第四十六話:決戦の刻

文字数 10,836文字

 刻は、おおよそ明六ツ半(午前六時頃)
 頂に高山城の天守を構える臥牛山の傾斜地には一面に渡って真っ白な朝霞がかかり、その趣を遠目に眺めることさえ叶えば、ひとは木々の織りなす繊細な羽衣が優しく地表を覆っているさまをありありと目にすることができたであろう。
 それは、実に幻想的で美しい光景だった。
 もし名のある俳人がこの情景を句にしたためる機会を得たならば、あるいはその作品は彼の者の代表作として永く後世に伝えられることとなったやもしれぬ。
 日輪が完全に昇りきり、澄み切った青が大半を占めるようになった天空で、数羽の鳶が甲高い鳴き声を上げながら気持ちよさそうに宙を舞っているいま。
 まだ肌寒い山の微風に後押しされたなんとも朧な純白は堅固な城壁を乗り越えながら曲輪の中へと漂い込み、かき消されることなく自らの存在を主張するまでに至っていた。
 その状況は、山の中腹に位置する東西ふたつの二の丸において、より一層顕著なものであったと言える。
 それら曲輪の内側で夜明け前より忙しく立ち回っていた藩士たちの群れを見るに、それはあたかもうっすらと立ちこめる白雲を掻き分けているようにさえうかがえるほどだった。
 そんな高山城二の丸の片割れ、城の縄張では東側のそれにあたる庭樹院館と呼ばれる曲輪では、この時、濃密なまでに厳粛な空気が立ちこめているのを感じ取ることができた。
 曲輪の中央でコの字の形に建てられている大きな屋敷のその中庭。
 丁寧に小石が敷き詰められよく手入れがなされた立派な白州の真ん中に、なんとも見慣れない代物が鎮座しているのを見て取れる。
 その左右に家紋を戴く陣幕が張られ、まさしく武芸者同士の立ち合いの場として相応しい雰囲気を醸し出す空間の中央で、堂々とおのが存在感を誇示しているその見慣れない物体──それは、一辺が三間半(約六.五メートル)ほどある正方形の、一見して舞楽に使う装置のごとき舞台であった。
 平らにならした白州の上に厚さ二寸(約六センチ)弱ある板を敷き、さらに畳の藁床を二枚重ねたその表面を丈夫な麻布でもって覆いつつ、これを動かぬようきっちりと固定したものだ。
 その四隅にはひとの背丈を優に超えるだけの太い木製の柱が打ち込まれ、床面をおよそ三尺(約九十センチ)ほどの高さでしっかり支えるようになっている。
 それだけであってもなかなかの異様だというのに、なお一層見る者の目を引き付けるのは、頑丈な支柱の間にぴしりと張られた、上下三本の太い麻縄の存在だった。
 その直径は一寸(約三センチ)弱。
 よほどの衝撃を受けぬ限り外れたりずれたりなどしないよう金具をもって支柱に固定されたそれらは、まるで設けられたその舞台を俗なる巷と切り離すために囲む、いわゆる結界のごとくにさえ感じ取れた。
 それは、まさしく「リング」そのものであった。
 改めて言うまでもなく、主にボクシングや総合格闘技(MMA)、そして何よりもプロフェッショナルレスリングの闘技場として機能することを目的としたその施設。
 無論、いまだ十八世紀にも達していないこの元禄の世において、十九世紀の後半に原型が形作られたリングという存在を知る者など、その例外たるただひとりの男を除けばまったくの絶無であると断言できた。
 ゆえに、その佇まいに奇異の視線を注ぐ人間は少ない数に収まらなかった。
 生まれて初めてそれを見る者は言うに及ばず、その設営を具体的に依頼された者、実際にその設営に携わった者、いやいや、そもそもそれ自体を形成する材料の調達に奔走した者たちまでもが、自分たちがいったい何をこしらえているものかをさっぱり理解できぬまま、これまでただ与えられた作業に黙々と従事してきたのだ。
 いまこの場に集う高山藩の侍たちが皆等しく同じ感想を抱くのも、これはまた至極もっともな反応だ、と言い切ることすら可能だった。
