第四十一話:高山城三の丸正門前

文字数 11,784文字

 飛騨高山城の三の丸は、本丸をいただく臥牛山の北側に、城下町のある平野部へと向け張り出すように存在していた。
 前述したとおり、山の中腹にある東西ふたつの二の丸を城塞の主防御線とするならば、それはいわゆる前衛陣地の役にあると言っていい。
 早い話が、城を攻略せんと押し寄せる攻め手の勢いを二の丸へと至る前に可能な限り減殺するのが同地に与えられた役目なのである。
 麓に広がる城下町との間は、きれいに整えられた通りと水堀とを挟みつつ、(こけら)葺きの屋根を備えた一連の城壁によって隔てられていた。
 ただし、その城壁という名前から連想できるほど立派な造りのそれではない。
 高さはあって三間(約六メートル)余り。
 堀の水面から三尺(約九十センチ)ほどの高さまである石垣を有するとはいえ、そのほとんどは漆喰で塗り固められた分厚い土塀によって構成されていた。
 土塀の比率を高めたのは、一朝有事のおり、その壁面に穴を穿ち臨時の銃眼として用いる目論見があったためだが、実際のところ、その主たる理由は建築費の問題だった。
 数十万という膨大な石高を与えられた大藩などと異なり、飛騨高山藩はしょせん三万八千国の小藩に過ぎない。
 保有する城にかけられるコストには、おのずから限界というものがあった。
 もちろん、土塀であっても城の防御施設としての効果に致命的な問題があるわけではない。
 しかしながら、高さにしておよそ三間(約六メートル)ほどの石垣を持つ本丸や二の丸、さらには近隣諸国の同種あたりと比べれば、衆目の目にいささか安っぽく映ってしまうのもまた仕方のないことかもしれなかった。
 いまより九十年ほど前、ここ三の丸の縄張が初代藩主・金森長近によって整えられた際、高山城の防御正面はおおむね東の二の丸、その北側になるだろうと考えられていた。
 平野部にある城下町、ことに近隣に密集する武家屋敷群を突破してきた敵勢が真っ先に殺到してくるのは、比較的地形の険しい搦め手──すなわち西の二の丸方面ではなく、より平坦なこの部分であろうことに疑う余地はなかったからだ。
 三の丸の正門、別名・三の丸一の門は、ちょうどそんな三の丸城壁北側の中央付近に設けられていた。
 水堀に架かった幅一間(約二メートル)ほどある木橋の向こう側。
 そこにちょうど城壁を凹ませた形の空間があり、城門はその先でじっとうずくまりつつ、無言のままにおのれの存在を主張し続けていた。
 主柱とその後ろにある控柱を切妻屋根で覆った高麗門。
 それは、中央下部に縦四尺(約一.二メートル)余の小口を持つ、俗に鉄門(くろがねもん)と呼ばれる扉を有していた。
 分厚い木板の表面に筋金をまんべんなく貼り付けて強化した巨大なそれ。
 改めて口にするまでもないが、その防御力は極めて高い。
 扉そのものの縦長だけでも優に二間半(約五メートル)
 構え全体を含めれば、余裕で三間半(約七メートル)には至るだろう。
 それは三の丸を囲む城壁の高さを頭ひとつ以上越えていた。
 人の腕力ごときでどうしてこの自分を打ち破れるものかとでも言いたげな、まさにそれほどの偉容だった。
 とはいえ、純粋に城壁の守りのことだけを考えるなら、そもそも城門などというものは存在しないに越したことはない。
 もしどうしても必要となるならば、それはやはり小さければ小さいほど優位に働くのが自明の理であるとも言えた。
 間口の大きな城門は、ひとたびそれが打ち破られた際、より多くの敵兵を城内へと乱入させる突破口ともなりかねないからだ。
 にもかかわらずこれほど大きな城門を城塞の最前列たる三の丸に設けた根拠は、純軍事的な視点で見ると、それとはまったく別種の思想に基づいていた。
 実のところこの場所は、ここより若干南に位置する西の二の丸、すなわち城の中枢への最短距離を突破せんと目論む敵の、その側背を突く逆襲の起点として利用できるよう求められていたのである。
 なるほど。
 左様に攻撃的な用途をも考慮に入れていたとするならば、いかに防御面で有利になるとはいえ、迅速な兵馬の通過に難をもたらす狭き門が不採用となるのもこれはこれでやむを得ないことであったろう。
 乱世を生き延びた戦国武将の知恵とも言えた。
 しかしながら、残酷な刻の流れは、そんな勇ましき先人たちによる深謀遠慮をも、およそ時代にそぐわぬ無意味な代物へと見事に変貌させてしまっていた。
