第十二話:熊肉の毒

文字数 9,500文字

 その夜のこと。
 とろとろとしたまどろみのなか、ケンタはなんともいかがわしい夢を見た。
 寝床におのれを求めてきた葵を「男」として迎え入れるという夢だ。
 ありえないシチュエーションではある。
 だが、夢の中のケンタは、あろうことかその状況をなんの抵抗もなく受けとめてしまったのだった。
 これまで耳にしたことなどない葵の吐息が、なぜか艶めかしく耳元で響くその淫夢。
 それが最終章(クライマックス)を迎える寸前、彼は跳び上がるように目を覚ました。
 まだ夜明けにはかなりの間がありそうな時間帯だった。
 寝間着が大量の汗でじっとりと濡れている。
 気温の高さだけが原因ではあるまい。のっそりと上体を起こし、額の汗を袖で拭く。
「くそっ、なんて夢だ……」
 左胸で心臓が荒々しく脈打つのを実感しながら、ケンタは頭を抱えて呟いた。
「よりによって葵さんを……騎士(ナイト)お姫さま(プリンセス)相手に欲情してどうする? 落ち着け落ち着け、古橋ケンタ。自分の立場をわきまえろ」
 ふと、寝床の脇に立てられた屏風のほうへ目をやってしまう。
 十二畳の座敷を真ん中から分けるよう設けられたその隔たりの向こう側には、自らが守るべき少女・秋山葵が深い眠りに就いているのだ。
 思わず、その寝姿を想像してしまうケンタ。
 勢い良く頭を振り、慌ててその映像を頭蓋の中から排除した。
 小声で「まずいまずい」を連呼しながら、両手で頭を掻きむしる。
「……こんなことになるんなら、肉食ってエネルギー充填なんかするんじゃなかったよ、まったく」
 そうぶつぶつと独りごちた直後、ケンタはどっとため息を吐き出した。
 ことの元凶となった出来事に思いを馳せたからだった。

 ◆◆◆

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。それって、俺と葵さんが同じ部屋で寝るってことですか?」
 布団を敷きに来た女中たちとともに就寝のあいさつに訪れた旅籠の主・山元屋広吉にケンタが頓狂な質問を投げかけたのは、前日の宵五ツ刻(午後八時頃)を過ぎたあたりの頃だった。
 「はい」と至極平然とした口振りで、広吉はこれに答えた。
「何か問題でもありましたでしょうか?」
 その回答に向け、ケンタは身を乗り出すように噛み付いた。
 「問題は大ありだ!」とでも言いたげなほどの勢いだった。
 彼は右手を小刻みに振りながら広吉に言った。
「いやいやいやいやいや、俺と葵さんは結婚しているわけじゃないんで。それが同じ部屋で寝るなんてのは、いくらなんでもまずいでしょう!」
 彼の言い分は、この時代においてなお当然と思われる代物だった。
 確かに、良人(おっと)でない男と年頃の娘とがひとつ部屋で枕を並べるというのは、夜這いの風習が身近にない人々──特に女性の貞操にうるさい武士階級にとって、なかなかに認めがたい行為だった。
 普通なら、泊める側もそれぞれに別室をあてがうか、さもなくば襖戸などを用意して大部屋にしきりを作るかするものなのだ。
 だが広吉は、ケンタと葵とがてっきり夫婦(めおと)同士であるものと勘違いしていた。
 縁なき男女がつがいで旅をするなど滅多にない時代のことだ。
 そのことで彼を責めるわけにはいかないと、もちろんケンタもわかっている。
 しかしながら、旅籠の主という立場にある広吉にとって、そのことはなんの慰めにもならなかった。
 ゆえに「自分たちは夫婦ではない」というケンタの発言を聞かされた広吉は、自らの大きな失態を悟りのどから心臓が飛び出るほどに驚いた。
「誠に申しわけございません!」
 彼は畳に額を当てるがごとく平伏し、心から謝罪の言葉を口にした。
 憐れみを誘うほどの声で、しかし正直に旅籠の現状を説明する。
「ですが、ただいま空きのある部屋は雑魚寝の板の間だけでして、その……」
 その言葉を受けて、ケンタはしばし考え込んだ。
 あぐらに腕組みといった格好で、目をつぶり唇をよじらす。
 彼は思った。
 こんな時間となっては改めて別の宿を探すなどもってのほかだし、第一、そんな真似をすればひととしての失礼にあたる。
 一宿一飯とまでは言えないが、その半分、つまり一宿を除いた一飯分の恩義はすでに受けているのだから。