 やがて一陣の秋風がさっと曲輪の中を吹き渡り、あたりにたゆらう朝霞の残滓をいずこへともなく運び去っていくのが見て取れた。
 直後、それを合図としたかのように厳かな静寂が来訪し、陣幕の周囲に控える腕利きの藩士たちが慇懃に姿勢を改め片膝を付く。
 高山藩主・金森出雲守頼時とその姪である少女・秋山葵を引き連れた徳川三位中将光圀が中庭に面する庭樹院館の書院へとその姿を現したのは、まさにそんなおりの出来事であった。
 三つ葉葵も目に眩しい、紋付きの羽織袴を身に付けた常陸水戸二十八万石の領主。
 その実に悠然たる立ち居振る舞いからは、彼が「ちりめん問屋の隠居」を名乗っていた時に発していたひょうひょうたる雰囲気などもはや微塵も感じられない。
 先に場を占めていた藩士たちが一斉に頭を下げるなか、この徳川一門の長老たる人物は定められた書院の中央にゆるりとした仕草で着座した。
 その右の座には頼時が、そして左の座には葵が老爺を挟むようにして膝を折り、それぞれ金森重詰を初めとする金森家親族と姉倉玄蕃を筆頭とする譜代の家臣団とがそれに並んで従った。
 そんな彼らの眼前にエチオピアの黒人戦士・ボブサプがなんとも似合わない裃姿で進み出てきたのは、およそひと呼吸を置いてからのことだ。
 小山のごとき巨体を揺らし傲然と分厚い胸板を反らしながら白州を歩むこの男は、おのれより高位の身分にある者どもなどには一瞥もせず、素足のまま場の中央に設けられた舞台へと登る。
 扇子を右手に仁王立ちする彼は、続けざまに抑揚の足りない大声でもって宣言を発する。
 彼は言った。
「青龍の方! 柳生蝶之進殿、入場!」
 ボブサプがそう宣るや否や、武芸者・柳生蝶之進こと白髪の僧侶・頭白が、書院から見て右側の陣幕、その向こう側より登場した。
 上下ともに黒ずくめの道着を身にまとった彼は、おのが双眸をあたかも獲物を狙う鷹のようにぎらつかせつつ先に黒人戦士が立つ舞台に向かい一礼すると、なんとも落ち着いた態度でもってその上へと足を運んだ。
 その肉体には、まさしく気合いという名のエナジーが溢れんばかりに漲っていた。
 山肌を流れる溶岩が周囲の巨岩を赤く照らすかのごとく、その熱量は見る者すべての根幹に明らかな変化をもたらしている。
 陣幕の側に控える藩士たちの幾名かが自らの拳を力強く握り締めたことからも、それはまったく疑いようのない事実だった。
 舞台上から改めて書院の方角へと頭を下げた頭白の視線が、ほんの一瞬だが葵のそれと重なり合った。
 無言のままに、その眼差しは少女に向かって断固たる決意のほどを伝えている。
 少なくとも葵には、葵だけにはそのことが理解できた。
 頭白さま──彼女はその時、過日の午後、おのれがこの異形の僧侶と語り合ったわずかな時間をいささかの感傷とともに思い出していた。
 それは、徒手空拳の古橋ケンタが堂々高山城へと乗り込んできたあの日、そう、城全体を巻き込んだであろう大騒動が水戸光圀の裁定でいったんは終息したかに見えた、まさしくあの日の昼下がりに交わされた短くも濃密な会話であった。
「それがし、改めて葵殿に謝らねばなりませぬ」
 人払いがなされ彼我ふたりきりとなった座敷の中。
 対面する少女に向かっていざ神妙に額ずきながら、この白髪の僧侶はおのれの言葉をとうとうと語り始めた。
「もし本当に葵殿のしあわせを考えるならば、それがしがなれあい(八百長)の試合を行い、あえてその勝ち星を古橋殿へと譲渡いたすが最良の手筈とは心得まする。されど、彼の御仁に葵殿のこれからという負けられぬ理が存在するのと同様、それがしにもまた、決して負けるわけにはいかぬれっきとした理由がございます。葵殿だけには何卒そのことをご理解いただきたく、この頭白、いまこうして願い奉る所存にてござる」
