第二十三話:水戸屋の隠居・光右衛門

文字数 4,763文字

「本当にいただいてよろしいんですか?」
 隣に座る老爺から新しく焼き上げられた鮎の串焼き十本分を差し出されたケンタは、どうにも煮え切らない態度を隠そうともしなかった。
 そんな彼に対し光右衛門は、「勝負に敗れたはいかにも私どものほう。遠慮などなさる必要はございませんぞ」と、まるで子供をたしなめるかのごとくに言ってのける。
 いや、「ごとくに」ではなく、実際にその姿勢をたしなめているのかもしれなかった。
 光右衛門の口振りの背中には、時に年長者が年若い者に押し付ける、いわゆる差し出口の一端がちらほらと見え隠れしていた。
 からからと笑いながら光右衛門は明るく告げた。
「その鮎とて、どうせ胃の腑に収まらねばならぬなら、より我が身を味わってくれる者のほうが良いと思うておるでしょう」
「そんなものですかね」
「そんなものでございます」
 光右衛門の表情が、さらなる緩みを浮かべて見せる。
「実のところを申しますと、この私、近年、年のせいかとんと食が細くなりましてな。到底それだけの量をひとりで食べきれるとは思えませぬ。せっかくいただいたありがたい命を無駄に土へと返すくらいなら、あなたさまのような多生の縁を得た御仁に差し上げたほうがまだどれほどかましというもの。そうではございませんかな?」
「いや、ご隠居さんおひとりならそうかもしれませんが」
 それでもなお、わずかに小首をひねってケンタが言った。
「そこのボブサプさんなら、これぐらいの数、ぺろりと平らげてしまうでしょうに」
「残念ながら」
 間髪入れず光右衛門はそれに応えた。
「この者は、遠く海を越えた土地(ところ)にある『えちおぴあ』なる山国が生まれでしてな。困ったことに魚を食す習慣を持っておらぬのです」
「そうなのですか」
「そうなのでございます」
 おそらくは意図的なものなのであろう。光右衛門はケンタの言葉を繰り返した。
「私どもの連れがいまだやって来ぬうちに、ささ、たんとお召し上がりなさい。気兼ねなど一切不要。そもそも年寄りの心遣いというものは、もとより虚心に受け入れねばならぬ代物でありますぞ。それが、人としてのいわゆる礼儀というものでありますぞ」
 さすがのケンタも、そこまで言われてついには折れた。
 故なき施しを受けるのは好むところでなかったにしろ、行き過ぎた遠慮はかえって相手に失礼だと思い直したからだった。
 ひと言「ありがたく頂戴します」と告げる同時に、皿の上に積まれた竹串へと利き手を伸ばす。
 それを見た光右衛門は「うむ、何事も素直が一番」と大きく頭を頷かせ、ケンタの脇に座る鼓太郎にもまた、その師に対するものと同様に食を勧めてみせるのだった。
 巨漢の黒人・ボブサプとの力勝負を終えたケンタの前に現れた老人・光右衛門は、それが主の義務とばかりに立て看板の約定をふたつ返事で果たしてみせた。
 丁寧な物腰で鮎の串焼き十本をおきんに向けて注文し、通常の倍、四百文の代金を支払う。
 財布の中身にいささかの執着も見せないそのいかにも小金持ちといった風情が、なんとも小気味よく感じられてならなかった。
 そしてそれは、彼自身が購入した十尾の鮎を微塵のためらいもなくケンタと鼓太郎の師弟に馳走する旨申し出たことで、さらなる倍増を果たすことと相成った。
 同じ床机の上でケンタたちと並んで座り、これが初対面とは思えない親しさでもって語りかけてくる。
「古橋殿、とおっしゃいましたな」
「はい」
「これからどちらへ向かわれるのかの?」
「自分たちは名古屋で用事を果たして、高山へ帰る途中です」
「ほう、これは奇遇」
 わざとらしく驚いて光右衛門が言った。
「実は私どもも高山城下へと向かっておる最中なのですよ。いやなに、知人の家中にいささかやっかいな揉め事が起こりましてな。この老骨自らが、年若い当主にちくと苦言を呈してやろうと目論んでおるのです」
「お家騒動って奴ですか?」
