第三十一話:弥兵衛死す

文字数 10,175文字

 古橋ケンタが必死になって川縁へと這い上がった時、雨はちょうど小康状態を保っていた。
 正直な話、命のあったこと自体がほとんど奇跡と言っていいほどの状況だった。
 轟々と唸る濁流の中、懸命に伸ばした手がたまたま流れに向かって倒れ込んでいた樹木の枝に触れなければ、彼はとっくのむかしにこの世の人ではなかっただろう。
 その後、どのようにして我が身を陸地に引っ張り上げたのか、ケンタにはまったくもって記憶がない。
 それは、凄まじい疲労と倦怠感とが彼の思考活動を一時的に停止状態へと追い込んでいたからだった。
 侍たちの槍で益田川へと突き落とされてから、いったいどれぐらいの刻が経過したのかもわからない。
 しかし、ケンタがうっすらとまぶたを開けた時、夜はまだ明けてなどいなかった。
 もしかしたら、まだそれほどの時間は経っていないのかもしれない。
 なぜだか緊張感の欠片もない頭でそんなことを考えつつ、彼はよろよろと立ち上がった。
 冷え切った身体が、まるで鉛のように重かった。
 四肢を引きずり、生きる屍のように土手を上る。
 傷口の痛みは思ったほどではない。
 ただ、しびれるような感覚が左肩、右脇腹、左足の各所をずしりと覆っているだけだ。
 重傷だな。
 冷めた心でケンタは思った。
 痛みを覚えるということは、なんだかんだ言ってまだ肉体が生きているという何よりの証拠だ。
 それすら大して感じなくなっているということは、想像以上に身体が重篤なダメージを受けているということにほかならない。
 くそ、と短く悪態を吐く。
 鉄製の枷が付いたかのごとく、両足がまともに上がってくれなかった。
 気のせいだろうか。
 どうも指先まで血液が回っていないような感じがする。
 不思議だな。
 傷口から血が流れ出しているんだから、その分だけ自分の目方は減っているはずなのに、なんでこんなに体中が重いんだろう。
 は、はは。
 畜生。
 ようやくのことで人っ子ひとりいない深夜の街道に出たケンタは、光の宿らぬ死んだような眼をしながら、それでも一歩一歩確実に足を進めた。
 おのれの守るべき少女である葵の姿、ただそれのみを漠然と追い求める。
 しかし、その想いが叶うことはついぞなかった。
 ケンタはその道すがら、本当の意味で誰ともすれ違うことなく、気が付けば高山城下の外れへ辿り着いてしまっていた。
 それはまさしく帰巣本能に近いものだと言い切れようか。
 彼の足は、知らず知らずのうちに我が家にすら近い秋山弥兵衛の剣術道場へと向かっていたのだった。
 しとしとと霧雨が降り続くなか、泥水で全身を汚しながらケンタは暗い夜道をひたすらに歩いた。
 人の気配などまるでしない、ただ延々と続く一本道。
 それは、ときおり彼に「いま自分が歩いているのは、ひょっとして黄泉路なのではないか」と思わせるほど不気味な印象を抱かせる光景だった。
 やがて、秋山道場の見えてくる頃合いがケンタの前に訪れた。
 身体ひとつでこの時代へと投げ出されてから数ヶ月。
 葵や弥兵衛、それに茂助やおみつらとともに暮らした、いまの自分が帰るべき大切な家。
 だが闇の向こうに彼の目が見出したものはそんな愛すべき秋山道場の姿形などではなく、煌々と夜空に映える真っ赤な炎の揺らめきだった。
 あれは──まさか先生の道場?
 その事実を察するのに、ケンタはたっぷりひと呼吸分の時間を要した。
 そんな……莫迦なっ!
 次の瞬間、彼の身体の根幹にかっと熱い燃料(エナジー)が叩き込まれた。
 大きくアクセルを踏まれたエンジンのように、ケンタのなかの回転数計(タコメーター)が爆発的に右に触れる。
 直後、満身創痍の肉体に鞭打ち、ケンタは全力で駆け出した。
 常人なれば身をよじるほどの激痛が、たちまちのうちに至るところで蘇ってくる。
 だがいまの彼は、そんなことなどお構いなしに、文字どおりおのれのすべてを振り絞った。
 彼が秋山道場の間近に辿り着いた時、親しくなじんだ屋敷の屋根には、たゆたう(ほむら)が各所でその芽を吹いていた。
 足を止め、唖然としてそれを眺めるケンタ。
 しかし、心身を硬直させていたのはほんのわずかな間だけで、すぐさま彼は門を潜り屋敷の中へと走り込んでいった。
 家屋に火を放ったのがあの剣客どもであることに、疑う余地はまったくなかった。
 だが、その当事者たちの姿は、いま影も形も見出せない。
 彼らなりの目的を果たしたことで、この場を撤収したのだろうか。
 だとしたら、弥兵衛はいったいどうなったのだ?
