エピローグ

文字数 20,608文字

 ケンタが長い昏睡から目覚めた時、最初に飛び込んできた映像は白く無機質な天井だった。
 不自然なほどに凹凸がない。
 それがひとの手になる代物であることは間違いなかった。
 ただし、そこには手の温もりを感じさせるような質感など欠片も見付けることができなかった。
 色彩にまったく抑揚というものがないのである。
 まるで意図してそのような調度にしたかのごとく、そこには見事なまでにひとの目を楽しませる要素が欠落していた。
 少なくともそれは、芸術的な何物かを目指して構築された作品などではなかった。
 「ここはどこだ……」と呟きながら、ケンタは周囲を見渡した。
 垂直の壁によって仕切られた四角四面の閉ざされた空間。
 その壁際の部分に据えられた寝床の上にいま自分の身体は横たえられているのだという事実を、この時の彼ははっきりと認識した。
 寝床と言っても、床の間に敷かれた布団の上というわけではない。
 純白のシーツを被せた、固く寝心地の悪いベッドの上だ。
 それに隣接する壁面には外界と通じているであろう窓枠が設けられている。
 もっともそこにはめ込まれた透明度の高い硝子戸はその面積の大半を厚手のカーテンによって覆われており、ケンタの位置からは外の様子をうかがうことができなかった。
 見ると、天井中央にある源から躍動感に欠ける冷たい光がこの空間内を照らし出すべく煌々と注がれ続けている。
 いまだにどこか霧の向こうへ意識を置いたままのケンタであったが、それでもなお、彼はその光が蛍光灯の発する電気の灯火であることを洞察するに至った。
 惚けた頭でケンタは思う。
 けいこうとう?
 なんだ、けいこうとう……か。
 そうかそうか、特に驚くことじゃあないな。
 そうさ、全然驚くことじゃあない。
 けいこうとう……
 蛍こうとう……
 蛍光とう……
 蛍光灯……
 蛍 光 灯 ?
 蛍光灯だと!
「ここはどこだ!」
 その存在を知ることで突如として覚醒を果たしたケンタは、次の瞬間、大音量を発しながら弾かれるようにして飛び起きた。
 改めて周囲の状況を把握すべく、きょろきょろと頭を振ってあたりを見渡す。
 一面が乳白色に彩られた、なんとも殺風景極まるその空間。
 どうやらそこは、いずこかの病院にある入院用のひと部屋であるようだった。
 同じ室内にほかの患者の姿は見当たらない。
 そもそもベッドすら存在しない。
 まさしくまったくの個室である。
「ここは……どこだ……」
 上半身を起こしたままこめかみを押さえ、ケンタは力なく呟いた。
 うつむいたその顔から、およそ感情というものが消失している。
 それは、おのれを包む環境の激変にその脳細胞が追従を拒否していたがゆえの反応だった。
 いったい何が起こったんだ?
 ケンタは思わず自問する。
 自分はほんの少し前まで、元禄時代の飛騨高山にその身を置いていたはずだ。
 葵という少女を助けるため僧形の武芸者・頭白と仕合い、果たすべき使命を見事達成したことで、ようやくその世界の住人となれた喜びにどっぷり浸っていた矢先のはずだ。
 そんな自分が、なんでこんなところにいる?
 明らかに天然材を加工して作られたわけではない壁や天井。
 窓枠にはまったアルミのサッシと透明なガラス。
 そして、白く輝く蛍光灯──…
 誰がどう見たって、ここはあの江戸時代の高山ではない。
 そんなことは絶対にあり得ない。
 あり得るはずがない。
 これら文明の利器は、むしろ自分がかつてを過ごしてきた二十一世紀の時代にこそ近い。
 というより、その時代そのものだと言える。
 なんでだ?
 なんで俺はこんなところにいる?
 なんで俺はこんなところにいなくちゃならないんだ?
 ケンタが左様な混乱に捕らわれているさなか、ばたんという大きな音を立てて勢いよく扉が開いた。
 続けざまに複数の大男たちがそこを通り、先を争うようにして病室内へと雪崩れ込んでくる。
「美沢さん……」
 突如としてケンタの視界へと飛び込んできた、見るからに屈強な肉体を持つ三名の男たち。
 それは、「株式会社プロレスリング・アーク」代表取締役社長・美沢ミツハル以下、同団体所属の主力レスラーたちであった。
「ケンタ!」
「古橋!」
「古橋さん!」
 病室のすぐ外で待機でもしていたのであろうか。「ハイパーエルボー」美沢ミツハルが、「活火山」田植(たうえ)アキラが、「氷の策士」安岐山(あきやま)ジュンが、その名を口々に呼びながらベッドの側へとやってくる。
 そして異口同音に「気が付いたのか」との言葉を放ち、三人は一斉に身を屈めてケンタの顔をのぞき込んだ。
「良かった。本当に良かった……」
 心なしか泣き出しそうな表情を浮かべた美沢が、真っ先にケンタの肩へ手を置いた。
 感極まったゆえのものか、その指先がかすかな震えを見せている。
 彼は何事かを堪えるよう眉間にしわを寄せながら、噛み締めるかのごとく言葉を続けた。
「あの交通事故のあと、うちらのなかでおまえだけが、三日の間、目を覚まさなかったんだ。ここの医者はさっぱり原因がわからないなんて言い出すし、正直な話、どうなることかといまのいままで気が気じゃなかったんだぞ」
「交通事故?」
「なんだ、そこからしておぼえてなかったのか」
 きょとんとその目を丸くするケンタを前に、呆れたように美沢がぼやいた。
遠征先(高山市)にバス移動してる途中、居眠り運転の大型トラックが俺らの真ん前から突っ込んできたんだ。おかげさまでバスは横転して大破。さいわいにしておまえ以外の連中は掠り傷程度で済んだんだが、予定してた興業は中止になるわ警察の事情聴取は受けるわで、俺らは昨日の夜までてんやわんやだったんだぞ。平和な日々を送れたのは、病院で寝てたおまえぐらいのもんだ」
 そんな美沢の口振りには、紛れもなく冗談めいた後味がくっきりと配されていた。
 それは、間違いなく安堵の気持ちを根っこに置いた発言にほかならなかった。
 半ば軽口に近かったと評しても一向に構うまい。
 だが、いざその言葉を耳にした当のケンタは、何やら難しそうな面相をこしらえつつ、おのが手元にじっと視線を落としたままだ。
 先輩の弄した諧謔に対し、持って生まれた愛嬌をもって返してこないその態度。
 それは、彼らがよく知る「古橋ケンタ」の面差しとはいささか異なる代物だった。
 その表情を目の当たりにした美沢が、思わず訝りの相好を浮かべた。