「じゃあ、今夜は俺が板の間で寝ますから、布団か何かを貸してもらえますか」
 ケンタは決断した。
 初めにふたりがそういった関係でないことを伝えなかったのは、明確にこちら側の落ち度である。
 ここはおとなしく現状を受け入れて自分がババを引くのが妥当だと、彼は考えたのだった。
 ある意味、順当な発想であると言える。
 しかし、思わぬ反対者がここに出現した。
「なりません!」
 葵だった。
 彼女はひと声高く叫び、ケンタの主張を掣肘した。
 助け船を出され思わず安堵の表情を浮かべかけた広吉の顔が、咄嗟のことに歪みに歪んだ。
 仰天して目を丸くしたのはケンタもまた同様だ。
 応じる言葉などどこからも出てこない。
 そんなケンタと広吉に向かって、葵はなおも畳みかけるように言い放った。
「大切な恩人である古橋さまにそのようなみすぼらしい真似をさせるなど、葵、決して許すわけにはまいりません」
「で、でもね、葵さん」
 突風のような彼女の勢いに当てられてしまったケンタだが、なんとか翻意を促す言葉を口にできた。
 彼は訥々と葵に説く。
「俺なんかと同じ部屋で泊まったら、あとになっていろいろと問題が……ほら、たとえば何か間違いがあったんじゃないかって誰かに誤解されたりされなかったり──」
「私は一向に構いません」
 強い口調で彼女は言い切った。
「古橋さまが怪しからぬ行いをなさるような御方でないことを、葵は誰よりもよく存じております。たとえそれがゆえに悪い噂が立てられようとも、しょせんは袖触れあうこともない他人の流言。そのようなもの、私は少しも気になどいたしません!」
 それは、まさしく不退転の構えであった。
 「もし古橋さまが葵と枕を並べることに同意なされないなら、今宵は私こそがその板の間とやらで眠ります」とまで言ってのけたほどだった。
 もちろん、そんなことなどさせられるわけもない。
 野卑な男どもが雑魚寝しているであろう空間で年頃の娘に一夜を過ごさせるなど、飢えた狼の群れに可憐な白兎を放り込むのも同様だからだ。
 ケンタは頭を抱えたくなった。
 異性に対する自制心には鉄壁の自信を持つ彼だったが、この時ばかりは途方に暮れざるを得なかった。
 だが、まさかおのれがああいった「怪しからん夢」を見ようとまでは、正直思ってもみなかった。
 ぱたんと両手を枕に身体を倒し、呆然と暗い天井を眺める。
 ひとたび火の点いたある種の感情が、心の火照りを冷ましてくれない。
 それが自分でも意外に感じられてならなかった。
 実のところ、ケンタはこの歳になるまで「女性」を知らない。
 学生時代は柔道ひと筋の汗臭い青春を送ったし、プロレスラーとしての道を選んでからは、先輩たちが呆れるほどひたすら練習漬けの日々を堪能してきた。
 雑誌記者から「古橋はプロレスの女神と結婚した」などとからかわれたのも、それゆえのことだ。
 そんなわけだから、プライベートで「女性」と接する機会など、ケンタのこれまでには一度もなかった。
 とはいえ、若手からトップレスラーへの(きざはし)を駆け登っていくさなかに、一部の女性たちからラブコールめいたものをもらったことは何度かある。
 どの女性も魅力的で、男の目を惹きつける確かな何かを持っていた。
 「筋肉フェチ」を自称する某国民的アイドルグループの一員も、その内訳に含まれていたほどだ。
 だが、どういうわけかケンタは、そういった女性たちからの好意に心を寄せることがなかった。
 ひとりのファンとしてならばともかく、彼女らを自分にとっての特別な存在として認めることが、どうしてもできなかったからだ。
 ゆえに、いつしか彼は「ああ、俺はそういった事柄に淡泊な奴なんだな」と自己を診断するようなっていた。
 そしてそれは、時を経るごと着実に状況証拠を積み重ねてきたのだった。
 もちろん、いまでもそんな自己評価に変わりなどない。
 ところがどうだ。
 今宵の自分は、隣で寝ているひとりの娘に明らかな「女性」を感じてしまっている。
 それも、いまだ十代の半ばにある少女と言っていい年齢の娘に、だ。
 正直、これはいままで想定したことのない状況だった。
 もしかして、俺って少女性愛(ロリコン)の気でも持ってたのか?