 彼の言う負けられない理由というものとは、おそらく尾張名古屋に残してきたあの子供たちのことなのだな、と葵はこの時、何気なく直感した。
 この僧侶は、あの子供たちをなんらかの形で人質に取られることで、おのれの意に反した行いに手を染めざるをえない立場を強制されているのだろう。
 確かにそう考えれば、すべてにおいて合点がいく。
 この誠実であることについては疑う余地などまったくないひとりの僧侶が、あの不実であることの明白な鷲鼻の城代家老になぜ仕えているのだろうかという違和感を、その推測はものの見事に説明付けていた。
 そしてもうひとつ、彼の言葉の裏にひそんでいたもの。
 それは、この男が体奥深く身に付けた武人としての矜恃だった。
 この時、はっきりと口には出さなかったものの、頭白は心底よりケンタとの決戦を希望していたのだ。
 何者の意志にも左右されず、ただ稚拙なまでに男同士、その力量を比べ合うこと。
 そこになれあいの割り込む不純な隙間などを、彼は微塵も持ち込みたくなかったのであろう。
 それが身勝手な理屈であると重々承知していたにもかかわらず、白髪の僧侶はその思いを押し殺すことができずにいた。
 仏に仕える者として、私心を制して選ばねばならぬ目の前の少女を救う道。
 その道筋にあえて目を背け、彼はいま、おのれの我意を通そうとしていた。
 あるいは人質云々という事柄すら、この男にとってはその意を達成するための口実でしかなかったのやもしれぬ。
 葵には、頭白の苦悩が手に取るように理解できた。
 左様汚き思惑に突き動かされるおのれ自身を心より恥じ、恥じ入りつつもなおその先に向かう足を止められぬ自分。
 おのれ()こころ()と書いて忌まわしいと呼ぶ。
 忌まわしき自らを素直に受け入れられるだけの邪さ。
 そんな代物をその胸中に携えておれば、あるいはこれほどの苦しみを味わうこともなかったのだろう。
 その純粋なるがゆえにそうした要素をおのが体内に抱え込めなかったことが、この男の持って生まれた不幸であった。
 なんとも不器用な御方でありますこと。
 ふと、葵の心中にそんな思いがよぎって消えた。
 おのれの置かれた現状を忘れ、つい本心からの微笑みさえもがその表情に浮かび上がってきてしまう。
 それは、彼女が生来より備えた「おんな」としての本能だった。
 戦場へ赴く「おとこ」を心静かに送り出すため、生粋の「おんな」が備えたその本能。
 武門の家の女子としてその遺伝子を色濃く受け継いできたこの少女は、いまそうした色合いを隠すことなくあらわにした。
「どうかお顔を上げてくださいませ、頭白さま」
 なんとも親しげな口振りで、葵は頭白に声をかけた。
「古来より勝敗は兵家の常と申します。葵は武芸者(秋山弥兵衛)の子として生まれ武勇の方(古橋ケンタ)の妻となるよう心定めた娘でありますれば、その事柄は他の誰よりもよくわかっているつもりでございます。ゆえに頭白さま。そのようなお心遣いは、いまの私には無用に願います」
「葵殿!」
 はたと面を上げて頭白が応じる。
「かたじけのうござる」
「頭白さま」
 そんな頭白に葵は続けた。
「左様な礼を口になされるのは、いささか気が早うございます」
「は?」
「謝らねばならぬのは、むしろ私のほうとなるやもしれませんのに」
 にこやかに相好を崩しながら彼女は言った。
「あなたさまにとっては不本意な結末となりましょうが、此度の立ち合い、お勝ちになるのは古橋さまでありますがゆえ」
「葵殿……」
「過日、あの方は私に約束をしてくださいました。必ずや、一命をかけてもこの身を守ってくださると。そして、あの方はその約定を果たされるため、望んで死地に赴いてくださいました。命永らえたくばそのまま身を隠すこともできたでありましょうに、あの方は傷付いたおのれの身体をものともとせず、あの濁流より生還し、いま私の前にその姿を現してくださったのです。