 田植と安岐山もまた、これは何かおかしな感じだと互いに顔を見合わせる。
 それらはすべて、意識不明の状態から復活したばかりのケンタがいまだ身体のどこかに不良箇所を抱えているのではないかと心配したがゆえの反応だった。
 されど、そのような心遣いは今回に限って言えばまったくの杞憂だった。
 この大男は、おのれの心身に不調を訴えているわけではなかったからだ。
 彼はただ、おのれの中で身悶えていただけだった。
 出所不明の混沌に惑わされ、自らが寄って立つ足元を見失っていただけだった。
 激しい困惑は間を置くことなく重しとなり、やがてそれをはね除けようとする強力な反発となって理不尽なまでにケンタ自身を突き動かした。
「いま、いったいいつの時代なんですか?」
 左様な大男が美沢に対し食ってかかったのは、およそ次の刹那の出来事だった。
 突如としてその胸元へと掴みかかりながら、ケンタはほとんど意味不明とも聞こえる問いかけを一気呵成に叩き付ける。
 彼は叫んだ。
「いまは、いったいいつの時代なんですか!」
「時代って……平成に決まってるだろ」
 ケンタの勢いにうろたえた美沢が莫迦正直な答えを返す。
「いきなりどうしたんだ? 夢でも見てたのか?」
「夢……」
 社長が放ったその単語を耳にしたとたん、ケンタの両手からすっと力が失せ消えた。
「夢だったのか……あれが全部……」
 呟きながら顔を伏せる彼の脳裏に、鮮やかなまでの映像が生々しく蘇ってくる。

『古橋さま』
『古橋殿』
『ケンタ師匠!』

 葵が、弥兵衛が、鼓太郎が、各々ケンタの名前を呼びながら笑顔を浮かべ、

『古橋さまぁ』
『古橋殿』
『古橋殿』

 おみつが、頭白が、光圀が、重なるようにしてそれに続いた。
 死闘の記憶もまた鮮烈なものだった。
 裂帛の気合いとともに木太刀を打ち込んでくる乾半三郎の姿が──…
 馬乗りの状態から雨あられとばかりに拳を振り下ろす男鹿直次郎の姿が──…
 殺気に充ち満ちた眼差しで真剣の切っ先を突き付けてくる井川源三郎の姿が──…
 そして何より、雄叫びを上げながら闘志溢れる打撃を繰り出す柳生蝶之進(頭白坊)の姿が、身に受けた痛苦とともに脳内にありありと想起されて止まなかった。
 あれらがすべて夢だったというのか。
 認めたくない真相、受け入れがたい真実。
 その可能性をいまはっきりと目の当たりにし、ケンタは茫然自失して一気に言葉を失った。
 怪訝そうな顔付きの美沢たちが訪れた医師や看護師らと入れ替わるようにこの場を退出したあとも、彼の様子は一向に変わることがなかった。
 凄まじい虚脱感がケンタの全身を覆い尽くしていた。
 心も体も、まるで自分のものではないように思えてならなかった。
 だからであろうか。彼はおのれの胸に聴診器を当てる初老の医師に向かって、淡々といくつかの質問を口にしたのだった。
 ひとつめの質問は「ここはどこなんですか?」というものだった。
 医師はにっこりと微笑みながら「高山赤十字病院ですよ」とこれに答えた。
 ふたつめの質問は「俺の身体はどこかおかしいんですか?」というものだった。
 医師は先の表情をそのままに「骨にも内臓にも脳波にも異常はまったく見られません」と答え、「ただなんらかの後遺症の恐れもありますので、あと二、三日は入院して様子を見てみましょう」との言葉を付け加えた。
 ケンタは左様な医師の発言に「そうですか……」と相好を変えずに応じると、おもむろにみっつめの質問をその唇から紡ぎ出した。
 あまりにも脈絡のない、唐突に過ぎる質問を──…
「先生」
 彼は尋ねた。
「タイムスリップってご存じですか?」
「SF小説とかによく出てくるアレですね」
 落ち着いた口調で医師は応じた。
「それが何か?」
 「……実は」と前置き、少しためらいがちにケンタは告げた。
 あの交通事故によって時空を飛び越えた自分が数百年前の元禄時代で経験した、にわかには信じがたい出来事の数々を。
 まるで現実離れをした、他人事ならば本当に夢物語としか思えないであろう、あまりにも突拍子のない日々のことを。
 初老の医師はその突然の告白に特段驚きの表情を見せるでもなく、ただ黙っておのが聴力を傾けていた。
 そしてケンタがひととおり語り終えるのを待ってから、率直な自分の意見をこれまた率直な言葉で口にした。
「古橋さん。それは『夢』ですよ」
 医師は柔らかく、しかしはっきりした口調で断言した。
「私は心療内科の専門ではありませんが、強いストレスに襲われた患者さんが時として夢に見た映像を過去に経験したことのある出来事のように感じる現象があると、同じ大学にいた同僚から聞いたことがあります。まあ既視感(デジャブ)のようなものだと思ってくださればわかりやすいと思います」
「デジャブ……ですか?」
「そうです」
 ふたたび医師は言い切った。
「おそらく、いまの古橋さんは事故の衝撃から来る肉体的精神的ストレスから十分に回復なさっておられないのでしょう。ですから、そのような記憶の混乱が生じているものと考えられます。
 何、心配することはありません。そういった現象はさほど特殊なものではなく、このような事故の直後においてよく見られる、ごくごくありふれた症例のひとつです。おそらく数日もすれば、『なんであんなことを気にしていたんだろう?』ってあなた自身が不思議に思うほどになってますから」
 あたりまえのようにそう言われ、ケンタはきゅっと唇を結んで沈黙した。
 現実がじわりと骨身に染み入ってくる。
 「そりゃあそうだよな」と彼は自嘲気味にひとりごちた。
 タイムスリップなんて絵空事、本当にあるわけなんてないのだからだ。
 午後六時。
 ケンタはベッドの上で上体を起こしながら、運ばれてきたその日の夕食を前にしていた。
 輝くような白い御飯に茄子の入った麻婆豆腐。
 筍入りの温野菜。
 エリンギとアスパラの中華和えと椎茸の中華スープ。
 どれもこれも湯気の上がった作りたてで、その芳しい香りが鼻腔を刺激し否応なしに食欲をそそる。
 恐る恐るケンタはそれらに箸を付けた。
 茶碗を手に取り、まず熱々の白米を口に運ぶ。
 意識して顎を動かし、たっぷり時間を掛けて咀嚼したのちに液状となったそれを喉の奥へと流し込んだ。
 正直、美味しいと思った。
 味わいがあると、本気で思った。
 疑いなく、味覚を満足させるに足る代物だと感じ取った。
 だが何かが、何かが決定的に物足りなかった。