 段々と火の手が回る家屋の中、ケンタは懸命に弥兵衛の姿を探し求めた。
 「先生、先生」と腹の底から大声を上げる。
 胸の奥で、考えたくもない不吉な予感がうごめき始めた。
 しかも、それを押し止めるような理屈を、この時の彼は自分に言い聞かせることができずにいた。
 お願いします、返事をしてください。
 いや、返事がないのならそれでもいい。
 だったらせめて、この目の前にその身を晒さないでいてください。
 ご無事でさえあればそれでいいんです。
 だから、お願いです。
 お願いします。
 先生。
 先生。
 秋山先生!
 だがその一途な願いは、まさしく最悪の現実によって迎えられた。
 屋敷の裏手に面した部屋の中で、ケンタは倒れ伏したまま動かない秋山弥兵衛を見付けてしまったのだ。
「先生っ!」
 自らの負った怪我の痛みも忘れ、彼は弥兵衛の身体に駆け寄った。
 血糊の付いた刀を握ったままうつぶせに倒れるその背中には、三本のくないが深々と突き刺さっている。
 それは、ケンタにとって見覚えのある存在だった。
 忘れるわけがない。
 これは、かつて葵を拐かそうと試みた忍び装束の曲者どもが用いた武器と同じものだ。
 三つのくないを引き抜くやいなや、ケンタは弥兵衛を抱き起こした。
 その身を激しく揺さぶりつつ、何度も何度もその名を叫ぶ。
 じっとりと着物に染みた血がケンタの両手を朱に濡らした。
 とんでもない出血量だった。
 それは、弥兵衛の受けた肉体の損傷が致命的なものであることを、迅速にケンタへ知らしめることと相成った。
 だが弥兵衛には、まだかろうじて息があった。
 ケンタの呼びかけに応えるように、そのまぶたがうっすらと開く。
 乾いた唇が、震えながら言葉を紡いだ。
「おお古橋殿……」
 弥兵衛は言った。
「無事でございましたか。それは重畳……」
「しゃべらないでください!」
 さらに何かを伝えようとする彼をケンタが叱る。
「いますぐ医者に連れて行きます」
「不要です」
 弥兵衛がそれに答えた。
「おそらく死骸を持ち込むことにしかなりますまい」
「そんなこと……そんなことはありません」
「自分の身体は自分自身が一番ようわかっております」
 無理矢理に相好を崩し、弥兵衛は尋ねた。
「葵は無事に逃げおおせたのでしょうか?」
 その問いにケンタは答えることができなかった。
 気休めでもいい。
 気の利いた嘘を告げることができるなら、どれほどよかったことだろうか。
 しかし古橋ケンタという男は、およそ人を欺くことのできない資質の持ち主だった。
 強く唇をかみ締めながら苦渋の面持ちでいるその姿を見て、弥兵衛もすべてを悟ったのだろう。
 彼はただ「そうですか」と小さく頷き、その行為をもってのみ柔らかくケンタのことを労ったのだった。
「すいません」
 ケンタの口が重々しく謝罪の言葉を吐き出した。
「俺に……俺に、もっともっと力があれば」
「何を申されます」
 そんな彼を責めるでもなく弥兵衛は告げた。
「その形を見ればわかります。貴殿は全力を尽くされたのでございましょう。そのうえで事が為されなかったのであれば、それはまことに仕方のなきこと。勝敗とは、兵家にとって時の運でございます。気に病まれてはなりません」
「先生……」
「されど、左様な事態なれば、私は貴殿に伝えねばならない……いや、託さねばならない大事がございます」
 弥兵衛の双眸が一瞬強い光をたたえ、溢れたそれがケンタの両目を撃ち抜いた。
 しばし呼吸を落ち着かせたのち、彼は「聞いていただけますかな?」と念押しの言葉を口にする。
 ケンタが大きく頷くを見届け、弥兵衛はゆっくりと、ひと言ひと言を確かめるように語り始めた。
「古橋殿……葵の母、すなわちいまは亡き我が妻・雅は、現高山藩主・金森頼時公にとって腹違いの姉にあたるのでございます」
「殿様の、姉?」
「左様」
 弥兵衛はその目で小さく頷いた。
「先代藩主・頼業(よりなり)公が城仕えの下女を見初め、その者に戯れで産ませた娘だと聞いております。その下女も雅が幼きおりに病で身罷り、雅自身はとある御家来衆の養女として育てられたとのこと。母親の身分があまりにも低かったからでしょうな。あれは、金森の家から同じ血筋と見なされなかったのです。おそらくそのままであれば、あの者の存在は家中より忘れ去られ、その人生もまた平穏なものとなっておったことでしょう。