 そんな自虐的な疑惑までも抱いてしまう。
 それは、自己不信のまさに一歩手前という状況だった。
 ふと、行灯の火を消し眠りに就こうとしたおりのことをケンタは思い出した。
 この時、葵は「お先に休ませていただきます」とケンタに告げて、礼儀正しく一礼してみせた。
 それも、ちょんと小さく三つ指をついた姿勢で、である。
 二十一世紀の日本では、もはや死滅したと言ってもいい純和風的スタイルだ。
 それはもう、愛らしいをはるかに通り越して艶っぽくすらあった。
 屏風の向こうで葵が寝間着に着替えている時、かすかに伝わってきた衣擦れの音も、いまだ耳の奥に残っている。
 「駄目だ駄目だ!」と懸命に自分自身へ言い聞かせ、ケンタは布団を頭からひっかぶった。
 しかし、状況は一向に改善の兆しを見せてくれない。
 事態の沈静化を時の流れに任せても無駄だと彼が悟るまで、大した時間は要しなかった。
 結局のところ、ケンタの選んだ打開策は「風呂に入って頭を冷やす」という、至極まっとうなものであった。
 このあたり、実に日本人的発想だと言わざるを得ない。
 この旅籠の風呂は源泉から引いた湯が終日張られているとのことなので、こんな夜更けに入浴しても問題はあるまい。
 むしろ、ほかの客がいないだろうこの時間帯は、ひとりで心と体を落ち着かせるに最良の刻と言えるはずだ。
 ケンタはそのように確信し、寝ている葵に気取られぬようそっと足音を忍ばせつつ、手ぬぐいを片手に浴場へと向かった。
 星明かりに照らされた暗い通路をすり足気味に進み、紺色ののれんがかけられた別棟の入り口へと至る。
 木製の引き戸を静かに開け、手前に設けられた脱衣場にケンタは足を踏み入れた。
 棚に置かれた油杯(あぶらつき)が小さな炎を灯していて、中は仄かに明るかった。
 六畳程度の広さを持つその脱衣場の奥には、もう一枚の引き戸が見える。
 浴場への入り口だった。
 いそいそと着物を脱ぎ全裸となったケンタは持参した手ぬぐいを肩にかけ、なんのためらいもなくがらりとその扉を引き開けた。
 まさかこんな時間に湯浴みをしている者もいないだろうと思っていたから、扉の向こう側に対する配慮など欠片も持ち合わせてはいなかった。
 だが、現状はそんな予想を完膚なきまで裏切った。
 開けた引き戸のすぐ向こうには、すでに別の人影が存在していたのだ。
 おそらくは、いままさに自分で引き戸を開けようとしていたのだろう。
 突然開いた扉に驚いてか、その身を凝固させ立ちすくんでしまっている。
 大きく見開かれたその両眼が、ケンタの目線と真っ正面から激突した。
「古橋……さま?」
「葵……さん?」
 ケンタは我が目を疑った。
 さもあろう。扉の向こう側、まさに手を伸ばせば届くような至近の位置に立っていたのは、彼が部屋で眠っているとばかり思っていた少女・秋山葵であったのだから。
 「時が止まる」とは、まさしくこのことであった。
 ちょうど浴場に入ろうとしていたケンタと、湯浴みを終えそこから出ようとしていた葵。
 あたりまえだが、どちらも一糸まとわぬ状態だ。