「恥ずかしながら、そのようなものでございます」
「面倒なことですね。そんなことでわざわざ遠くからこんなところにまで来なくちゃならないなんて」
「まことまこと。これからの世は私のような年寄りがしゃしゃり出て口出しするようなことなどあってはならんはずなのですが、いかんせんこの干物のような爺よりなお頑固な若人も依然として少なくはないのですよ。なんだかんだ言って、まだまだ年の功が必要とされる時代なのですなあ」
 そんな他愛のない世間話が蕩々と繰り返される。
 しかし実際は、ケンタも鼓太郎もこの「ちりめん問屋の隠居」を名乗る老爺に振り回されているも同然だった。
 馴れ馴れしいとか押しが強いとか、単にそういった言葉だけでは表現できない彼の発する存在感。
 それが、もとより気の優しいケンタはおろか根っこの部分で負けん気の強いところを持つ鼓太郎までもを頭から飲み込み、場の主導権を完璧なまでに掌握せしめていたのである。
 もしかして、これが人間の「格」ってものなのかな。
 ふとケンタはそんな風に思った。
 たぶん真剣に格闘技をやっている者のほとんどが体験している事柄なのだろうが、人という存在には、その力量・能力を超越した「格」というものが確かに備わっている。
 あるいは「オーラ」と呼び変えてもいいかもしれない。
 ひとたび実力をもって争えば、おのれの勝利は揺るがない。
 体格・体重・年齢・技術・実戦経験──それらあらゆる要素を比較検討すれば、それ以外の結果は導き出されない。
 だれがどう考えたってそのはずだ。
 しかし、本当にそうなのだろうか?
 そう断言しても構わないものなのだろうか?
 真っ向から対峙した瞬間、ついそんな愚問を抱かされてしまうようなその風格。
 多くの試合を積み重ね押しも押されぬトップレスラーとして二十一世紀のマット界に君臨していたケンタであっても、それを感じるベテラン選手は片手の指では収まらない。
 ゴングが鳴り自陣から勢い良く飛び出したはいいが、いざ組み合う直前になって無意識のうちにその周囲を衛星のごとく周回させられてしまう、一種独特の雰囲気を帯びた歴戦の「(おとこ)」たち。
 いまケンタが感じているそれは、そんな尊敬すべき漢たちが身にまとった空気と極めて似かよったものだった。
 いや、それはもはや同じ匂いを含んでいると表しても構わないほどのものだった。
「まるで水戸のご隠居だな」
 不意にケンタはそんな感想を口にした。
 それは、頭巾姿の小柄な老爺──どこをどう見ようとも「武」の強者だとは見て取れないその姿が、幼い頃より親しんだ活劇中の主人公を連想させたからにほかならなかった。
 二十一世紀の日本人なら誰もが知っているその伝説。
 鎮まれ鎮まれ。
 御老公の御前である。
 頭が高い、控えおろう──か。
 はは、確かにこの人がその役を演ずれば、さぞかしお似合いに違いない。
 少なくとも、下手な俳優が演じるものよりよほど絵になることだろう。
 脳裏に浮かんだ根拠のない妄想を弄びつつ、ケンタはほどよく焼けた鮎の身に大口を開けてかぶりついた。
 とりあえず、目の前のものを食べることに集中する。
 周囲に気を回す余裕もなければ、その必要性も感じていなかった。
 ゆえに彼は、その時現れた老爺の変貌を直接目にすることができなかった。
 それまで過剰なまでの温もりを湛えていた光右衛門の眼差しが、一瞬、そうわずか一瞬のことながらまるで鋭利な槍先のごとく煌めいたことを、だ。
 だから「はて、いま何か仰いましたかな?」と間を置くことなく突き付けられた老爺からの問いかけにも「いえ、なんでもありません。ははは」と真剣に取り合うことをしなかった。
 事実、ケンタにとって先の発言はさしたる意味を持たなかったのだから、それも仕方のないことだった。
 些細だが決定的な空気の変わり目を感じたのは、この時、鼓太郎だけだった。
 彼はその子供らしい感受性をもって、床机の上に並んで座る好々爺と巨漢の黒人が衣の下から垣間見せた鎧の存在を鋭敏に察してみせたのだ。