 いまの彼が欲して止まない何物かが、そこに含まれていなかったからだ。
 「さあ、たんと召し上がれ」と、あちらの時代で葵が差し出してきてくれた炊きたての御飯。
 それは、いまケンタが目にしている宝石のごとき純白の飯などではなかった。
 二十一世紀ではもっぱら小鳥の餌としてしか認識されていない稗や粟といった雑穀と精白されていないいわゆる玄米とがない交ぜにされて炊きあげられた、文字どおりの色付き御飯だった。
 文明の利器たる電気式の炊飯器で炊かれたものではなく薪を燃料とした旧式のかまどと鉄製の大きな釜でこしらえられた、見目麗しいとはとても言えない淡いベージュ色をしたその御飯。
 白米のように柔らかくて食べやすい、甘みのある飯ではなかった。
 固くて食べにくく、単品でよく噛むことを要求する飯ですらあった。
 それでもなお、それは自分がきちんと食事をしているのだという現実を強く強く実感させる、そんな趣を持った飯であった。
 たぶんプロレスラーである自分向けに量を多めに出してくれたのであろう病院食をきれいに平らげ、ケンタは静かに両手を合わせて一礼した。
 「ごちそうさまでした」という挨拶が、自然とその口内からこぼれ出た。
 食事とは、嫌が応にも他の生き物を、その時をかけて培った命の結晶をおのが息吹の糧とする行為にこそほかならない。
 それは生きるため必要不可欠な業であり、我が身を明日に向かわせるため背負わねばならぬこの上なき原罪とすら評して良かった。
 断じて単なる栄養補給のいち手段と切り捨てていいものではない。
 少なくとも、ケンタはそのように感じていた。
 本人もまったく自覚せぬうちに、いつしかその心魂へくっきりと刷り込まれてしまっていた。
 だがそんな哲学的な重々しさを、いまの彼はまったく覚えることができずにいた。
 あたかも惰性で時を浪費しているのではと思えるような空しさが、前触れなくその胸中に襲いかかる。
 何故だろう、とケンタは冷めた頭で自問した。
 夢の中では嫌と言うほど口にした、質素極まるあの献立。
 山盛りの玄米御飯に田舎風味の濃い目の味噌汁。
 瓜や大根、山芋といった季節ものの野菜料理に、たまに出てくる川魚。
 あとはおかずとして用意される大さじ何杯かの味噌と、若干の漬け物。
 カロリーや健康面での評価はともかく、二十一世紀に生きる者の目からすれば、みすぼらしいことこの上ない食事だと言えた。
 しかし、ケンタはそれが妙に懐かしかった。
 医師の言葉を真に受けるなら、いま彼の弄んでいるその感傷は、紛れもないまやかしの記憶。
 惚けた脳細胞が根拠なく作り出した、偽りの幻想であるはずだった。
 にもかかわらず、この胸の奥底に淀む虚ろな違和感はいったい何だ?
 ふと思い出したようにカーテンを開けたケンタは、おもむろに窓の外を眺めた。
 夜の帳が降りるまでには、まだ若干の猶予がある。
 天を漂う雲の隙間からは、透き通った青空を垣間見ることさえ可能だった。
 その空に向けて、噛み締めるように彼は呟く。
「あれは本当に夢だったんだろうか。葵さんも、秋山先生も、鼓太郎も、頭白さんも……あのひとたちみんながみんな、本当に俺の妄想が生み出した幻の世界の住人だったんだろうか。もしそうなのだとしたら、俺は……俺は……」
 翌日の朝、ケンタは関係者に行く先を告げぬまま、こっそりと病院から抜け出した。
 入院着から私服へと着替え、人目を避けるようにしてひとり外界へと足を踏み出す。
 午前六時半。
 昨日に引き続き、快晴と言っていい天候の朝だった。
 一般的にはまだ十分に早朝と言える時間帯であったにもかかわらず、街の人々はすでに日々の営みをその軌道へと乗せるべく動き始めていた。
 さすがに高層建築の立ち並ぶ都心部などとは比べようもなかったが、その近代的な街並みを縫う舗装路にはさまざまな種類の自動車が流れるように行き交っている。
「ここが、高山か……」
 そんな言葉を口にしながらケンタは何気なく周囲を見渡し、次いで立体的な市街地のさらにその上、空と陸との境界線へ向け視線を伸ばした。
 その先に彼は、はっきりと緑の映える美しい山並みを見て取ることができた。
 その風景は紛れもなく、ケンタが夢の世界(江戸時代の高山)で飽きるほど見た、あの雄大な稜線に重なるものだと断言できた。
 穂高(ほたか)乗鞍(のりくら)御嶽(おんたけ)などの名高き山々に囲まれた、由緒正しき「飛騨の小京都」
 だがしかし、いま彼がその身を置いている街並みは、そういった風情溢れる敬称が何か空しく思えるほど、どこにでもある地方都市のひとつとしてしか見受けられない代物だった。
 無機質なコンクリート製の建物。
 排気音とともに道を征く大小のトラックや乗用車。
 歩を進めて主要道が貫く繁華街へと出てみれば、およそ雅の佇まいとは縁遠いファーストフードの看板やパチンコ店の軒先が、我先にとばかりにその目の中へと飛び込んでくる。
 怒濤のような情報の羅列。
 こちらの意志とは無関係に押し付けられる、消費者としての立場。
 じわりと体内に浸透してくるそんな「現実」というものを嫌が上にも感じ取り、知らず知らずのうちにケンタは小さくため息を吐いた。
 やっぱり、あれは「夢」だったんだな。
 彼は改めてそう思った。
 認めなくちゃいけない。
 もう俺は認めなくちゃいけない。
 あそこにあった肥の香り漂う田舎臭い空気が「真実」なんじゃなく、いまここにある排気ガスの混じった無機質な空気こそが「真実」なんだって。
 草鞋越しに素足で覚えた冷たい土の感触が「本物」なんじゃなく、ゴムの靴底を挟んで靴下越しに覚える熱いアスファルトの感触こそが「本物」なんだって。
 そうだ。そのとおりだ。
 少し考えればそんなこと、子供にだってわかる道理じゃないか。
 漫画やアニメの世界じゃないんだ。
 タイムスリップだなんて非現実的な出来事、実際に起こったりするはずないじゃないか。
 わかってる。
 そんなことはわかってる。
 わかってるはずだ。
 俺だって莫迦じゃないんだから、そんなことはさすがにわかってるはずなんだ。
 そう自分自身に言い聞かせつつも、しかしケンタはなおもう一歩を踏む出す勇気を持てずにいた。
 なんとも未練がましいその心情が、彼の困惑に拍車を掛ける。
 でも、でも……それでも何かが引っかかる。
 ケンタはそんな思いを反芻した。
 なんだろう。
 なんだろう。
 何かが……何かが心の奥底に引っかかってる。
 そいつはいったいなんなんだ?