 内包する筋肉でぱんぱんに膨れあがったケンタの肉体と、白磁のような肌を持つ葵の滑らかな肢体とが、薄暗がりの中で対峙する。
 ごくり、とケンタののどが鳴った。
 葵もまた、小さく息を飲み込んだのがわかった。
 先に自分の時間を取り戻したのは葵のほうだった。
 固まったままケンタの両眼に合わさっていた目線がゆっくりと動き出す。
 下方へ。
 顔から首、胸板、腹部、そして──…
 彼女の視点がその一点で停止した瞬間、ケンタは勢い良く目の前の扉を引き閉めた。
 その場で回れ右をして、声を枯らさんばかりに絶叫する。
「すいませんすいませんすいませんすいませんすいませんっ!」
 奔流のごとき謝罪の言葉が、ケンタの口からほとばしった。
「ままま、まさか葵さんが入っているなんて知らなかったもんで! 俺、俺、俺、その、見る気なんてこれっぽちも──」
「古橋さま──」
 そんな彼の叫びを分断したのは、扉の向こうから聞こえてきた葵の言葉だった。
 静かに落ち着いた、いやむしろ感情などこもっていないようにさえ聞こえる声で、彼女はケンタに指図した。
「まことに申しわけありませんが、先にお部屋へ戻っていてはいただけませんでしょうか?」
 それを耳にした瞬間、ケンタの背筋を絶対零度の水流が滝のように流れ落ちていった。
 若手の頃、「ブレーキの効かない暴走機関車」と謳われた強豪レスラーとのシングルマッチに臨んだときですら、これほどの寒気を覚えたことはない。
 言われるがまま、ケンタは部屋へとんぼ返りした。
 脱いだ寝間着を脇に抱え下着すらも適当に付けただけという、とても人前には出られない格好で、だ。
 真っ暗に近い部屋の中でばたばたと衣装を整え、彼は葵が帰るのを身動ぎもせずひたすら待った。
 背筋をぴんと伸ばした正座の姿勢。
 それは、あたかも悪さをした子供が親に叱られるのを待つかのごときだった。
 先刻とはまったく異なる意味で、心臓がばくばくと脈打っている。
 そうさせているのは、いわゆる「恐怖」という名の感情だった。
 扉の向こうで発せられた葵の台詞。
 それが、ケンタには日本刀のごとく鋭利で冷たい怒りの表れに感じられてならなかったのだ。
 怒ってる。
 怒ってるよな。
 膝の上で両の握り拳に力を込め、ケンタは思わず震えあがった。
 愚にもつかない思考が、頭の中で右往左往を開始している。
 混乱の序曲だった。彼は思った。
 いくら不可抗力とはいえ、女の子の裸を至近距離で見ちゃったんだ。
 とてもじゃないけど、笑って許してもらえるような出来事とは思えない。
 しかも、葵さんは武家の娘。
 ああいった破廉恥行為には、めちゃくちゃ厳しいことを言ってきそうだ。
 いや、疑問の余地なんてどこにもない。
 めちゃくちゃ厳しいことを言ってくるに決まってる!
 まずい、まずい。
 どうしよう。
 とりあえず土下座して謝って、それで済んだらいいんだけれど、もしそうじゃなかったら……
 わああっ、俺って莫迦だ!
 なんでもう少し周りの様子に気を配らなかったんだ!