 この泰平の世の中、全国津々浦々をどのように探して回ろうとも、おのが武威を用いて一城を脅かそうとする腹の据わった武辺者など、ただのひとりとて見付かるまいと容易く想像できたからだ。
 群雄割拠の合戦絵巻は遠いむかしと成り果てて、武の道をもって武の神に従い、身に付けた武の技によってこそ身を立てるべき武士たちですらが、いまや刀槍弓矢を手放して、筆と硯を携えつつ日々文士の真似事に勤しんでいるのが実情だった。
 武より文。
 乱より和。
 応仁のころより永らく続いた戦国の世が徳川幕府成立によって幕を閉じ、人々がようやくのことで平穏を手に入れてより早数十年。
 この戦なき世の中に求められていたものは、昨日と同じ今日をつつがなく送るための能力だった。
 今日と同じ明日を滞りなく迎えるための能力だった。
 実力による変革をおのずからは求めず、ただ流されるがまま与えられた刻を凡庸に過ごす。
 いつの頃からか、そんな柔軟で器用な性質をこそが人々の間で尊ばれるようなっていた。
 それが時代の潮流だった。
 それが時代の趨勢だった。
 だが天という名の悠久なる傍観者は、いつの時代にあっても常にへそ曲がりのひねくれ者だった。
 彼は、まさに人々が思いもかけないタイミングでもって、大なり小なりその足下を変革するための強い揺らぎを提供する。
 激動の時代には安定を。
 平穏な時代には波風を。
 そして、そのきっかけとなるものは、いつだって「ひと」だった。
 この世の中が「ひと」という不特定多数の存在によって構成され成立している以上、「ひと」を、そしてその運命を変えることができるものは、いつだって「ひと」以外の何者でもありはしなかった。
 いつの時代もそうだった。
 「ひと」の運命を変えるもの──それは、断じて天の配剤ごときではない。
 それは、常に「ひと」の意志であった。決して何者にも従属することのない、孤独でおのが信念にのみ殉じる、そんなただ青臭いだけの、純粋で愚かしい熱き反逆者の意志でしかあり得なかった。

 ◆◆◆

 時に元禄三年、葉月の頃(九月の下旬)
 間もなく秋分を迎えようという、ある晴れた日の早朝。
 (おとこ)は、飛騨高山城三の丸正門前に、たったひとりで悠然とその姿を現した。

 ◆◆◆

「何用だ、おぬし!」
 城の水堀に架けられた木橋。そして、それを渡った先にある閉じられたままの巨大な門。
 その前に立つふたりの番卒の片割れが、誰何の声とともに携えていた六尺棒を勢いよく構えた。
 まっすぐにその先端を突き付けられたひとりの男が、およそ橋を渡りきる寸前でもって、その歩みをおもむろに停める。
 番卒たちの目の前でさも悠々と橋を渡ってきたその男。
 それは、身の丈六尺(約一.八メートル)を越える巌のごとき巨漢だった。
 対峙する番卒との身長差は、余裕で一尺(約三十センチ)に近い。
 身体の厚みに至っては、ほとんど倍ほどもある。
 肩幅から推測される目方の比は、それをはるかに上回っているのではないかと思われた。
 まさしく圧倒的な存在感だった。
 眼前にただあるだけの、おのれと同じ形を取った高密度の肉塊。
 しかしそれが空気中へと無造作に放つ威圧感は、あるいは後足で立ち上がった熊のそれにすら匹敵するのではなかろうか。
 少なくとも、その番卒には左様に感じられてならなかった。
「頼み事がある」
 無意識のうちに気圧されてごくりと喉を鳴らす彼に向かって、男は静かに口を開いた。
 目深に被った編み笠ゆえその表情はまったくうかがい知ること叶わなかったが、その張りのある声は男の年齢、その若さを十分に感じさせるものだった。
 特段荒ぶる態度を見せることなく、彼はひと言ひと言を確かめるように番卒へと告げた。
「この城の一番偉い人に話があるんだ。会わせてもらいたい」
「一番……偉い人?」
 当初、番卒は男が何を言っているのかを理解できなかった。
 慌てて自分の真横にやって来た相方に目配せするが、そちらのほうもこちらとまるで同じといった風情を見せている。
 だが、そんな困惑もほんの一時的なものだった。
 ふたりの番卒は、突然閃くように男の意図を認識した。
 つまり、この大男はこう言っているのだ──この城の一番偉い人、すなわち飛騨高山藩藩主・金森頼時公に面談させろ、と。
 番卒たちは仰天して、その目を皿のごとく見開いた。
 この男は、わかっているのか?