 葵は、なんとしてもその思いに応えねばなりません。あの方の唯一無二の『ふぁん』として、そして何よりあの方を心から想うひとりの娘として、葵は古橋さまの勝利以外をこの胸に思い浮かべることなどできません。そのようなことはできないのです。
 頭白さま。古橋さまは、必ずやお勝ちになります。
 もしそのことがあなたさまに不幸をもたらすこととなった暁には、古橋さまではなく、この私がすべての責めを負いますがゆえ、何卒ご容赦いただきますよう伏してお願い申し上げます」
 そのおりに交わしたおのれの言葉を何度も何度も反芻し、葵は膝の上に載せた拳をきゅっと力強く握り締めた。
 帯に差したおのが懐剣。
 絹の袋に収められ、小さな鈴の付いた紐で封をされた、その母の形見へと意識を回し、彼女は二、三度ゆっくり瞬きをする。
 南無八幡大菩薩。
 小さく念仏を唱えながら、葵は心中でひとりごちた。
 御仏よ。
 どうか古橋さまに、私の想い人に御身が力をお授けください。
 ご武運をお授けください。
 ここに我が願い聞き届けていただけましたなら、残る生涯のすべてをもってあなたさまへの忠を尽くす所存でございますゆえ、御仏よ、何卒、何卒、葵が願いを叶えてやってくださいませ!
 されど、もし我が望み叶わずあの方の御身に災い訪れたるときには……御仏よ、八幡神よ、この身はもはやあなたさまを拝むことなど永久(とこしえ)にありませぬゆえ、どうかそのお覚悟でいてくださいませ!
 悲壮な決意を抱きつつ葵が唇をかみ締めるのと前後して、場の只中にボブサプの声が大音量で響き渡る。
「朱雀の方! 古橋ケンタ殿、入場!」
 間を置くことなく風が吹き、雲が流れ、わずかに陰っていた秋空の陽光がその隙間から地表目がけてまっしぐらに降り注ぐ。
 その名を呼ばれたもう一方の対戦者、古橋ケンタが陣幕の向こうより悠々と歩み出てきたのは、まさしくその直後の出来事だった。
 刹那、彼の様相を目の当たりにした者たちから、声にならないどよめきが自然発生的に湧き起こる。
 それもそのはずだった。背後に鼓太郎とおみつ、そして茂助の三人を従者のごとく引き連れたこの大男の見目形は、およそこれまで彼らが目にしたことのある立ち合いの出で立ちとはまったく異なるそれであったのだからだ。
 あろうことか、彼の外見はほとんど全裸に近いものであった。
 見た目的には、角力の力士に似ていると言えるかもしれない。
 その身に付けている衣と言えは、廻しと同様、腰部を覆うわずかな布地があるだけだ。
 だが、ケンタのまとっていた服装は、明らかに角力褌などという代物ではなかった。
 あのようにきっちりと締め込まれた頑固な存在とは違い、本当にただ腰回りを衆目より隠すためだけの目的をもって仕立てられた、それは文字どおり黒一色のボトムスであった。
 それがいったいいかなる類いの衣装であるのか、この元禄時代に生きる日本人たちが知らぬのもまったくもって無理はない。
 それは、紛れもなく「黒のショートタイツ」そのものだった。
 柄のようなものなどは何ひとつとして描かれていない、ただ黒く染め上げられただけの丈が短いズボンの一種。
 この時代の日本には存在するはずもない、シンプル極まる下半身用アウターウェア。
 しかし、これより数百年後の世に産まれた日本人であれば、斯様ななりでもってせきららに肌を晒した男性が果たしていかなる役目を背負った者か、そのことを認識できる人間はかなりの数に及んだだろう。
 そう、それはまさしく「格闘家」の、いや「戦う男(プロレスラー)」の正装だった。
 古橋ケンタは、この乾坤一擲とも言える大一番に際し、おのれの自尊心(プライド)、そのすべてを注ぎ込む心意気をおのが衣装に託したのである。
 この場にいる者たちには決して理解されないであろうその心情を、文字どおり自身の身形でもって表したのである。
