第二十九話:一刀流兵法・井川源三郎

文字数 12,604文字

「竹林での一件では、我が門人どもが世話になったそうだな」
 口の端を吊り上げながら、朗々たる声で剣客は言った。
 表情こそ笑っているようであっても、それはむき出しの敵意と傲慢さとを同時に内包した、ケンタへの好意など微塵も含まないこと明白な口上だった。
 竹林での一件?
 剣客が発したその言葉に一瞬だけ疑問符を浮かべたケンタだったが、次の瞬間には、それの意味するところが自分と葵との出会いとなったまさにあの日の出来事なのだと思い至った。
 そう、いまとなっては忘れもしないあの日あの時。
 なんの因果か、時空を超えてこの時代へ足を踏み入れてしまった彼は、町外れの竹林にて葵をさらわんと目論んだ無頼の輩三名を成り行きとはいえ退けた。
 その三名の狼藉者をあえておのれの門人と称するとは、いま目の前に立つこの剣客はあの連中の「師」だとでも言うのか?
 改めてまなじりを険しくし、ケンタは威嚇するように問い返す。
「誰だあんたは?」
 ケンタは言った。
「人に名前を尋ねるのなら、そちらも名乗るのが礼儀じゃないか」
「そのとおりだな」
 不敵に笑って剣客は名乗った。
「我が名は井川源三郎。一刀流兵法・井川源三郎じゃ」
「井川……源三郎?」
「そうじゃ」
 剣客はまるでケンタを見下すように鼻を鳴らし、腰の刀に手を伸ばした。
「おぬしから我が門人の受けし屈辱、それをこの場にて晴らしたい。立ち会いを所望いたす。いざ尋常に勝負されい!」
 音もなく滑らかな動作で刀が抜かれた。
 その鋭刃は、夜の帳を透かしてもなお圧倒的な存在感をもってケンタの視線を捉えて離さぬ。
 ケンタの脳裏に、秋山弥兵衛が襲い来る剣客の腕を断ち切ったあの光景が浮かび上がった。
 まさしく一閃という表現がふさわしかった彼の太刀筋。
 弥兵衛は、文字どおりただそのひと振りだけをもって、いとも容易く人の腕部を切断した。
 人体の持つ柔軟な肉も強硬な骨も、その切れ味鋭い日本刀の斬撃を阻むことなどできなかった。
 ケンタの背中にどっと冷や汗が雪崩れ落ちた。
 あれを相手に、いったいどう戦えばいいんだ?
 そんな迷いが、突如として頭の中を巡り出した。
 予期せぬ困惑は、たちまちある種の恐怖と化して彼の心身を押し潰さんと蠢動を始める。
 ケンタにとって真剣を抜いた相手との争いはこれが初めてとは言えない。
 先に源三郎が口にした「竹林での一件」で、彼は抜き身を手にした三人の男と戦っている。
 だが、あの時といまとでは、ケンタを取り巻く状況がはっきりと異なっていた。
 物理的なそれではない。
 もっぱら心理的なそれだ。
 あの竹林での戦いは、改めて言うまでもなく、古橋ケンタという時の迷子が否応なしに巻き込まれたまさに突発的な出来事(イベント)だった。
 ゆえに彼は、自らの置かれた立場をさっぱり理解できぬまま、ほとんど無我夢中といった心境で狼藉者たちと相対した。
 もちろん、あの時も刀というものに対する恐怖心はあった。
 だが、その感情が具体的な認識でなかった事実まではぬぐいきれない。
 いわばケンタは、自分が直面した境遇をほとんど現実的なそれとして捉え切れていなかったのである。
 しかし、いまは違った。
 数ヶ月の時を経てようやくこの時代の現実をおのれの血肉として受け入れられるようなってきた彼は、目の前に存在する「剣」という名の対人兵器を、「あれは『テレビ画面の向こう側にあるもの』なのだ」と無理矢理自分に言い聞かせることができなくなっていた。
 いまのケンタにとって「剣」は身近な凶器であり、それを振るう剣客は、役者の演じる架空世界の住人ではなく実際に呼吸し体温を肌で感じ得る生きた人間そのものだった。
 だからこそ、ケンタは押し寄せる怖じ気をどうしても排除することができなかった。
 刀で切られたら、いったいどれぐらい痛いのだろう。
 ナイフで指先を切っただけでもあれほど痛みを感じるのだ。
 それはもう想像を絶する苦痛に違いない。
 ましてや四肢を切断されることともなれば、はたして正気を維持できるものなのだろうか。
 いやいや、とてもそうとは思えない。
 では腹を刺されたら?