 この男は、自分がいったい何を言っているのかわかっているのか?
 二人分の目線が改めて男に向けて注がれる。
 番卒たちはそこで初めて、男の持つ異様な風体に気が付いた。
 その編み笠を被った大男は、どこか使い古された感のある灰色の着物と藍の袴とを身に付けていた。
 言葉に表すだけなら、それは武士階級男子の一般的な出で立ちと言えるものではあった。
 しかし、いま男のまとっているそれは、むしろ剣術道場で用いる稽古着のような趣を見せている。
 見た目にも厚く縫い重ねられた着物の生地が、その防具としての本質をことさら雄弁に物語っていた。
 ではこの大男がいわゆる武芸者の類いなのかと問われれば、実のところ、それにも若干の違和感を覚えるしかない。
 なぜならば、男の腰には武辺者の証したる差し料がひとつとして見当たらなかったからだ。
 もちろん、その手の中に槍のような長柄ものが握られているわけでもない。
 文字どおり完全なる非武装、無手の状態だった。
 何者だ、此奴?
 そんな男の風貌に出所不明の戸惑いを覚えながら、ふたりの番卒は顔を見合わせることで互いの意志を確認しあった。
 彼らは、とりあえず判断を下した。
 ひとまずこの大男をふたりがかりで捕縛して、それから上役へ報告しよう、と。
 番卒たちは侍ではなかった。
 彼らは城勤めの武士に仕えてさまざまな雑務をこなす、俗に中間(ちゅうげん)と呼ばれる奉公人の者どもだった。
 当然ながら、なんらかの武芸を会得しているものなどほとんどおらず、それどころか刃の付いた武器の使用すら認められてはいなかった。
 事実、いま大男と対峙しているふたりの番卒も、手にしているものは殺傷能力を持つ槍ではなく単に木を削って作り出した六尺棒が一本だけだ。
 もちろん、藩主の居城、その正門たる部署の警備にそのような者どもが就いていることに首をかしげる向きもあった。
 中間たちとその主たる武家との間柄は、時に仲介業者すらを間に挟む、純粋に金銭が絡んだ雇用関係だ。
 あたりまえだが、そんな彼らに強固な義務感や忠誠心などそうそう期待できるものではない。
 一部の者が抱いた不安も、決して無根拠の杞憂というわけではなかったのだった。
 だが、戦国の世であるならばいざしらず、いまはまさに泰平の天下。
 半ば官僚化した武士たちにはほかにやるべき大事な仕事があり、ほぼ形骸化したとも言える門の警備ごときにわざわざ腰に刀差す者を置べき理由が乏しいことも事実であった。
 ゆえにそういった視点からいま一度この状況を眺めてみれば、中間者たるふたりの番卒がこの不躾な来訪者に対して何はともあれ実力をもって立ち向かおうとした事実は、十分評価の対象となるべきものかもしれなかった。
 そしてそれは同時に、雇用者である城方の彼ら中間に対する扱いが彼らなりの忠義立てを決断させるに足るものであるという事実を、何よりも雄弁に物語っていた。
 ふたりの番卒は、声を上げつつ一斉に目の前の大男へと打ちかかった。
 見るからに素人然とした不慣れな動きであるが、思い切り振り上げた六尺棒をそれぞれが男の肩口目がけて打ち下ろしていく。
 それは、およそひとを殴りつけるための動きではなかった。
 番卒たちは男の肩を左右いっぺんに押さえ付け、まず身体の自由を封じてしまおうと目論んだのだ。
 だが彼らの意図に反して、大男の身体は文字どおり微動だにしなかった。
 番卒たちがおのれの体重をいくら必死になって浴びせても、男の巨体が揺らぐような素振りはまったく見えない。
 まるで岩。
 ふたりの番卒は、ほとんど同時に、そしてまったく同じ感触を得た。
 こいつはまるで布団で包んだ岩のようだ。
 なんだ、こいつは。
 なんだ、こいつは。
 本当に俺たちと同じ人間の身体なのか?