 す、と音もなく障子戸が開いたのはその時だった。
 葵が帰室したのだ。
 心中で七転八倒していたケンタはその姿を到底直視などできず、彼女がおのれの真ん前に着座するまでひたすら俯いたままだった。
 蛇に睨まれた蛙のごとく、だらだらと脂汗を滴らせる。
 「古橋さま」という、葵の第一声が口火となった。
 ケンタは、大きな身体を一気に前方へと投げ出した。
 背中を丸め両掌を畳に押し付け、深い謝罪の意を全身でもって表現する。
「ごめんなさい!」
 すべての思いをただひと言に込めて、ケンタはそう口走った。
 それ以外の選択肢は、彼の中にはいっさい存在していなかった。
 だが、その発言は完遂されることがなかった。
 別口から放たれたこれまた謝罪の言葉が、ケンタの口上を中途で阻んだからだった。
「申しわけございませんでした!」
 発言者は葵だった。
 思わぬ事態に腰を折られる形となったケンタが顔を上げると、そこには小さな身体をさらに小さく丸めて平伏する彼女の姿があった。
 事情がまったく飲み込めずぽかんと呆けるケンタをよそに、葵は顔も上げずに言葉を紡ぐ。
「私、なんと古橋さまに失礼なことを……み、見るつもりはなかったのでございます! そ、それが、その……なんとはしたない真似をしたものか。私、私……古橋さまに合わせる顔がございませんっ!」
 支離滅裂な弁明だった。
 当初、ケンタは葵が何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。
 が、やがて、風呂場でふたりが対峙したとき、彼女が見せた瞳の動きに思いが至る。
 おのれの身体に沿って動き出した葵の目線。
 その到達した先にあったものと言えば──…
 かくん、とケンタのあごが落下した。
 大口を開けたまま、その目が小さく点になる。
 頭の中で、すべてのパズルが組み上がった。
 拒絶したくなるような現実が、確かなものとなって実感された。
 かっと顔中を真っ赤にしながらケンタはうろたえ、その両手が眼前の虚空を無目的に掻き回した。
「いや、とりあえず悪いのは俺のほうですっ!」
 縮こまり一向に顔を上げようともしない葵に向かって、ケンタはふたたび頭を下げた。
 半分は恥ずかしさからくる()()()()であったが、残る半分は紛れもない本心だった。
 つぶてを投げ付けるような勢いで、彼は言った。
「葵さんの裸を見てしまったのは、全面的に俺に非があります。迂闊でしたっ! 不注意でしたっ! 勘弁してくださいっ!」
「いえ、私のほうこそ悪いのでございますっ!」
 しかしながら、葵の側も引く様子を見せない。
「裸体を晒したのは、夜更けゆえ、と油断した葵の側に責がございます。そんなことより、私、なんと不埒で恥ずかしいことを古橋さまの面前で……お許しくださいっ!」
「とんでもない。悪いのは俺で」
「そんな、悪いのは葵のほうでございます」
「いや、俺が」
「いえ、私が」
「俺が」
「私が」
「俺が」
「私が」
「俺が」
「私が」
 なんの伸展もない言葉の応酬が、しばしふたりの間に展開した。
 それは激しくも結果をともなわない、なんとも不毛なやりとりだった。
 そのことを先に悟ったのは葵の側だった。
 彼女は、恐る恐るといった口振りでケンタに向かい案を呈した。
「あの……古橋さま」
 葵は告げた。
「この件は、()()()()、ということでいかがでしょうか?」
()()()()……ですか?」
「は、はい。()()()()でございます」
 おあいこ──引き分け、痛み分け、両成敗。
 悪くない判断だとケンタは思った。
 というより、素晴らしい判断だと感じ入った。
 このままでは、はっきり言ってらちがあかない。
 大体において、あれは事故だ。
 お互いが自分の責を認め相手に謝罪を要求してなどいないのだから、ここは双方納得のうえでお手打ちにするのが最良の選択だと思われた。
 頭の悪いケンタでさえ、それが最も望ましい結論であることを理解できた。
「あ、葵さんさえよければ」
 葵の提案に、ふたつ返事でケンタは答えた。
 その返答に乗じて、葵がそっと頭を上げる。
 暗がりの中でも見て取れるほどに顔を紅潮させた彼女は、「では、おあいこということに」とケンタに告げるなり、そそくさと屏風の向こう側へ姿を隠した。
 ケンタもまた、この一件を頭から振り払うように布団の中へと潜り込み無理矢理に目をつぶった。
 だが結局のところ、その日ふたりは眠れない夜を送ったようだった。
 朝日が障子越しに差し込み出すのと前後して寝床から起き出したケンタと葵であったが、どちらもこれまでになく眠たそうな表情を浮かべている。