 胸を突かれたら?
 肩口を深々と切り裂かれたら?
 そうなったとき、そもそも自分は生きていられるのだろうか?
 死んでしまうんじゃないだろうか?
 死?
 死?
 死……だって?
 ひょっとして、俺はいま生まれて初めて本当の「仕合」というものに臨んでいるのかもしれない。
 手加減抜きの真剣勝負(セメント)が裸足で逃げ出すような、本当の意味での生命(いのち)のやり取り──すなわち「死合い」と呼ばれる究極の戦いに。
 それまで考えたこともなかった人生の終焉たる「死」という現実。
 頭の片隅によぎったそれを突如として認識し、ケンタの膝はわずかに震えそれにあわせるように歯の根もなった。
 それは、彼の精神ではなく肉体が主の思いを察した結果の反応だった。
 この戦いに負けたら、待っているのはおそらく「死」
 そんな予感がケンタの胸を圧迫する。
 全身から冷たい汗が噴き出して知らず知らずに着衣を濡らした。
 心臓が痛いほどに乱拍し、いつしか呼吸すらも乱れ出す。
 生き物が自身の「死」というものに抱く普遍の恐怖。
 おのれが殺されるかもしれないという可能性を前にして、その圧倒的な重圧を軽く飲み込んでしまえるほどの勇者など、およそこの世にはひとりもいまい。
 もしそんな奴が現実にいたとしたら、そいつはきっと頭のねじが何本か抜けているような狂人かその近似値に違いない。
 恥ずかしげもなく「怖い!」「助けてくれ!」と大声で叫びたくなるこの気持ち。
 いま実際にそんな感情を痛感し、ケンタは強く強くそう思った。
 そう信じた。
 だが同時に、彼の中で明星のようにひとつの疑問符が立ち上がった。
 いや待て。
 だったら、なんでいま自分はそうしないんだ?
 ふと思いついた疑問をケンタは自分自身に問いかけた。
 命をかけてまで葵さんを、鼓太郎を、おみつさんを守る。
 この俺がわざわざ格好付けてまでそんな真似をする理由っていったいなんだ? 
 それが秋山先生と交わした大事な約束のからみだからか?
 それとも、それが男として果たさなければならない絶対の義務だからか?
 違う。
 そうじゃない。
 それだけじゃない。
 それも確かにあるけれど、断じてそれだけじゃない。
 のしかかる大岩のごとき重圧にも屈せず我が心の中になお力強く屹立する大樹の姿を感じ取り、ケンタはうっすらと口元をほころばせた。
 彼は気付いた。
 気付くことができた。
 そう、それはこの俺が「プロレスラー」だからだ。
 プロレスラーは、ファンの期待に、自らを応援してくれる人たちの期待に、おのれの全身全霊をもって応えなくちゃならない。
 それこそが、「プロレスラー」とただ強いだけの「格闘家」「武芸者」とを分ける唯一の、そして決定的な要因なんだ。
 いわゆる「強さ」なんてものは、プロレスラーにとって課せられた役目を果たすために必要な、単なるひとつの素養に過ぎない。
 だから、俺は退かない。
 絶対に退かない。
 たとえこの身が砕けようと、一歩たりとも退くものか。
 俺は「プロレスラー」だ。
 「プロレスラー」が、自分が守ると決めた人の、自分を応援してくれる「ファン」の期待に応えなくてどうする。
 そうとも。
 葵さんや鼓太郎、それにおみつさんの前では、この俺はいつだって心から頼れる「ヒーロー」でなくっちゃならないんだ!
 そう改めて覚悟を決めたケンタの眼前で、井川源三郎はゆっくりと大上段に刀を構えた。
 大上段の構えとは、対戦相手をおのれの気合いで圧倒しつつ、振り下ろした大刀のただ一撃によって仕留めるを狙った攻撃重視の構えのことだ。
 無論、よほど腕に覚えがなければ取れるような構えではない。
 それは勝負の行方に絶対の自信を持っているからか?