 わからない。
 わからない。
 それがなんだかわからない。
 それがなんだかわからないんだ。
 もやもやとまとまりを欠く気持ちを胸の奥に抱きながら、それでもケンタは歩き続けた。
 かつては「益田街道」と呼ばれた歴史ある幹線道路、現在の国道四十一号線に沿っておのれの足で南へと向かう。
 もちろん、彼の中に具体的な目的地があったわけではない。
 その足が南の方角を向いたのは、言ってしまえばただの気紛れ。
 どれほど好意的に捉えようとも、そこに客観的な理由を見出すことなどできはしなかった。
 その場からどれぐらい歩を進めてのことだろうか。
 いつしか彼は騒がしい都市部を抜け、山の手に連なる市の郊外へとやってきていた。
 太陽は、だいぶん高いところへと昇ってきている。
 腹の減り具合と合わせて考えるに、間もなく昼の時間帯に至る頃合いであろうか。
 この段階になって、ようやくケンタは愛用の腕時計を忘れてきたことに気が付いた。
 普段なら滅多にそのようなことはないはずだった。細々とした時間の区切りに振り回されることの多い現代社会では、いまがいったい何時何分であるのかを知る手段を手放すことなどおよそ考えられない選択であったからだ。
 だが不思議なことに、彼はおのが手首に何も装着していないという現状について、少しも違和感を覚えるようなことがなかった。
 長年の習慣がきれいさっぱり消失していることについて、少しも不自然さを覚えるようなことがなかった。
 はっきり言って、時間というものの価値がケンタの中で完全にずれてしまっていた。
 それは明らかにいまを生きる人間の持つ価値観ではなかった。
 細分化された時間の流れに合わせておのが行動を割り振る常識。
 それを完全に忘却しきっている自分自身を、この刹那、ケンタは唐突に自覚した。
 思わず苦笑いを浮かべる。
 惚けているんだなあ。
 内心でそう自嘲しながらケンタは大きく天を仰ぎ、次いで眼前に広がる山の峰へと目を向けた。
 どこか見覚えのある風景だった。
 それが赤十字病院の医師から聞いた言葉どおり重篤な既視感の一種であることをしつこいくらいに念押ししながら、それでもなお大男はおのれの記憶と戯れる楽しみを選んだ。
 ここは、あの峠道だ。
 しばしの間足を止め、ケンタはゆっくり感慨に浸った。
 そうだ。ここは自分と葵とが尾張名古屋へと向かう旅路の初日に踏破した、あの狭い峠道の入り口付近に間違いない。
 夢の記憶を辿っていけば、確かこの路を登り切ったあたりに不動明王や馬頭観音を固めて奉っている場所があって、そこからもう少し進んだところには小さな茶屋が店先を構えていたはずだ。
 少女()とふたり、旅の安全を祈願して石像の前で両手を合わせたおぼえがある。
 妙にわくわくした気持ちに駆られ、ケンタは足取り軽く国道を上り始める。
 夢の中とは異なる軌道を描きつつ、国道四十一号線はいくつかの登坂車線とふたつばかりのヘアピンカーブを経由しながら徐々にその標高を重ねていった。
 左右に広がる木々の緑が目に優しい。
 心なしか、頬をなでる風までもが神秘的な囁きを秘めているように感じられてしまう。
 やがて、ケンタの視界にあるべきものが見えてきた。
 木々に囲まれるようにして存在する石像の群れだ。
 夢の中でそうであった姿のままに立ちすくむ、さして大きいとは言えない不動明王像と馬頭観音。
 えもいわれぬ郷愁に駆られたケンタは、さっとその近くへと駆け寄った。
「懐かしいな」
 そんな感想を、思わず彼は口にした。
「夢で見たとおりだ。でもあの頃よりは、だいぶきれいになってるかな」
 ぱんぱんと二度柏手を打ち、ケンタは両手を合わせて一礼した。
 その行いに大した意味があったわけではない。なんとなく身体がそう動いたというだけの話だった。
 だがそうやって目を瞑ったケンタの脳裏を、突如としてひとつの疑問が電光石火に走り抜けた。
 鋭い稲妻が彼の背筋を縦一文字に貫通する。
「なんでだ?」
 はっとその顔を上げケンタは呟く。
「なんで俺は知ってる? なんで俺は、ここにこれがあることを知ってるんだ?」
 彼の疑問は極めて正当なものだった。
 既視感(デジャブ)とは、いま目の前にあるもの、あるいはいま遭遇したばかりの出来事がかつての記憶にあったそれであるかのごとく錯覚する症状のことをいう。
 決して未来予知や何かの類い、超常的な能力の発露というわけではない。
 であるならば、あらかじめ「夢で見ていた」「夢の中で経験していた」と認めている存在が実際のそれとして出現するという現象は、既視感としての前提条件を大きく外れるものに相違なかった。
 認識する感覚の順序が前後まったくの逆となるだからだ。
 変だ。
 変だ。
 何かがおかしい。
 今朝の太陽が登って以降、脳内より払拭していたはずの混沌がふたたびぐるぐると渦を巻き始める。
 答えの出ない自問を何度も何度も繰り返しながらのろのろと峠を下り始めたケンタの足が知らず知らずのうちに行く道を反らし始めたのは、それからしばらくしてのことだった。
 それまで国道四十一号線に沿って歩いてきたこの大男は、その足で高山市久々野町へと入る直前、まるでそこに穿たれたバイパストンネルを避けるようにして東側へ分岐する別の坂道を登り出した。
 その道は、先に彼が越えてきた中央分水界(宮峠)と南北の対になって存在するもうひとつの峠、すなわち御母衣(みほろ)峠と呼ばれる山の鞍部へ至る直接の経路だった。
 ケンタの知るところではなかったが、本来用いられてきた「飛騨街道」という名称はこの路のことをこそ言うのであろう。
 短い坂道を登り切ったところには、位山弘法堂(くらいやまこうぼうどう)と刻まれた立派な石碑と高山市立久々野小学校の校舎とがあった。
 鉄筋コンクリート三階建ての近代的な建物。
 どうやらここは、学校から見て裏手の部分にあたるようであった。
 敷地に沿ってその周囲を何気なくふらりとまわったケンタは、やがて見晴らしの良い学校の正門付近に辿り着いた。
 校舎の敷地の並びにはその旧名称であるのだろうか「御母衣学校」と記された記念看板が設けてあった。
 そこから先、久々野町の中心部へと伸びる道筋はかなり急な下り坂を描いている。
 その最上部でおもむろに足を止めたケンタは、同地から見ることのできる久々野の街と舟山という名を持つ小高い山に視線を投げた。