 こいつの身体は、いったい何でできているというんだ?
 男の両手が左右それぞれに六尺棒を掴んだのは、次の刹那の出来事だった。
 ぎょっとする番卒たちの表情を一瞥するまでもなく、そのごつい手が一気に左右へ広げられる。
 凄まじい膂力だった。
 握ったままのおのが得物に身体ごと振り回され、番卒たちは等しくその足下の平行を崩してしまう。
 六尺棒から離れた男の手が、今度は番卒たちの頭を外側から押さえた。
 抵抗の間を与えず、それらをごつんと衝突させる。
 鈍い音が響き、番卒たちは一瞬意識を失った。
 大男は、そんな彼らを軽く後ろへ突き飛ばす。
 糸の切れた操り人形のごとく、番卒たちはよろめきながら尻餅をついた。
 我に返った番卒たちが、狼狽した目で男を見上げる。
 そこに宿った色彩は、あからさまな恐怖そのものだった。
 じりじりと尻を引きずって後退りながら、歯の根の合わない口で彼らは呟く。
「化け物だ」
 やにわに立ち上がったふたりの番卒は、目の前で仁王立ちする大男に背を向けて脱兎のごとく逃げ出した。
 つい先ほどまで持っていた守衛としての義務感など、もはや完全に雲散霧消してしまっていた。
 手の中の六尺棒を勢いよく放り捨て、転がるように高麗門の小口目がけて走り出す。
 大男は、そんなふたりが城内へと逃げ込んでいくさまをじっと動かず眺めていた。
 目深に被った編み笠が見事なまでに彼の表情を衆目から隠していたが、その泰然たる態度からして、彼にとってはこれが想定どおりの出来事なのだとうかがい知ることは容易かった。
「うまくいったみたいだね」
 いつの間にか大男の側にまで駆け寄ってきていたひとりの少年が、弾んだ声でそう言った。
 少年とはいえ、その体付きからして年はせいぜい十を越えたあたりだろう。
 いかにも武芸者然とした大男とは異なり、こちらは典型的な庶民の子供といった感じの出で立ちだ。
 しかしながら、意識して大男と同じく大人用の大きな編み笠を被っていることに違いはない。
 ともに顔を隠す目的があることに疑う余地はなかった。
 そんな少年の言葉に男は答える。
「ここまではな」
 平然とした口振りで彼は言った。
「あとは、あのふたりがこっちの意図をうまく伝えてくれるかどうかだ」
「でもさ、最初に師匠の話を聞かされた時には驚いたよ」
 どこか呆れた風に少年が応じた。
「だってそうじゃないか。ちゃんと考えがあるって言うもんだから、それってどんなのだよって聞いてみたら、莫迦正直に真っ正面から城の殿さまに直談判するなんて言い出すんだぜ。それってさ、普通、『考え』って言わないんじゃないのかい? おいら正直、とうとうこのひと血迷っちまったんじゃないかって思っちまったよ」
「俺たちは、別段間違ったことをしようとしてるわけじゃない」
 自信満々に男は言った。
「だったら、ここは当然、胸を張って堂々と正面から行くのが正道ってものだろ。わざわざこっちから卑屈になってやる必要があるとは思えないな」
「そりゃあ、そうだろうけどさぁ……」
「鼓太郎。おまえもプロレスラーになろうっていうのなら、これだけはおぼえとけ」
 そんな少年の態度に若干の微笑ましさを感じ取ったのだろうか。
 男もまた、重々しさなど欠片も感じられぬ朗らかな声でこれに応えた。
「プロレスラーになった奴、それとこれからプロレスラーになろうって奴の中に、血迷ってない奴なんてひとりもいないんだ」
 ぎぎぎ、と耳障りな音を立てつつ鉄門の扉が開き始めたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
 つい先刻この大男のとった無法の行いに対する、城方が見せた初めての反応。
 それをしかと認めた大男が、何気なく思ったことを口にする。
「うまいこと上に話が通ったのかな?」
 だが傍らの少年が、「残念だけど、そんなわけじゃなさそうだぜ」とすぐさまそれを否定した。
 大男のほうもまた、「だろうな」とあっさりその意見に同調する。
 彼らがそう判断するだけの理由は、誰の目から見ても明らかだった。