 出所不明の緊張感がその背筋を走り抜け、少年はかすかに身震いして小さくこくりと息を飲んだ。
 なんだろう、いまの。
 二、三度目を瞬かせてから、鼓太郎は改めて光右衛門の顔を見た。
 だが、その時にはもう老爺の表情はそれまでと同様の柔和なものへと立ち戻っていた。
 無論、その連れであるボブサプも、だった。
 だから彼は、自分を襲った刹那の違和感をおのれの錯覚だったのだと決めつけた。
 そうすることで、我が身の中へと納得して落とし込んだ。
 そうしたほうがいい、そうしなければならないと繰り返し自分自身に言い聞かせた。
 そう思ったのがなぜなのかは、あえて自分自身に問いかけなかった。
 そんな様相ががらりと方向転換したのは、やや時を置いてからのことだった。
 「古橋さま」という短い呼びかけのあとを追って、ひとりの少女が足早にこちらへと向かってくるのが見える。
 藍色の着物をまとった小柄な娘──秋山葵だった。
 彼女はそのまままっすぐケンタの前までやって来ると、少しの間呼吸を整え、胸に手を当て口を開いた。
「お帰りがあまりに遅いので何かあったものかと心配いたしました」
 その口調には、わずかに非難めいた色があった。
「遅くなるなら遅くなると、せめてお伝えいただかねば私が困ります」
「すいません」
 ケンタがぺこりと頭を下げたのは、もはや条件反射に近かった。
「ですが、よくここがわかりましたね」
「旅籠の前で古橋さまのお帰りを待っておりましたら渡し場の付近で大柄な殿方と異国の御仁とが力勝負をなされたことを耳にしましたので、もしやと思った次第です」
 少しだけその瞳を輝かせて葵は言った。
「お勝ちになられたのですね」
「ええまあ」
 それを受けてケンタが大きく頷いた。
「ちなみに対戦相手は、そこにいるボブサプ殿です」
 ボブサプがその目をぎろりと動かして葵を見た。
 ただでさえ厳つい面持ちに加え、明らかに衆人から浮き出る巨体と黒い肌の持ち主だ。
 当の本人にそうした意思が皆無であっても、その行動は大多数の者たちに威嚇と同様の効果をもたらしたことだろう。
 ましてや女子供であれば、まず恐怖心に胸を突かれてもそれは致し方のないこととすら思われた。
 だが、葵は至極平然とそれを受け流した。
 ある意味で容貌魁偉ともとれるボブサプの眼光にひるむこともなく、彼女は礼儀正しく腰を折った。
 それは、まるでおのが連れ合いの好敵手に対する、そんな儀礼的姿勢にさえ見受けられるものだった。
「古橋殿」
 不意にそう口を挟んできたのは光右衛門だった。
「そこな佳人はどなたですかの? 差し支えなければ紹介していただけないものか」
「ああ」
 老爺の言葉にケンタが応えた。
「このひとは、俺が世話になってる剣術道場の娘さんで──」
「秋山葵と申します」
 ケンタの発言を引き継ぐように葵は名乗った。
 光右衛門に向け、これもまた丁寧な仕草でもって一礼する。
 光右衛門の白い眉が小さく動いた。
「秋山?」
 彼は訪ねた。
「もしや、直心影流・秋山弥兵衛先生のお身内であられる方か」
「父をご存じなのですか?」
「やはり」
 光右衛門は答えた。
「秋山先生の剣名は、江戸ではそれと知られておりましたからな。この年寄りも、それとなく聞き及んでいた次第でございます」
 あたかも恵比寿のごとき笑顔を浮かべ、彼は何度も何度も頷いた。
 一見して慈愛に充ち満ちたその顔付き。
 しかし、その瞳の奥に何やら冷たい鋼の重々しさが沈殿していることに、この時、鼓太郎だけがはっきりと気付いていた。
 先ほど飲み込んだばかりの違和感が、不意に喉元へと込み上げてくる。
 この爺さん、やっぱり何か変だ。
 ほぼ無警戒にこの老爺と言葉を交わし合うケンタや葵をよそに、鼓太郎は思った。
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