 ですが、頼時公の御母堂はおのが夫の裏切りを忘れてなどおりませなんだ。年を取るごと次第次第に憎き女と似かよってくる娘を、『いずれ家中に災いを成す』との名目を付けて抹殺せんと計られたのです」
「ひどい」
 それを聞いてケンタは素直に憤った。
「なんて人だ。そんなのはまったくの筋違いじゃないか。『親の因果は子に報い』とは言うけれど、その子には殺される理由なんてこれぽっちもない!」
「私も、心からそう思いました」
 苦笑しつつ弥兵衛が応じた。
「されど、主筋よりの命は藩士にとって絶対のもの。そして皮肉なことに、その暗殺の役は、私と私の剣友のもとに下されました。ともに雅を育てた御家来衆に近い家であったことが災いしたのでしょう。
 ですが、土壇場になって私はその命に従うことができませなんだ。
 あろうことか、私は同じ家の禄を食んだ友を斬り、雅を連れその足で藩を脱したのです。主を裏切り、家を裏切り、友を裏切り、ありとあらゆるものを裏切ってまで、その時の私はひとりの娘を選んだのです。思えば武士として、それは決してあってはならない所行にございました。
 その日より、私と雅の辛い逃亡の日々が始まりました。
 私は差し向けられた追っ手を幾人も倒しつつ、雅とともに諸国を逃げ回りました。どのような場所に隠れ潜もうとも、満足に眠れぬ夜が幾月も続きました。
 左様な私にとり、雅が、雅だけがすべてでした。やがて私たちは結ばれ、ふたりの間に娘の葵が産まれました。古橋殿も男なればおわかりでしょう。愛するものの数が二倍となることが、いったいどれほどの喜びをもたらすのかを。
 そんな年月がいくつか重なったおりのことでございました。
 過去のことなど忘れてしまったかのようだった藩が、突然、江戸にいた私どものもとへ赦免状をよこしてきたのです。その書面には、藩主・頼時公の名で『罪を許すゆえ帰藩するように』との一文が記されておりました。
 私は驚喜し、すぐさまその申し出に応えました。里心というものがまだ残っておったのでしょうな。その裏にいかなる邪心が潜んでいるのかを考えることもしませなんだ。
 そう、この時の私は思ってもみなかったのです。幼き頃の頼時公が、当時の雅に恋慕の情を抱いていたということを。そして、あれをおのれの姉とも知らぬ頼時公が、その積年の思いをなお強く濃く胸中に残し続けていたということを」
 弥兵衛の目から大粒の涙がこぼれ落ちたのはその時だった。
「正式な赦免を受けるべく、帰国したその足で高山城へ登った私どもは一夜を城内にて過ごしました。
 これで明日より穏やかな日々が送れる。妻と娘とともに、ささやかな幸せをかみ締められる。私は左様胸をなで下ろしました。よもや別室にて、おのれの妻が藩主によりその身を汚されているとも知らずに──…
 翌朝、その事実を妻の口より告げられた私は愕然としました。夫として、男として、なんと自分は愚かだったのだろう、なんと自分は無力だったのだろうと、私は自らを責めました。妻を抱きしめ、心の底から詫びました。そうすることしかできませんでした。
 ですが、気丈にも雅はそんな私を責めませんでした。それどころか、私と娘の葵に対する謝罪の言葉すら口にしたのです──すべての責は自分にあると。このまま自分が生きておれば、金森の殿が必ず道を誤ると。
 あれは私に懇願しました。このまま自決するのは容易い。しかし、同じく死するなら、せめて最期はこの私の剣に貫かれて果てたい。左様に妻は申したのです。
 そして、私はそんな妻の想いに従いました。
 笑ってください。私は、この私は、多くの者たちを手にかけてまで守り抜いてきた大事な珠を、自らの手でもって砕いたのです」
「先生、先生」
 まるで弥兵衛の苦悩が伝播したかのように顔をしかめ、ケンタは必死に首を振った。
「もういい。もういいんです。もう何も言わないでください!」
「武士として、男として、夫として、父として、私は最低の人間です。この手は、この生涯は、大事なものを何ひとつ守ることができませんでした。大事な者を誰ひとり救うことができませんでした」
 だが、彼はケンタの言葉を無視するように語り続ける。
「汚された妻の無念を晴らそうともせず、それでいてすべてを忘れこの飛騨国を去ることもせず、私はいつしか、ただ安穏と与えられた剣術道場の主という立場に満足を覚えるようなっていたのです。古橋殿、これが怯懦でなくていったいなんだというのでしょう。これが小胆でなくていったいなんだというのでしょう!