 まるで、そのまぶたの重みが幾倍にも増えているかのごときありさまだ。
 もっとも、女中が運んできた朝餉の膳を挟んで向かい合うふたりがまともな会話を交わさないのは、それだけが理由ではあるまい。
 葵に至っては、ときおりちらちらとケンタのほうに目を遣りながらその顔はほぼ俯き加減なままである。
「あ、葵さん」
 気まずい沈黙に耐えきれなくなったケンタが、努めて明るく話を振った。
「昨日食った熊肉、ひょっとしたら今朝も出してくれるんじゃないかと思ったんですけど、やっぱり無理だったみたいですね。ははは」
 どうみても不自然な笑顔が、ケンタの台詞を締め括った。
 それは、到底愛想笑いと評するに値しないほどぎこちなくわざとらしいものであった。
 ただし、言っている内容に嘘はない。
 彼は、久しく口にしていなかった獣肉の味わいを改めて思い出し、それとなく葵の側に同意を求めたのだ。
 もしかしたら、これをきっかけに秋山家でも魚介類を除く動物性蛋白を口にできるようになるかもしれない、という密かな期待を言下に込めて。
 その発言を受けた葵の眉が、傍目にも明らかなほどぴくりと動いた。
 おっ、脈ありか、とケンタが手応えを感じた矢先、彼女はそれとはまったく無関係な質問を口にした。
「古橋さま」
 手に持った椀と箸とを膳に置き、葵は顔を上げることなくそう言った。
「昨夜、古橋さまは、なにゆえあのような刻に湯浴みをなさろうと思われたのですか?」
「い、いや、その──」
 戸惑いながらケンタは答える。
「寝汗が酷くて気持ち悪かったからですよ」
 もちろん、本当の理由など口にできるはずもなかった。
 この年頃の、それもことさらそうした話題に潔癖そうな娘に向かって「ちょっと破廉恥な夢を見たもので」などと言おうものなら、即座に軽蔑されかねない。
 少なくともケンタはそう考えて、それなりに納得できそうなわけを速攻ででっちあげた。
 「葵さんのほうこそ、なんであんな時間に?」という質問返しを添えながら。
「……夢を見たからでございます」
 ためらいがちに葵は答えた。
「夢?」
「はい」
 彼女は続ける。
「夢を……見まして、それでその、汚れた身体を洗おうと……」
 ケンタの頭上に七色の疑問符が次々と浮かびあがった。
 話の脈絡がさっぱり見えない。
 いったい何をどのように繋げれば、「夢を見た」結果が「身体を洗う」行為へ帰着するのだろうか。
 葵の説明は、完全にケンタが理解できる範疇を越えていた。
「その夢って」
 ケンタは尋ねた。
「どんな夢だったんです?」
「ぞ、存じませぬ!」
 激しく首を左右に振って葵は答えた。
 その顔は、晩秋の紅葉を思わせる見事な朱へと変貌を遂げている。
 「どうしたんです?」と、突然の変貌を訝しんだケンタが言葉をかけた。
「どうしたんです、葵さん?」
「存じませぬ。存じませぬっ!」
 彼女はふたたび首を振る。
 何かよほど言いたくない内容の夢であったのだろう。
 本来なら、ここは聞き手が気を利かせて引くべき場面であった。
 そう考えるのが自然だった。
 だが鈍いことでは人後に落ちないケンタは、「そんなに言いにくい夢だったんですか?」と余計な問いかけを口にしてしまう。
 葵の紅潮が一段と増した。
 首から上をすべて熟した林檎の色に変え、彼女はひときわ大きく言い放った。
「存じませぬっ!」
 そのひと言が心のたがを外させたものか、葵は一気に癇癪を爆発させた。
「すべては、あの『熊肉』が悪いのでございます!」
 それはもう真正面のケンタを怯ませるほどの勢いで、葵は自説を叩き付ける。
「私があのようなはしたない夢を見てしまったのは、すべて『熊肉の毒』が悪いのでございます! そう、それ以外には考えられないことでございます。それに相違などございませぬっ!」
 そこで葵は顔を上げた。
 勢いに押され思わず後退りしてしまったケンタの顔を、きっと鋭く睨み付ける。
 決然とした表情だった。
 「古橋さまっ!」と彼女は告げた。
 いや、高らかに宣した。
「私、今後いっさい『四つ足の肉』は口にいたしません。もちろん、お父さまや古橋さまにも、あのような汚らわしいものは口になどさせません。よろしいですねっ!」
「は、はいっ!」
 ケンタには、それを了承する以外の選択肢がなかった。
 そしてそれは同時に、彼の抱いた「ささやかな野望」が完膚なきまで潰えた瞬間にほかならなかった。
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