も驚くことはない。『おとこ』に肌身を許したことはあるのか、と聞いておるのだ」
 「さ……左様なこと……」と、ふたたび葵は絶句した。
 それを見た玄蕃の両目が、色欲に塗れてぎらりと光る。
「ない、というのは、その様子を見れば一目瞭然であるな」
 真っ赤になって唇を震わせる葵の姿をさも楽しそうに眺めつつ、この鷲鼻の男は品性下劣な笑いを浮かべた。
 それは、明らかに城代家老という藩の重臣が見せてもいい表情ではなかった。
 からかうように彼は言った。
「わしはまた、そなたが古橋某とやらとともに旅をしておる間、彼の者と情を交わしたのではないかと思っておったのだが」
「古橋さまを侮辱するのはおやめください!」
 そのひと言が逆鱗に触れたのだろうか、葵ははっと顔を上げて玄蕃の発言に抗議した。
「あの方は、そのような道義に外れた行いをなさる仁ではございません。あの方は、道中、常に私のことを気遣い、支え助けてくださったのです。たとえ御家老さまのお言葉とはいえ、いまのごとき暴言、葵は断じて看過することはできません。撤回してくださいませ」
「ほう」
 玄蕃は言った。
「そなた、あの武芸者に惚れておったのか?」
「いけませんか?」
「そうは言っておらぬ。むしろ楽しみが増えたというものよ」
 にやにやと嫌らしく歯をむき出しにした玄蕃が、じりじりと葵の側ににじりよった。
「一点の染みもない真っ白な布をじっくりと我が色に染め上げるだけではいささか面白味に欠けると思っておったところゆえ、な。そなたが左様な恋心を抱いておったのであれば、我が手管でもって溺れさせ、それを忘れさせるのもまた一興」
 玄蕃の両手が、か細い葵の両肩をむんずと掴んだ。
 その節ばった指が、力強く襦袢の上から素肌に食い込む。
 走り抜ける痛み。
 刹那ののち、少女の瞳が皿のごとく見開かれた。
 それは、押し寄せた本能的な恐怖ゆえに、だ。
 目の前の男がいったい自分に何を成そうとしているのか。
 そして、いま自分がこの男に何を成されようとしているのか。
 彼女の理性はその双方を瞬間的に理解した。
 理解したくなどなかったが、それ以外の選択肢は誰からも提示されなかった。
 しかし同時に、まだ齢十四であるひとりの少女、その清らかな肉体と精神とは、おのれが直面する現実を、この時点でなお頑なに拒み続けようとしていた。
 それは明らかに現実逃避の一環だった。
 「蛇に睨まれた蛙」とは、まさにこのことであろうか。
 一瞬にして彼女の脳内は白一色に変化を遂げ、その全身は木石のごとくに硬直した。
 反応も対応も、この状態では何ひとつ成し遂げること叶わなかった。
「御家老さま、いったい何を?」
 そして、凍り付いた思考のまま場違いとも取れる台詞を発した葵の身体は、次の瞬間、大柄な玄蕃の肉体にのしかかられ勢いよく夜具の上へと押し倒されたのだった。
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