 飛騨川と無数河(むすご)川の合流点に広がる閑静な街並み。
 なんとも女性的な美しい稜線を形作る緑の山並み。
 日本の原風景が四方に配されたようなその景観を、彼は呆然とした表情のまま、まんじりともせず眺め続けた。
 双眸に映る左様なパノラマが、どういうわけか偽りの思い出に鎮座する古い村落のそれによってたちまちのうちに上書きされる。
 唐突に心臓が高鳴った。
 何をもってそうなったものか、理由はさっぱりわからなかった。
 ケンタ自身、もとよりその理由など考えようともしなかった。
 ふと気が付いた時、彼はどこにでもある極々ありふれた住宅街の中を歩いていた。
 交通量のほとんどない生活道路やモダンな一軒家が建ち並ぶその様子から推測するに、どうやらここはどこか山の手の中腹あたりに分譲された新しい住宅区画のようだった。
 ケンタは自分が何故この場所にいるのかをまったく把握できなかった。
 自分がどうやってここに来たものか。
 あるいはここに至るまでの間、どのような行いをしてきたものか。
 それらに関する詳細な記憶は、彼の頭の中からごっそりと抜け落ちてしまっていた。
 そんな彼の目の中になんとも場違いな存在が飛び込んできたのは、およそ次の刹那の出来事だった。
 赤くて大きい立派な鳥居。
 神社の入り口のようであった。
 その鳥居を潜った先には長い石段が続いているようで、住宅街の裏山に建っているのであろう社屋の姿自体は、この場から視界の収めることはできなかった。
 いかにも現代風の街中に大いなる違和感とともに存在する伝統の象徴。
 好奇心に駆られたケンタは、意味もなくその近辺へと歩み寄った。
 石段の根元では、ひとりの老爺がほうきを片手に掃除をしている最中だった。
 この神社に仕える神職の者なのであろうか。
 型通りの白衣と薄い紋付の紫袴とを身に付けたその小柄な老人は、近付いてくる大男の気配を察してのものか、不意に腰を伸ばしケンタのほうに身体ごと向き直ってみせた。
 ケンタの頭部に強烈な衝撃が訪れたのは、まさにその瞬間のことだった。
「茂助さん!」
 彼は叫んだ。
 両目を大きく見開きながら、唖然として立ち尽くす。
 そうすることしかできなかった。
 そうすること以外、その精神が許可を出そうとしてくれなかった。
 そう、ケンタの眼前でこちらを向いたその神職の顔は、彼が夢の中で見知った秋山家に仕える下人・茂助のそれと瓜ふたつであったからだ。
 いや、瓜ふたつとかそういったレベルのものですらない。
 もはやそれは、同一人物であるとさえ断言してもいいほどの近似であった。
「はて、何か私に御用ですか?」
 頓狂なケンタの態度を目の当たりにし、神職の老人は左様語りかけながらするすると彼の目の前へとやってきた。
 ケンタが慌てて「い、いえ。人違いです。知ってる人によく似ていたもので」と両手を振るのを顧みず、「いやいや。確かに私の名前はモスケと言います。人違いではございませんよ」とにこりと笑って言い切った。
 なんとも親しげな口調でもって彼は尋ねる。
「失礼ながら、あなたさまとはどこかでお会いしましたかのう?」
 じろじろとケンタの身体に視線を這わせながら彼は言った。
「初めてご尊顔を拝見する方とお見受けしますが、どうにもこうにもいずこかでお目に掛かったような気がしてなりませんので──おお、ひょっとしてあなたさまはプロレスラーの方なのではございませぬか?」
「わかりますか?」
「わかりますとも」
 大きく胸を張って老人は応えた。
「これでも、そこにある『プロレス神社』で先祖代々宮司を務めておりますがゆえ」
「『プロレス神社』?」
「おや、ご存じない?」
 思わず湧き出たケンタの疑問符に、ほっほっほ、と軽快な笑い声を上げたその宮司は、さも自慢げにおのれの神社について解説を始めた。
「本当の名前は『こしゅう神社』と申しましてな。年に二回、夏と秋とに五穀豊穣と子供たちの健やかな成長とを祈願して伝統の祭りをするのでございますが、そのおりに開く奉納相撲の決まり事が、なんともまあいわゆるプロレスのルールというものにそっくりなのでございますよ。
 それゆえに、いつの間にかおやしろの本当の名ではなく、誰がいつ言い出したのかわからない『プロレス神社』という呼び名のほうが有名になってしまったのでございます」
 宮司は続ける。
「とはいえ、これでも当社は由緒あるおやしろでございましてな。
 始まりは、江戸時代は元禄の頃。この飛騨地方一帯が徳川幕府の天領となる以前、飛騨金森家が六代・金森出雲守が当主となっておったおりのことと伝えられております。
 おやしろに残された逸話によれば、なんでもそのころ、とある邪な藩の家老が下心をもってひとりの娘を拐かし、高山城に幽閉したとのことにございます。
 それはなんとも明らかな無法の行いでございましたが、あろうことか家老の威勢ははなはだ強く、それに面と向かって異を唱える者もおらなんだそうで。
 もはや泣き寝入りもやむなし。誰もが左様諦めかけたおりのことでした。
 たまたま娘の実家で世話になっておったひとりの旅の武芸者が到底それをよしとせず、一宿一飯の恩を返すべく家老のいる高山城へたったひとりで乗り込んだとのことにございます。
 そして家老配下の剛の者と正々堂々の立ち合いのすえ見事これを打ち破ったその武芸者は自らの手で窮地より救ったその娘を妻とし、末永くこの地でしあわせに暮らしたと、そのお話は締め括られておりまする。
 加えて申せば、なんとその立ち合いを裁いた御方こそ彼の有名な水戸黄門、すなわち徳川光圀公そのひとなのだそうで。実際、私の家に代々伝わっている古文書を信じるなら、当社はその武芸者の勇気を行いとに感動した御老公がわざわざ鶴岡八幡宮より観請なされて建立されたおやしろとのこと。
 そもそも『古』い『秋』と書いて『こしゅう』と呼ぶおやしろの名前からして、武芸者の姓『古橋(こばし)』とその妻となった娘の姓『秋山(あきやま)』からそれぞれひと文字ずつをとって付けられたものと言い伝えられており──ああっ、おまえさま、いきなりどこへ行かれるのです? 話はまだ終わっておりませぬぞ!」
 宮司の制止を振り切り、ケンタは鉄砲玉のように走り出した。
 脇目も振らず鳥居を潜り、長い石段をそれこそ全速力でもって駆け上がる。
 「夢」じゃなかった!