 極限まで鍛え上げられた金剛力士もかくやと思える肉体をただ黒のショートタイツ一枚のみで覆い、この時代に存在する唯一無二のプロレスラーは、驕ることなく、猛ることなく、清々しささえ感じさせる空気を全身にまといつつ、対戦相手の待つ戦場へ向けゆっくりと歩を進めて行った。
 その両肩に羽織られていたものは、これまた黒一色に染められたフード付きのロングガウンである。
 おそらくは、おみつあたりがその手でもってこしらえたのであろう。
 丁寧に縫い上げられたガウンの袖にゆったりと腕を通したケンタは、およそ矢のように降り注ぐ奇異の視線などには目もくれず、目深に被ったフードの下から舞台の上で彼を待つ精悍無比なひとりの男へ、闘志漲る眼差しをただ一直線に送り込んだ。
 爛々と煌めくその眼光は灼熱の戦意が音を立てて色を成す頭白のそれとは一線を画し、あたかも雄大な山々の峰を思わせる、静かで、落ち着いた、どこか求道者のごとき趣をその奥底深くに秘めていた。
 やがて軽快な足取りで舞台上へと登ったケンタは、まるでおのが勇姿を周囲に見せつけるかのように、天空目がけて右の拳を突き上げた。
 次いで脱ぎ捨てたロングガウンを舞台下で控える鼓太郎たちへ手渡すと、支柱の間に張られた縄の感触を確かめるよう、それを数回背中で押す。
 暖機運転(ウォーミングアップ)はとうに済ませてきたのであろう。
 実に血色良くぱんぱんに張り詰めたケンタの肌の上では、まさにその調子の良さを証明するかのごとく、滲む汗が陽光を反射してきらきらと輝いていた。
「師匠、負けんな!」
「古橋さま、頑張ってくださいよう」
 見るからにいきり立つ鼓太郎と心許なげに胸の前で手を合わせるおみつ──眼下に控えるふたりから左様な声を掛けられたケンタが、肩越しに振り返りつつ大きく頷く。
 傍目からは、その落ち着き払った態度が彼の持つ心の余裕、その現れのごとくに見て取れた。
 なんということだ。
 そんなケンタの様子を目の当たりにした姉倉玄蕃が、即座にその顔色を失った。
 うろたえたように視線を巡らせ、藩士に紛れ陣幕近くで控えていたおのが腹心・生島数馬に目線でもって訴える。
 そなたの計略によれば、彼の男は薬を盛られ身体の自由が効かぬようなっている手筈ではなかったのか?
 見よ、あの有様を。
 どこをどのようにうかがおうとも、そなたの思うようになっておらぬは明白ではないか!
 想定外の自体に狼狽したのは玄蕃だけではなかった。言葉にならぬ叱責を受けた数馬もまた、おのれの策謀が的を外したを知ることで歯軋りせざるを得ない立場へと陥っていたのだった。
 思わず叫び出したくなる衝動を必死になって押さえ込み、心の中で彼は、あの神経質そうな禿頭の侍医に向け呪詛の言葉を投げ付けた。
 大村寿仙!
 あの無能者め!
 しくじったのか!
 何があったのかはわからない。
 しかし、何が起きたのかは明らかだった。
 数馬がおのれの策を託した医師は、あろうことかその信頼に応えることに失敗した。
 それだけは、いまとなっては覆しようのない事実であった。
 彼は自身の判断を激しく悔やんだ。
 やはり失敗の許されない計略は、いささかも他人の手に頼ることなく、おのが目の届く範囲で実行すべきであったと。
 だが、すべてはあとの祭りだ。
 こうなっては、玄蕃も数馬も戦いの成り行きに黙って身を任せるほかに道はない。
 それをしかと認識した瞬間、数馬の意識は眼前の舞台に立つ白髪の僧侶の姿へ向けられた。
 彼は思った。
 柳生蝶之進。
 この立ち合い、負けることなど許さぬぞ。
 たとえ神仏がそれを許そうとも、この私が断じてそれを許さぬぞ。
 もしおぬしが無様な醜態を晒す羽目となったおりにはおぬしの可愛がってきた童子(わらし)どもがいかなる最期を遂げるものか、そのことを肝に銘じて戦うのだ!