 半開きとなった門の向こうに現れたものが、手に手に得物を握り締めた複数の中間どもの姿だったからだ。
 もちろん、それらが歓迎の使者でなどあろうはずもなかった。
 たとえ世に名高い天下一の楽天家であろうとも、そんなことは思いも寄らぬことであったろう。
 内側へ向けてゆっくりと口を開けつつある城門の隙間から、子供のように飾り気のない敵意が怒濤の勢いで吹き出してくる。
 それに背中を押された多数の中間どもがこちら目がけて押し寄せてくるのも、もう間もなくのことだと思われた。
 大男の足が激しく大地を蹴り飛ばした。
 身の丈六尺(約一.八メートル)あまりの巨体が放たれた鉄砲玉のように前方へと飛び出す。
 鉄門の向こうから先陣を切って駆け出してきたひとりの若い中間が、それを見て瞬時に表情を凍り付かせた。
 直前まで薄ら笑いを浮かべていた口元が、たちまちのうちに恐怖で引きつる。
 無理もあるまい。
 突撃してくる巨漢の存在を彼が認識し得た時、それはもうこちらから一間(約二メートル)弱の間合いにまで迫りつつあったのだから。
 奇襲攻撃。
 城門までのわずかな距離をほとんど数歩で踏破した大男は、まだ隊形を整えていなかった中間どもの機先を、見事制することに成功したのである。
 「ひぃ」という声にならない声が、若い中間の口から漏れ出した。
 踏み出そうとした最初の一歩が、見えない壁にぶつかったかのごとくその場でぴたりと停止する。
 大男の右足が真正面から彼の胸板を撃ち抜いたのは、まさしくその直後のことだった。
 小細工などまったくない、莫迦正直なまでのただの前蹴りだ。
 だが目一杯体重の乗っかったその一撃は、若い中間の肉体を軽々と後方へ吹き飛ばすだけの破壊力を秘めていた。
 あたかもつぶてのように宙を舞った人体が、そのままの勢いで後続する中間どもの真っ只中へと突っ込んだ。
 巻き添えを食らった数名が、彼我の身体を支えきれずに悲鳴を上げて転倒する。
 たちまちのうちに混乱が巻き起こった。
 指揮者に統率されているわけではない烏合の衆の、それはさだめとでも言うべき必然的な限界だった。
「曲者だぁ! 曲者だぁ!」
 浮き足だった中間どもの中央に、いま前衛を蹴散らしたばかりの大男が一直線に躍り込んで来た。
 戦列を組むことも叶わず、中間たちは狼狽しながら右往左往し始める。
 大男の図太い四肢が勢いよく振り回されるたびに、次々と中間どもが地に伏した。
 ある者は打ち倒され、ある者は投げ倒され、そしてまたある者は踏み倒された。
 秩序ある陣形を整えてこそ初めて効力を発揮する長柄の得物は、これだけ互いの距離を詰められてしまったいま、完全なる無用の長物へと変わり果ててしまっていた。
 そしてそれは、無法な侵入者に立ち向かうこの健気な男たちが、哀れにも手中の武器を失ってしまったことをも意味していた。
 戦意の崩壊が始まった。
 十人余りいたはずの中間どもが我先にと見るも無残な敗走を開始するまで、それからさほどの時間は要しなかった。
 ひとたび砕け散った士気(モラール)が最前線で回復することなど、現実的にはまずありえない。
 奇跡の一種とさえ言える。
 苦悶の表情を浮かべて地面の上に横たわる仲間たちを置き去りにして、残った者たちは一目散にこの場からの逃走を図った。
 それは誰が見ても集団としての体を成さない、文字どおりの四分五裂という有様だった。
 逃げ出した中間たちのうちの誰かが、わずかに残った責任感のもと、渾身の力で呼び子を吹いた。
 ぴーという甲高く鋭い音色が、朝の大気を切り裂きながら周囲に向かって響き渡る。
 間違いなく、自分たちに代わるべき援軍をいずこからか召し出そうとしたのだ。
 その努力に対する反応はすぐさまあった。おそらくは南北二段構えに設けられた三の丸の、その南側部分からやってきたのであろう。
 新手の中間どもが、逃げ出した者たちと入れ代わるようにして次々と駆け付けてくる様子がこの場からもはっきりとうかがえた。
 彼らの先手がほとんど状況を把握しないまま、大男の前に立ちはだかった。