 歯を食い縛りつつケンタは思った。
 あの出来事は「夢」なんかじゃなかった!
 葵さんも、秋山先生も、おみつさんも、茂助さんも、鼓太郎も、頭白さんも、水戸の御老公たちも、みんなみんな「夢」の住人なんかじゃなかったんだ!
 それが葵さんの言ったとおり「穂高山の大天狗」とやらの仕掛けた質の悪い悪戯なのかどうかは、莫迦な俺にはわからない。
 でも、それでも、この俺が何百年もの刻を飛び越え、こことは違うあの時代で俺にしかできない何かを成し遂げたんだってことぐらいはわかるつもりだ。
 そう、俺は間違いなくあの時代に行って、あの時代に暮らして、そしてあの時代に確かな足跡を残してたんだ!
 あそこで経験したすべての出来事は、俺にとって疑いようのない、もうひとつある「現実のこと」にほかならなかったんだ!
 ケンタがその足を進めるにつれ、古い石段を挟む風景が真新しい住宅の壁面から木々の群れなす緑の林へと変化していった。
 ほとんど間を置かずに、その色彩がきざしなく移ろう。
 優しい総天然色に彩られたそれから、年代物の写真のようなセピア色一色のそれへと──…
 ケンタを取り巻くときの流れが、それを追うように緩やかなものへ変貌を遂げた。
 微風のように優しく、木漏れ日のごとくたおやかに、それは大柄な彼の身を包み、幼子へと伸びる母の手にも似た感触でその心魂をなでさすった。
 「とき」
 そう、「とき」とは、「とき」の流れとは、そもそもいったいなんなのであろうか?
 ひとは一日を二十四等分したものを基準としてしか、「とき」というものを認識することはない。
 認識することはできない。
 そしてそれは、ただ日月星辰の運行を表すためだけに作り出されたかりそめの物差しにしか過ぎぬ。
 だが、果たして「とき」というものとは本当にそれだけの存在なのであろうか?
 いや、そうではなかろう。
 とき。
 ときとして。
 ときどき。
 ときには。
 そうした言葉の意味するとおり、予期することのできぬたまさかのこと、たまさかのもの。
 人智を越えたさまざまな縁。
 ひとの身では察することすら叶わない謎めいた生と生との絡み合い。
 積み重なった過去の闇から無限の可能性を持つ永劫の未来まで、そのすべてを象徴し司るものこそが、いわゆる「とき」というものなのではあるまいか。
 だとすれば、ひとならざる者の棲む神域へと至る門をおのれの意志で潜り抜けた古橋ケンタがふたたびときの旅人と成り得たことも、別段不可思議な現象ではないのかもしれなかった。
 長い石段の最上部に立つ大きな鳥居の下を通り抜け、激しく息を切らせながら神社の境内へと達したケンタの耳元で、ちりん、と小さく鈴の音が響いた。
 それは彼にとって、かすかなれども断じて聞き忘れようのない音色だった。
 その軽やかな音を耳で捉えたケンタは、とある娘が大事にしていた母の形見の懐剣とそれに付けられていた可愛らしい小振りな鈴とを思い出し、はっと顔を上げつつその足を止めた。
 そんな彼の視界の中にふわり羽衣のごとくひとりの少女が舞い降りたのは、およそ次の刹那の出来事だった。
 浅黄色の着物をまとう、凜とした雰囲気を備えた小柄な少女。
 その艶やかな黒髪を勝山に結い、腰に巻いた帯には袋に入った懐剣が差し挟んである。
 それはまるで、時代劇の世界からそのまま飛び出してきたかのごとき出で立ちだった。
 彼女が、この世の者ではない幻の少女であることに疑う余地はなかった。
 されどその存在こそが、いまケンタが心から欲している大切な大切な拠り所であることもまた、言わずもがなの真実であった。
 音もなく地に着いた彼女のピュアな微笑みが、ケンタの胸中を否応なしに締め付ける。
「葵さん……」
 彼は振り絞るようにして少女の名前を口に出し、それを耳にした少女もまた、凜とした笑顔を浮かべて自らの想い人へと言葉を紡ぐ。
『おめでとうございます、ケンタさま』
 少女は──飛騨高山が剣客、秋山弥兵衛の娘・葵は、左様表裏のない口調でもってケンタに告げた。
『あなたさまがもともとおられた時代へとお戻りになられたのですね。良かった……本当に良かった』
「おめでたくなんか……ない!」
 そんな葵の発言に、吐き捨てるかのごとくケンタは応えた。
「俺は……秋山先生と約束しました。必ずあなたを守ってみせると約束しました。死に際の先生に向かって、俺は……俺は……自分の口で約束してみせたんです。
 なのに、なのに……俺はその約束を破った!
 自分の言葉に対する責任を、あなたに対する責任を、オトコとしての責任を放り出して、自分だけ勝手にもとの世界へ逃げ帰ってしまった!
 おめでたくなんかない!
 おめでたくなんかない!
 俺は卑怯者だ!
 散々格好いいことを言っときながら、結局はその格好を付けることすらできなかった!
 オトコとして、プロレスラーとして、体裁を整えることすらできなかった!
 俺はオトコ失格だ! プロレスラー失格だ!
 尊敬するひとを、尊敬してくれるひとを、ライバルを、ファンを、そのすべてをこれ以上なく裏切ったんだから!」
 この時、ケンタはおのが身に何が起きたものか、そのすべてを察していた。
 そうだ。
 俺は決して夢を見ていたわけではない。
 夢から覚めたわけでもない。
 俺は、この古橋ケンタというプロレスラーは、超次元的な力で運ばれたこことは違う時代、こことは違う世界で、間違いなくその人生のひと時を刻み付けていたんだ。
 そしてそこで、本当なら出会うはずなんてない人たちと出会い、交わされるはずなんてない縁を交わした俺は、またしても不思議な力に転移を強いられ、こっちの意志とはまったく無関係にもといた時代への帰還を果たす羽目に陥ったんだ。
 なんてこった!
 なんてこった!
 なんて……こった!