 そんな私にとり、娘の成長だけが生き甲斐でした。あの子が笑い、楽しみ、心豊かな人生を送ってくれることこそが、私の望んでいた未来でした。そのためとあれば、いかなる労苦も成し遂げよう。そう心に誓って、これまでを生きてきました。
 ですが、間もなくそれも叶わぬ夢と成り果てるでしょう。もとよりそれは、私のような無能者にとって過ぎた願望であったのやもしれません」
 おもむろに弥兵衛の手が動いた。
 自らを支えるケンタの手にそれを被せる。
 ゆっくりとその指先に力がこもった。
「古橋殿。葵のことをお願いいたす」
 まるでおのがすべてを振り絞るかのように、震えながら弥兵衛は告げた。
「葵はいま、藩主・金森家により政争の具にされようとしているのです。当主・頼時公の病はいまだ篤く、城内では重臣たちによる跡目争いが激しさを増していると側聞しております。そんな次代の権力を求める亡者どもの目には、先代の血を引く葵の存在は紛れもなく格好の駒として映っていることでしょう。
 いわば金森家は、ただその血を受け継いでいるというだけで、あの子から市井の女の幸せを何もかも奪い去ろうとしておるのです。
 古橋殿! あの子の生涯に穏やかな幸せを。どこにでもいる普通の娘として、その手のひらに載せられるだけの幸せを。好いた男と結ばれ、子を産み、育て、その者と一生涯を添い遂げる。そんな日々どこにでもあるような、そんなささやかな温もりを感じ取れるような、そんな優しき生涯を歩めるよう、何卒、何卒、力となってやってくだされ。
 かくなっては、古橋殿よりほかにお頼みする人とてござらぬ。この秋山弥兵衛、人生の終わりに、せめて娘のこれからを安んじておきたいのです!」
「約束します!」
 きっぱりとケンタは答えた。
 口からの出任せやその場限りの気休めなどでは絶対ない、それはひとりの男が腹をくくって口にする最大級の断言だった。
 熱い感情を言葉に託し、腕の中の弥兵衛めがけて小細工なしに叩き付ける。
「俺の力が及ぶ限り、必ず……必ず先生の言うとおりにします!」
「左様か、左様か」
 それを受けた弥兵衛の顔が、いとも満足げに微笑んだ。
 その菩薩にも似た柔和な表情は、果たして一生一度の願い事を快諾されたことによりもたらしたものなのだろうか。
 いや、そうではあるまい。
 彼は、秋山弥兵衛というひとりの剣士は、おのれの磨いた「人を見る目」がいま正しかったことを実感し、それを人生最大の喜びとして感じ入っているのだ。
「かたじけない……それは、まことにかたじけないことにござる」
 そう呟いた弥兵衛の目から生気の光が失せ消えていることにケンタが気付いたのは、まさしくその直後のことだった。
 その口が「先生っ!」と短く叫ぶ。
 だが、必死になって呼びかけてくる彼の姿をよそに、この直心影流の名剣士はその手からこぼれたおのれの刀を、ただおのれの刀だけを見詰めていた。
 美濃兼定。
 これまで幾人もの剣士を倒してきたおのが愛刀。
 それは、剣術使いとしての自らにとって最も頼れる友であり、数多の苦境をともに乗り越えてきたかけがえのない我が身の分身でもあった。
 「彼」はただ人を斬るという明快な目的を持って生み出され、その目的のままに用いられてこれまでの「生涯」を過ごしてきた。
 道具として、武器として、その存在意義を失うことなく持てる実力を存分に発揮し得たその生は、志を果たせぬまま眠る多くの同輩らと比べれれば、極めて恵まれたものだったと言えるだろう。
 だがしかし、それは本当に「彼」自らの望んだ「生涯」であったのだろうか? 