 それは、青年と呼ぶにはいささか若すぎる年代の者たちだった。
 そのためなのか、長柄を構える腰つきこそてんでなってはいなかったが、放出する闘争心だけは見るからに旺盛だった。
 もちろん、若さゆえ肉体的にも力があるのは言うまでもない。
 しかしその数は、残念ながら片手の指にも及ばないものだった。
 この時、冷静になって目の前の状況へと思いを巡らせば、ここは落ち着いて後続を待つのが正解だということぐらい未熟な彼らにだってわかったはずだ。
 にも関わらず、この若い中間たちは眼前の侵入者に真っ向から戦いを挑んだ。
 大人への過渡期によくある大胆不敵と言えば聞こえこそいいが、これはやはり浅慮の誹りは免れまい。
 功の焦りを非難されてもやむを得ないものと断言できた。
 そんな彼らの猪振りを、だがこの大男は見逃してなどくれなかった。
 あとに続く別口の者たちとの合流を果たされる前に、彼は若者たちとの間合いを一歩二歩と詰め始める。
 おのれに向かって差し向けられた得物の先など、まったく無視した行動だった。
 これを自分たちへの明確な侮辱と受け取った若者たちが、顔中を真っ赤に染め上げ大声を上げながら一気呵成に突進した。
 彼らの眼中には、平然と歩み寄ってくる大男の姿以外、もはや何物も映っていない。
 あまりといえばあまりに過ぎる不用意さだった。
 足下へと水平に差し込まれた六尺棒に若者たちが気付いたのは、それが自分たちの足をまともに刈り取ったことを知った、まさしくその刹那のことだった。
 彼らはいままさに打ちかからんとしていた大男に忠実な仲間がいることを、まったく知らずにいたのである。
 そっと側面へと忍び寄った少年の突き出した一本の棒が、突貫中の中間たちに次々と転倒という結果をもたらした。
 若い中間たちは完全に不意を打たれ、受け身も取れず上半身から足下目がけて身を投げた。
 短い悲鳴が立て続けにあがる。
 大男は、そんな彼らに容赦なく襲いかかった。
 連続して振り下ろされた太い足が、たちまちのうちに若者たちを制圧していく。
 なんとか立ち上がることのできた者には、強烈な張り手がその顔面へと見舞われた。
 ばしっという大きな音とともに、若者の身体が地面の上にもんどりうって叩き付けられる。
 立ち上がることのできたもうひとりの若者が、そんな仲間たちを救わんとして大男の背中を六尺棒にて打ち据えた。
 渾身の力を込めての一撃だった。
 しかし、大男の肉体は文字どおりびくともしなかった。
 まるで何事もなかったかのように振り向いた大男は、こちらもまた彼の気概に応じるよう丸太のごとき右腕を水平に打ち払った。
 防御のため縦に構えられた六尺棒が、鈍い音を立ててふたつに折れた。
 目の前わずか一寸先に展開した現実が、若者の心をも完膚なきにまでへし折った。
「化け物だ」
 つい先ほど鉄門の番卒たちが口にした言葉を、彼の唇もまた紡ぎ出した。
 後続してきた新参の者どもと、先だって大男の手で打ち倒されながらも心身の回復に成功した者どもとが、その手に長柄を構えつつ遠巻きに大男と少年とを包囲する。
 しかし、あえてこれに打ちかかろうとする者は誰ひとりとしていなかった。
 皆が皆、互いの間合いをはるかに越えた位置で群れ集まったまま、そこから先には一歩たりとも踏み込もうとしないのである。
 物理的な恐怖心によるものではなかった。
 彼らとて頭でわかってはいたはずなのだ。
 犠牲を顧みず各々が力を合わせて打ちかかれば、自分たちがこの剛力の男を封じ得ることに疑う余地など微塵もないということを。
 戦において数は力だ。
 軍記物などに登場する一騎当千の武将にしたところで、実際に千人もの兵士と戦って単身これを撃破できるわけではない。
 いかなる勇者であろうとも、それが人間である以上、圧倒的多数の敵を凌駕できるだけのフィジカルな理由など保有し得るはずがないのである。
 だが、現実に中間どもの足は前に出ようとしなかった。
 明白な勝ち戦であることが計算できるにもかかわらず、だ。
 なぜか?