 わかったな!
 わかったな!
 わかったな!
 一方、数馬から左様理不尽な要求を投げかけられていることを知らぬ白髪の僧侶・頭白は、いま舞台中央にて対戦者・古橋ケンタと真っ向から対峙していた。
 文字どおり胸板を付き合わせんばかりの距離で顔を見合わせるふたりの間で、静かな会話だけが流れるように行き来する。
「古橋殿」
 その口火を切ったのは頭白だった。
「なろうことなら、お互い斯様な立場を背負うことなく、思う存分矛を交えてみたいと思うておりました。勝ち負けの結果など微塵も考えることなく、ただ同じ地の上空の下で、そこもと相手に思い切り身に付けた技を振るってみたいと熱望しておりました」
「俺も同じようなことを考えてましたよ、頭白さん」
「されど──」
 ケンタからの応答を聞いた異形の僧侶はわずかに目を伏せ、やや口元を綻ばせつつ言葉を続ける。彼は言った。
「されど、それもいま叶わぬこととなり果て申した。そこもとに葵殿という負けられぬ理由があるのと同様、それがしにもまた負けられぬ理由というものがあり申す。
 古橋殿。それがし、そのことをそこもとに理解していただけるとは思うておりませぬ。なれどそれがし、唯一示せるそこもとへの礼儀として、いまここに正々堂々真正面より立ち向かうことを御仏に誓ってお約束いたす。誰恥じ入ることなきまっとうな戦いを、そこもと相手に展開するを天に誓ってお約束いたす。何卒それで、我が罪業をお許しいただきたい」
「よかった」
 その発言を受けたケンタもまた、彼に合わせて相好を崩した。
「やっぱりあなたは頭白さんだ。俺の知ってる頭白さんだ。どうやらこれで、あなたを信じて戦えるみたいだ。あなたを信じて、全力を尽くしてもいいみたいだ」
 どこか嬉しそうに彼は言った。
「頭白さん。ひとつだけ、わがままなことをお願いしても構いませんか?」
「うかがいましょう」
「もし俺がこの仕合の結果、命を失うことになったら、その時は俺に代わって葵さんのことをよろしくお願いしたいんです。あのひとのこれからに、あのひとに相応しい未来を授けてあげて欲しいんです」
「承りました」
 頭白は即座に返事した。
「決して御家老様の好きなようにはさせませぬ」
「感謝します」
 やがて短い交流を果たした両雄は互いに背を向け、対角線上に位置するそれぞれの陣に位を占めた。
 双方の表情が一変する。
 それが傍目にもよくわかった。
 まさしく、覚悟を決めた戦う(おす)の面構えだった。
 独特の緊張感があたりを包み、この場にいるすべての者たちが固唾を呑んで来たるべき一瞬を待ち構えた。
「勝負一本!」
 審判の約を負う黒人戦士・ボブサプが、扇子を突き出し宣言する。
「始めぃ!」
 宣告が成されると同時に、ケンタと頭白はまるで示し合わせたかのようなタイミングで自陣の側から飛び出した。
 三本の縄で囲まれた舞台の中央。
 およそ一間(約一.八メートル)ほどの間合いを挟んで、巨漢の武芸者同士が武を前面に相対する。
 その構えから予想される双方の戦術は、まったくもって真逆なものだ。
 右の縦拳を腰の高さで前に突き出し、上体を起こした半身姿勢で身構える頭白に対し、ケンタは上げた両腕で頭部をしっかり守りつつ、やや前傾の姿勢を保っていた。
 打撃によって突き放し、距離の主導権を握る戦いを意図した頭白の戦略と、隙あらば組み付き、上回る目方の有利を最大限に利用しようとするケンタの意図──両者の思惑が真っ正面から火花を散らして激突する。
 ふたりはしばし、見えない主星を軸とした衛星のように対峙しながら、じりじりと円を描いて睨み合う。
 激流と清流。
 色の異なる互いの闘志が、そこで鮮やかな旋律を奏でていた。
 なんとも緊張感に満ちた小気味の良い膠着だ。