 ふと、そんな疑問が弥兵衛の脳裏に浮かび上がった。
 剣は凶器。
 剣術は殺人術。
 それは確かにそのとおりなのだろう。
 剣術を用いての心身昇華、剣術を通しての人格形成──どれほど耳に聞こえ良い美辞麗句を並べてみたところで、剣そのものとそれに付随する現実とが大きく変わろうはずもない。
 だが、果たしてそれだけなのだろうか。
 本当に、ただそれだけが真実なのだろうか。
 次第に薄れつつある意識のなか、弥兵衛は改めてその問いかけを自分自身に繰り返していた。
 それは、過去幾多の剣術使いたちが答えを出さんと腐心してきた、大いなる課題のひとつだった。
 おのれが生涯のほとんどを費やして歩いてきた「剣の道」
 若者たちの師として、できる限りの誠意をもって教え伝えてきたおのれの「技」とは、しょせんその程度の代物だったのだろうか。
 巷の権勢などには目もくれず、勝ち残り、生き残り、時には人の恨みさえ背負ってきた剣客としての生をいま血糊に汚れて床上に横たわる鋭刃へと重ね合わせ、弥兵衛はゆっくりと思案する。
 いや、違う──彼のなかに小さな閃きが来訪したのはその時だった。
 弥兵衛は思った。
 そのように単純なものでないからこそ、いまこうして自分は苦悩み身悶えているのではないのか。
 そのように単純なものでないからこそ、先人たちはおのが身を焦がし続けてきたのではないのか。
 そうだ。何も明白な「ひとつの答え」を導き出すことだけが正しい解ではないはずだ。
 個々人がおのれの納得する回答へ辿り着こうと懸命に身を削り前進すること。
 その行動そのものが真の「答え」であってもいいのではなかろうか。
 それはある種の悟りにも近い感覚となって弥兵衛の心を充足した。
 感動が深く奥底へ刻み込まれ、それは終生忘れ得ぬ財産となって彼の胸中にもたらされた。
 人生とは開眼の連続という言はよく聞くが、まさかその最後の一瞬までがそうあるなどとは到底思ってもおらなんだな。
 弥兵衛は心の中で苦笑した。
 なれば、これ以上自分ごときが答えを出そうとあがくのは、いささか傲慢に過ぎるというものだ。
 あとは後進たちに任せよう。
 彼ら自身の「答え」を、これから死に行かんとする者が奪ってはなるまい。
 そこはかとない開放感が弥兵衛の全身を柔らかく包んだ。
 もはやこれまで、と呼吸を整え心を鎮める。
「古橋殿……」
 もはや蚊の鳴くような声しか出せぬようになったその口で、しかし弥兵衛はケンタに告げた。
「我らが治めし武芸の技。それらすべての行き着く先がことごとく人を殺す術に至るのだとすれば、それはあまりに哀しきことだと思いませぬか?」
 焦点の定まらぬ瞳がゆっくりとケンタを指す。
 心なしか、その顔が満面の笑みを浮かべているかのような錯覚を覚える。
「願わくば、来世こそは左様なことなき世の中で心置きなく剣の道を歩んでみたいものですな……」
 そう言って弥兵衛はゆっくりまぶたを閉じた。
 異変を悟りケンタが叫ぶ。
「先生、しっかりしてください。先生っ!」
 いつの間にか、その目には涙の滴が溢れんばかりに浮かんでいた。
 呼びかけはたちまち絶叫へと変化する。
 そんな魂からの猛りを耳にしつつ、飛騨国の剣客・秋山弥兵衛は人生最期の言葉を放った。
「葵……父として、おまえの花嫁姿を見てみたかった……」
 弥兵衛の肉体から吐息とともにすべての力が失せ消えていった。
 思わず息を呑み、目を見開くケンタ。
 その大きな両手が敬愛する剣士の身体を激しくを揺さぶる。
 しかし、彼の口が改めて何かを語ることはなかった。
 秋山弥兵衛は死んだ。
 その現実を察した瞬間、古橋ケンタの喉の奥からひとのものとも思えぬほどの慟哭が堰を切ったようにほとばしり出た。
 滂沱の涙が滝のごとくその頬を流れる。
 自責の念が彼の身体に怒濤のごとくのしかかった。
 葵に向け、弥兵衛に向け、心の中で何度も何度も謝罪する。
 葵さん、先生、すいません、すいません。
 俺に、この俺に力がなかったばっかりに、力が足りなかったばっかりに、あなた方の助けになることができませんでした。