 改めてその真実を噛み締めたケンタの眼から大粒の涙がこぼれだした。
 激しい悔恨と自責の念が溢れさせた涙であった。
 二十一世紀への帰還。
 それは断じてケンタの責任によるものではなかった。
 天変地異がひとの生業によって左右されぬのと同様に、それは彼個人の努力によってどうにかできる物事でなどありはしなかった。
 だがそれでも、ケンタはその場で号泣した。
 「絶対王者」「鉄人」「伝説の男」とまで賞される日本マット界屈指の強者が、人目もはばからず泣き喚いた。
 それは紛うことなき魂の叫びだった。
 訪れた悲劇を他者のせいにせず、その責を残さずおのれで背負い込まんとする(おとこ)の、その人間性の表れにほかならないものだった。
 そうやってただひたすらに自分自身を責め続けるケンタに葵がそっと言葉をかけたのは、それからややあってのちのことだった。
『ケンタさま』
 あたかも子供を諭す親のような口振りで、葵は優しくケンタに告げた。
『よろしければ、私の後ろを御覧になってくださいまし。じっと目を凝らし、心を澄ませて御覧になってくださいまし』
 そう促しにかかる少女の言葉に、ケンタは俯かせていた顔をゆっくりと上げた。
 言われるがまま、彼女の肩越しにその向こう側へと目を向ける。
 そこに見えるものは、社の拝殿であるはずだった。
 社殿建築において、祭祀・拝礼を行うための建築物。
 物理的に、それが見えていなければならないはずであった。
 そうでなければならないはずであった。
 だがしかし、ケンタの目にそのようなものは映っていなかった。
 彼は葵の背後に、まったく別の情景を眺めていたからだ。
 そしてそれこそはまさに、ケンタ自身が希望して止まなかったひと齣にほかならないものであった。
 まず彼の目に飛び込んできたのは茂助の姿だった。
 随分とくたびれた神社のような建物を、こつこつとひとりで直している。
 ケンタはそのあばら家が、重傷を負った自分が光圀一行らの手で担ぎ込まれたあの建物であることに気付いた。
 そう言えば茂助の先祖は戦乱で廃れた神社の宮司だったっけ、などということを漠然と思い出す。
 その次に浮かび上がってきたのは、鍬を片手に畑仕事をする少年の映像だった。
 年の頃は十二、三といったところだろうか。
 日に焼けた健康そうな顔色が、なんとも実に清々しい。
 ケンタは、その少年がおのれの弟子・鼓太郎の成長した姿であることを認識した。
 少し年齢を重ねたせいか、背丈も伸び、角度によっては男らしい凜々しさすら帯びるようになっている。
 そんな鼓太郎にやや遠間から声を掛けているのが、元秋山家の下女・おみつだった。
 相も変わらずのんびりと間延びした口調で、親しげに鼓太郎のことを呼んでいる。
 内容からすると、どうも昼飯の類いを持ってきたようだ。
 ふたり並んで一服している様子から見て取るに、鼓太郎は彼女の実家でやっかいになっている身のようだった。
 まだ男女の関係とまでは行っていないのだろうが、姉弟に近い力関係ですっかりその尻に敷かれているといった雰囲気が、その掛け合いからはまこと濃厚に伝わってきていた。
 これはこれで意外と似合いのふたりなのではないかとケンタは思った。
 堪えきれないおかしさが胸の内から込み上げてくるのを感じる。
 そんな両者に続いて現れ出でたのは、純白の頭髪を持つ異形の僧侶・頭白と彼が面倒を見ている子供たちの姿だった。
 柳生蝶之進こと武芸の達人・頭白坊は、いまその太い手指に悪戦苦闘を強いながら必死になって針仕事をこなしている。
 かつては幼子だった子供たちもいまではそれなりに成長し、こと娘たちに至っては、炊事や裁縫など諸々の家事について育ての親たる頭白に対し先導の立場を取ることも多くなってきているようだ。
 それは、苦闘中の頭白の横ですいすいと同様の仕事を達していく彼女らの手筈を見るだけで容易にうかがい知ることができた。
 そしてそれに変わって映し出されたのは、旅装束を身にまといいずこかの街道を行く徳川光圀とその一行の姿だった。
 彼の老爺は、松之草村小八兵衛やエチオピアの黒人戦士・ボブサプを引き連れながら、いまだ年甲斐もなく綽々と各地を行脚しているのだろうか。
 いや、間違いなくそうなのであろう。
 さすがに後の世の講談のごとく世直し旅に出ているというわけではなさそうだったが、その晴れやかな表情を見る限り、老いてなお自由気ままで闊達な人生を歩んでいることだけは明らかだった。
 やがて場面は移り変わり、今度はその者たち一同の集っているひと部屋がおもむろにケンタの視界へと広がった。
 それはどこか料亭の離れか、さもなくば大きな屋敷の奥座敷か。
 さほど豪勢な造りではないが、それでも清潔に整えられた、畳敷きの立派な部屋であった。
 頭白の連れの子供たちを含めてこの場にいる皆が皆、きちんとした儀礼用の衣装を身に着けていた。
 左右に分かれて整然と座している彼らの前に置かれているのは、質素だがそれなりに贅をこらした祝いの膳だ。
 そして部屋の中央には、大きな盆に載せられた松の盆栽が鎮座している。
 なんという厳かな雰囲気。
 そうか、これは結婚式なのだ、とケンタは悟った。
 だが、誰と誰との婚礼なのだ?
 素朴な疑問符とともにふと上座へと視線を伸ばしたケンタは、その先で白無垢姿の花嫁を捉えた。
 恥ずかしそうに俯きながら、綿帽子で顔を隠そうとする小柄な新婦──…
 その直後、ケンタは彼女の正体がいったい何者であるのかをしかと見切った。
「葵さん!」
 思わず彼は小さく叫んだ。
 驚きの表情を浮かべると同時に、咄嗟に花婿のほうへと目線を投げる。
 そこでケンタは、およそ信じられない存在を目の当たりとした。
 重ね重ねの驚愕に一段と大きく目を見開いた彼は、ただ呆然とその巨体を立ちすくませることしかできなかった。
 あれは俺だ!
 間違いなく俺だ!
 葵の隣で大きな身体をひたすら小さく縮めている花婿を見たケンタは、その男性が紛うことなき自分自身であることを即座に認めた。
 そして悟った。
 それが絶対あり得ない現象であることを完全無欠に承知した上で、それでもなお寸分の疑惑を交えず、文字どおり見たままありのままをひとつ残さず受け止めた。
 そうだ。
 ケンタは、古橋ケンタという時の旅人だった男は、時空連続帯を飛び越えて訪れたこことは違うあの世界に、あろうことかもうひとりの自分を残したままにしてきたのだ!