 その発したる熱量たるや、安全地帯より戦いを俯瞰する者たちのうち幾名かが、思わず音を立てて生唾を飲み込んでしまうほどのものだった。
 古橋殿──滴る汗もそのままに目の前の大男と顔を見交わす頭白坊は、この時、少年時代に経験したとある光景のひとこまを本当に何気なく思い出していた。
「蝶之進。そなた、『強さ』とはいったいなんだと思っておる?」
 頭白の父・柳生連也斎は、もはや日課となった激しい鍛錬を終えたのち、傍らに控える元服したばかりのおのが息子に向かって、優しい口調で左様尋ねた。
「はい。『強さ』とは、対面した敵を倒す力のことであります、父上」
 若者らしい素直な青さに裏打ちされ、当時の頭白は父親からの問いかけに躊躇することなく回答した。
 おのれの答えが間違っているなどということは、微塵も考えてなどいなかった。
 これまで毎日のように繰り返されてきた厳しい錬磨はまさしくそのためにこそあるのだと、心の底から信じていた。
「果たしてそうかな」
 だが、父・連也斎はそんな息子に疑問を呈した。
「蝶之進。敵を倒す術は、何もおのが技によるものばかりとは限らぬ。たとえば、多くの助太刀を集め数の力をもって制する道もあれば、権力におもねり、謀をもって陥れるという道もある。孫子の言う『兵は詭道なり』を真実とすれば、それらのことは決して非難されるべき筋合いの行為などではない」
「……」
「しかしながら、そのような詭道を用いて相手を倒し得たとしても、それをもっておのが『強さ』を証明することは叶うのであろうか? いや、断じてそうはなるまい。見事敵を倒し得たというのにそうはならない。それはなぜか? それは、『敵を倒す』という行いそのものが、おのれの『強さ』の証とはなり得ないからだ」
 連也斎は息子に語った。
「蝶之進。強者を選び、そして競え。おのれが認める猛者と出会い、我が身を切磋しそれを越えんとあがくのだ。真の『強さ』とは、その先にこそあるものにほかならぬ。そなたにはまだその片鱗すらも見えぬやもしれん。されど、その道は必ずやおのが眼前に伸びているものと信じるのだ。信じねば、初めの一歩を踏み出すことなどできぬ。そして、踏み出さねば先に進むことなど決して叶わぬのであるからな」
「父上」
 偉大なる父親を敬意のこもった眼差しで見詰めながら、若き日の頭白はふと浮かび上がった疑問を純粋な好奇心から口にした。
「父上は、その『強さ』というものがいったいなんであるかを見付けられたのでありましょうか?」
 息子からの素朴な問いかけに、連也斎は微笑んだ。
 それは、どこか少年の色彩をまとった悪戯っぽい笑顔であった。
 彼は答えた。
 「私もまだ探しておる」と。
 そんな十年以上もむかしのやり取りを改めて噛み締めつつ、頭白は、老いて隠居の身であるはずの父親に向け心の中で語りかけた。
 父上。
 父上の御言葉、この蝶之進、しかと咀嚼し味わっております。
 勘働きではありますが、私は確かに思うのです。
 いま私の目の前に立つこの武芸者殿(古橋ケンタ)を「おのが技」をもって倒すこと叶えば、父上が仰った「強さ」というものがなんであるのか、その真実に一歩近付けるのではあるまいかと。
 父上。
 ともに喜んで下され。
 あなたの息子ははいま、これまで覚えたことのない喜びに打ち震えておりまする!
 心底より越えたしと願う宿敵(てき)との邂逅に、その身を猛りおののかせておりまする!
 父上、いまこそ……いまこそ心より感謝いたします。
 そう、この私に武芸という輝ける道を明確に指し示していただいたことを!
 次の瞬間、獣のようにひと言吼えて頭白は──柳生連也斎が息子・蝶之進は、ケンタの脇腹目がけて重量感ある左中段蹴りを叩き込んだ。
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