 許してください、許してください、許してください──…
 あとからあとから泉のように湧きだしてくる後悔が激しく内蔵を攪拌する。
 突き上げる嘔吐感を必死になってこらえつつ、ケンタは弥兵衛の遺体にすがり嗚咽した。
 何も考えられなかった。
 何も考えたくなかった。
 楽しかったはずの道場における思い出すらが、いまは苦痛としてしか感じられないほどだった。
 そんな彼の耳を背後から高らかに響く笑い声が撃ち抜いたのは、まさしくそんなおりの出来事だった。
「なんともなんとも。麗しきかな、師弟の絆」
 それは紛れもなく男の声だった。
 場に染み通る高めのバリトン。
 声の主は、むせび泣くケンタを嘲笑うかのごとく、その背に向かって言葉を投げる。
「だが案ずることはない。この俺が師との再会を手助けしてやろう」
 刹那ののち、ケンタの顔から一切合切の感情が消えた。
 まるで能面のように冷たい面持ちをこしらえたまま、彼はゆっくりと肩越しに振り返る。
 その視線の先、三間(約五メートル)ほど離れた襖戸の向こうに立っていたのは、茶褐色の忍び装束に身を包んだ大柄な男であった。
 おそらくはその素顔を隠すためなのだろう、顔一面に朱と黒の塗料を塗り付け一種異様な面相を形成している。
 それは見る者によっては禍々しささえ覚えかねない形相だった。
 悪魔的ですらある。
「我が名は武太。飛騨円明流体術の武太だ。かつておまえを相手に痛い目を見た小者どもの頭領と言えば心当たりもあろう」
 ケンタの視線に男は応えた。
「古橋ケンタ。いまおまえの見せた師弟愛に心よりの敬意を表し、我が闘技のすべてを尽くして黄泉路へ送ろう。覚悟するがいい」
「ひとつ聞きたいことがある」
 低く押し殺したような声で、ケンタはこの武太と名乗った異相の男に問いかけた。
「先生を……秋山先生をこんな目にあわせたのはあんたか?」
「そうだ」
 間髪入れず武太は答えた。
「秋山弥兵衛に致命の傷を与えたのは、この俺だ」
 それを聞いた瞬間、ざっとケンタの頭髪が逆立った。
 「怒髪天を突く」とは、まさにこのことを言うのだろう。
 全身を流れる血液に過剰なほどのアドレナリンが叩き込まれ、筋肉が、神経が、精神が、細胞がたちまちのうちに臨戦状態へと突入する。
 明らかに数度は上昇した体温を実感しつつ、ケンタはゆらりと立ち上がった。
 込められた下顎の力に、奥歯がぎしりと悲鳴をあげる。
 渾身の力で握りしめられた両手の指が否応なく手のひらに食い込み、握力に圧倒された拳の骨がみしみしときしんだ。
「そうか、おまえがやったのか……」
 うつむき加減に向き直ったケンタの眼差しが、改めて武太の顔面へと向けられた。
 それは単に殺気と称するにはあまりにも生々しい感情を載せたまま、まっしぐらに目の前の敵を捕捉する。
 まるであらゆるものを焼き尽くす紅蓮の炎、いやむしろ地の底より吹き出した灼熱の火砕流にでも例えられるべき熱視線だった。
 しかし武太は、並の男であればまず震え上がってしまいそうなケンタのそれを実に平然とした態度で受け流した。
 すっと両目を細く閉じ、にんまりと口の端を吊り上げる。
 露骨なまでの挑発だった。
 心理戦。
 戦いは先に熱くなったほうが敗北する。
 それはあらゆるジャンルの勝負師にとって、決して忘れてはならない絶対の鉄則だった。
 互いの能力が同じであれば、常に冷静だった側にこそ勝利の女神は手を差し伸べる。
 武太はそのことを熟知していた。
 熟知していたからこそ、あえてケンタの憎悪に火を注ぐような真似をしてのけたのだ。
 だが、ケンタにとってそんなセオリーなど知ったことではなかった。
 そんな相手の計算など知ったことではなかった。
 彼は、おのれの激情がおもむくまま、おのれの燃える血が主張するままに轟吼した。
「おまえが先生を()ったのかっ!」
 それは、まさにひと欠片の濁りもない、純粋な闘気の爆発だった。
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