 それはこの時、両者の間で明確な序列が成立してしまっていたからだった。
 いわゆる「戦士」としての序列。
 いわゆる「男子」としての序列。
 うまく言葉では説明できないが、雄と雄との間に間違いなく存在する本能的な上下関係。
 およそ理屈だけでは解析できない、紛うことなき生物としての絶対的カースト。
 そんな理不尽極まる格付けが、いまここに集まった中間どもとこの逞しい大男との間には、有無を言わせぬ強烈さで構築されてしまっていたのだった。
 ひとたび完成したその階層をおのが実力でもって打破するのは、決して容易なことではない。
 なんらかの力をもって行う現状の変革は、必ずやおびただしい量の血と汗とを要求するからだ。
 少なくともそれは、真っ先に自己保身の計算が頭をよぎる凡夫などには到底求めても得られないものだった。
 大男がのそりと一歩を踏み出すたびに、中間どもの形成する同心円が同じ距離だけ移動する。
 それは、とてつもなく異様な光景だった。
 あまりにも現実離れした光景だった。
 大男を中心に発生した無類なる緊張感が、ただでさえ張り詰めた大気の密度を見る見るうちに数倍させる。
 数十人を数える中間どものことごとくが、その肉体とともに精神までもを石のように強ばらせていた。
 息を呑み、ある意味では自分で何かを考えることさえ否定していた。
 どうすればいい、と戸惑うことすらしなかった。
 息苦しい沈黙が続くなか、ただこの状況を変えてくれる何者かの出現をおのれを殺して待ち続けているというのが実情だった。
 そんな硬直した状況が、どれぐらい続いてからのことだろうか。
 大男を包囲する彼らのもとへ、新たなる人影がさざ波のごとくに押し寄せてきた。
 城内からの援軍だった。
 たすき姿も雄々しげな高山藩士たちの集団だ。
 人数は、まず十人は下るまい。
 ひと目見ただけで合戦準備を終えているのがわかる彼らは、中間どもの形成する人垣を力業で押し退けるや否や、おのが城へと乗り込んできた無礼千万な不届き者と真正面から向かい合った。
 腰の刀こそ抜いてはいないが、そのみなぎる殺意と闘志とは、やはり中間どもとは比べものにはならない。
 大男もそれに気付いたのだろう。その場でしばし足を止め、いかにも泰然とした素振りで藩士たちと対峙する。
 余裕ゆえか、それとも胆力がゆえか。
 その手足は、戦うための位置になど置かれてはいなかった。
 それは、自ら争い事を放棄しているかのごとき趣さえ感じ取れる態度だった。
「我が殿に会いたいと申しておるのはそなたか?」
 藩士たちの先頭に立つ壮年の侍が、そう言い放ちながらゆっくり数歩前に出た。
 年は五十をわずかに過ぎたあたり、といったところだろうか。
 おそらくは、この者どもの指揮者なのであろう。
 小兵だ。
 だが、小柄な体躯に相応しくない威厳と風格とを備えている。
 鋭い眼差しを大男に投げかけると同時に、彼はおのが口の端を不敵なまでに吊り上げた。
 武士らしい、小気味よい闘志に満ち満ちた歓喜の笑いだ。
 ふん、と小さく鼻を鳴らしてから、朗々たる声でその侍は言葉を続けた。
「なんとも天晴れな剛の者よのう。わしがあと十年若ければ、たとえなんと言われようとも、手に槍を持って見事そなたと立ち会ってくれたものを」
 それは不躾であると同時に、なんとも直接的な宣告だった。
 聞きようによっては、形を変えた立ち会いの申し込みと受け止めることもできた。
 発言者の目の奥には、微かな殺意の色さえ見える。
 彼の言葉に嘘偽りがないことは、誰の目にも明らかだった。
 しかしそれでも、大男はわずかなひるみも見せなかった。
 向けられた細い殺気を受け流し、あたかも世間話でもするかのような気軽さで彼は短く口を開いた。
「あなたは?」
「これは失礼仕った」
 男の誰何に軽く一礼しながら、その壮年の侍は答えた。
「拙者、金森出雲守が家人、飛騨高山藩武者奉行・山田恵一郎と申す。我が主君・出雲守が言を、そのままそなたに伝えたい」
 大男の返事を待たずして、その恵一郎と名乗る壮年の侍は単刀直入におのが主君の意向を告げた。
「我が殿におかれては、本日これよりそなたと直々に面談いたすゆえ本丸下中段屋形まで御身を無事に案内せよ、との仰せである。これより拙者がその場へと先導いたすゆえ、これ以上の手向かいは無用にござる。おとなしゅう我があとに追従されたい」
「承知」
 満足げに口元をほころばせ、大男は応えた。
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