 それが果たして何を意味するものなのか。
 いかなる企てによって成されたものなのか。
 いやそもそもどうやってそれが適ったものなのか。
 学のないケンタには到底理解することができなかった。
 もとよりそれは、この世に生きるすべての賢者たちがその智粋をことごとく総動員したところで咀嚼することすら叶わぬ、まさしくそんな異次元の出来事なのだろうとさえ思われた。
 だが当のケンタにとって、そんな小難しい話はもはやどうでもいいことであった。
 彼はその「現実」を直視した瞬間から、これまでの生涯でついぞ得たことのない深い満足感によって満たされていた。
 それがある意味、この大男が望んだ結果を完璧にもたらす最善の一手であることを本能的に感じ取っていたからであった。
 「とき」とやらが、この自分に何をさせようとしていたのかはわからない。
 ほかの世界から自分という不自然な要素を導入することで、どのような変革を求めていたのかもわからない。
 されど、それでも一向に構わなかった。
 ケンタは思った。
 なんの意図に左右されることもなく、ただただ思った。
 そうか。
 俺は、あっちの世界に残った俺は、みんなの想いを裏切ることなくあっちの世界で人生を歩み、結ばれ、育み、老いて、そしてあっちの世界の土になったんだな。
 ゆっくり彼は目を瞑る。
 異様な充実感が、その全身を否応なしに加熱していった。
『おわかりいただけましたか、ケンタさま』
 葵がふたたびケンタに語りかけたのは、そんな矢先のことだった。
 改めて少女へ目を向けた大男は、大きく頷くことでそれに応える。
 見ると、彼女の後ろに新たな人影が立ち並んでいた。
 似合わない宮司姿の茂助がいた。
 鍬を担いで格好を付ける鼓太郎がいた。
 手拭いを頭に巻いた野良着姿のおみつがいた。
 子供たちを連れた作務衣姿の頭白がいた。
 旅装束に身を固めた光圀たち一行がいた。
 そして柔らかく微笑む葵の肩にそっと手を置くもうひとりのケンタがいた。
 彼らすべてから親愛のこもった眼差しを投げかけられたこちらの世界の古橋ケンタが、きりりと表情を引き締めてそれに応じた。
「葵さん」
 おもむろに彼は尋ねた。
「そっちの俺は、あなたをしあわせにできましたか?」
 想い人から左様問われたその少女はしばし傍らの夫に向かって目を向けると、ひと呼吸置いてそっと両手を前に差し出した。
 その手の中に、きらきらとした輝きが夏の夜の蛍のごとく集まっていく。
 やがて目映いばかりに密集したそれは、誰の目にも明白な形を成した。
 それは、なんとも透き通った瞳を持つひとりの嬰児の姿だった。
 小さな手を元気に振り回す、まだ言葉も発せぬ女の子。
 言うまでもない。葵とケンタとの間にできた新しい命だ。
 それを見たケンタが相好を崩す。
 何物にも勝る明確な回答を受け、彼は何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
 良かった。
 良かった。
 本当に良かった、と。
 そんなケンタに葵が声を掛けたのは、しばらく時を置いてからのことだ。
『ケンタさま』
 葵は言った。
『次は、あなたさまの番でございます』
「俺の?」
『はい』
 訝るケンタに彼女は告げた。
(えにし)とは悠久の時を超えてなお必ずや結ばれるものと、葵は信じております。私と、あなたさまとがこうして巡り会うことのできたように』
 その後、ケンタは自分がいつどのようにして帰路に就いたものかをはっきりと思い出すことができなかった。
 それは間違いなく、胸一杯に詰まった熱い想いがそれ以上の情報処理を頑なに拒んでいたからにほかならなかった。
 だからであろうか。
 彼は、道を行くおのれがその途中で誰と出会い、そして誰とすれ違ったものかをまったくおぼえていなかった。
 「プロレスラー・古橋ケンタ」を見知っていた地元のファンが、咄嗟に記念撮影をねだってきたこともおぼえていなかった。
 つい赤信号の交差点を渡ろうとしてしまい、走ってきた車の運転手から窓越しに怒鳴りつけられたこともおぼえていなかった。
 授業を終え学舎からの帰宅途上にあった女子学生の行列と延々逆方向に歩いたことも、いっさいおぼえていなかった。
 そして、その女子学生のうちのひとりが、ふと足を止めて振り向きざまにおのが背を見詰めていたことにもまた、まったく気付くことがなかった。
「いまのひと──」
 視界の中で徐々に徐々に小さくなっていく大男の背中に視線を送りながら、少女はなんとも不思議そうな表情をして呟いた。
「確かどこかで会ったような──…」
 思わず記憶の底を探る彼女。
 しかし、その手がかりとなるような何物かが見付かることはなかった。
 にもかかわらず、少女は男の背中を見詰め続けた。
 そこに理屈はなかった。
 なのに、ただただ心惹かれてならなかった。
 何故なんだろう? 
 彼女は思った。
 変な私、と自分でもそんなおのれに疑問を抱きつつ、されど少女はその行為を止めることができずにいた。
 周りの状況など顧みず、じっとその場に立ち続ける。
 やがて彼女の友人と思われる少女のひとりが業を煮やし、後続してこないその少女の名前を大音量で口にした。
 他愛ない学友の愚行に終止符を打たんとして、両手を口に当てつつ彼女は叫んだ。
「アオイー。何してんのー。早く来ないと置いてくよー」
「あっ、待ってくださいミツコ先輩。すぐ行きます!」
 慌てて呼びかけに応じた少女は、振り返りざま弾かれるように走り出した。
 飛騨の山々を降る穏やかな風が、スカートの裾を優しくなでる。
 もし見る力のあるひとがその姿を捉えたなら、もしかしたらその者は彼女の左小指から伸びる赤い糸の存在を目撃することができたかもしれない。
 そしてそのもう一方の先端が、いまや豆粒のように遠ざかってしまったあの愚直な大男のそれに結ばれているという揺るぐことのない事実をも。
 緑の風が、なお一層強く木々の香りを運んでくる。
 その芳しい香りは、いまも、そして数百年前の元禄の世も、寸分も変わることなく人々の郷愁を楽しませて止まない。
 そんな目には見えない流れに乗って、かつてこの地に生きたひとりの少女の囁きが、ゆっくりとゆっくりと、まだ相まみえぬふたりの間を漂っていった。

 (えにし)とは悠久の時を超えなお必ずや結ばれるものと、葵は信じております。
 私と、あなたさまとがこうして巡り会うことのできたように。
 そう──私と、あなたさまとがこうして巡り会うことのできたように。
 必ず──…
 必ず──…





 元禄ぷろれす武芸譚 ケンタくん、ラリアット! 完
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