 足下の動きに注意を払いながら、ケンタはじっと源三郎の心理を推し量った。
 ふと、かつて弥兵衛が口にしていた言葉が彼の脳裏に浮かび上がる。
 ひと月近く前、秋山道場に他流の剣客が一手の教えを請いに訪れた日のことだ。
 野太刀自顕流(のだちじげんりゅう)を修めたと名乗るその剣客を道場主たる弥兵衛はいとも簡単に退けたが、ケンタはその時、敗れたとはいえ相手が見せた攻撃一辺倒の剛剣に強い興味をそそられた。
「剣術って奴は、ああいう受けを度外視した戦法も許されるんですね」
 そう感想を述べたケンタに向かって、弥兵衛は「相手の手の内を知らぬからこその先手でござる」と微笑みながら教えを説いた。
「そもそも受けというものは、立ち会う相手が何をしてくるのかが読めねば話にもなりません。ゆえに私どものように木太刀を用いて型稽古をする流派の場合、それなりの力量を持たぬ者には他流との仕合を許しておらぬのです」
「なるほど」
「古橋殿、いまから言うことをよくおぼえておきなされ。真剣勝負の立ち会いにおいて自ら先手を狙う者、受けを捨て大上段よりの切り落としを目論む者の大半は、戦う相手の持つ技を知らぬがためにおのれの軸足を攻めに置くしか選ぶ道がないのだということを」
 そうか。
 改めて弥兵衛の言葉を反芻したケンタは、ぺろりと舌なめずりをした。
 確かに俺は真剣相手の立ち会いについて初心者以外の何者でもない。
 でもそいつは相手にしたって同じことだ。
 あの井川源三郎とかいう剣客も、プロレスとの立ち会いは生まれてこの方一度だってないはず。
 つまり、対戦経験だけはお互いまったくの五分ってことか──…
 いつの間にかケンタを襲っていた膝の震えや奥歯の鳴りは、完全に息を潜めてしまっていた。
 愛刀を頭上に構える源三郎に応じるがごとく、ケンタは腰に差した道中差へと手を伸ばした。
 それを見た葵たちの顔付きが、見る見るうちに驚きの表情へと変わった。
 「得物を握る」という彼の選択が、彼女らにとってはおよそ予想外のそれだったからだ。
「古橋さまが剣を……」
 これまで葵はケンタが剣を振るう姿など見たこともなかった。
 もちろん、父・弥兵衛が彼に剣術を教授した可能性は考えられる。
 でも、仮にそうであったとしても、彼女の中では、古橋ケンタと剣の道とは決して交わることがないだろうとの思いがあった。
 その思いがいま翻された。
 少なくとも、葵の目にはケンタの動作がそのように映った。
 そしてそれは彼と立ち会う井川源三郎にしても同じであった。
 源三郎の脳内において、この古橋という武芸者は無手での闘術を駆使する男と定められていたからだった。
 こやつ、剣を使いもするのか。
 一瞬の戸惑いが源三郎をたじろがせる。
 本人の意思とは別に、その足先がわずかに怯む。
 そんな彼の姿勢を敏感に察してか、ケンタはせなに隠した葵たちに向かって振り向くことなくこう告げた。
「みんな、俺が合図したら一斉に逃げ出してくれ」
「え?」
 それを聞いた葵が困惑の色を浮かべる。
「古橋さま、いったい何をおっしゃって──」
「説明はあとでします。とにかくここは俺の言うとおりにしてください──いまだっ!」
 問答無用とばかりに放たれたケンタの叫びに反応して、葵たちはわけもわからぬまま脱兎のごとく駆け出した。
 咄嗟の変化に、源三郎の目線がそれに引かれた。
 「むっ」と小さく唸り身を乗り出す。
 ケンタの手から光る何かが投じられたのは、まさにその瞬間だった。
 彼は抜き放ったばかりの道中差を対戦相手めがけ勢いよく投げつけたのだ。
 奇襲。
 いや、そう表現するにはあまりに稚拙な策略だった。
「さかし!」
 飛来する刃を苦もなく愛刀にて払い落とし、源三郎は罵りの声を上げる。
「臆したか、古橋ケンタ!」
 この時、源三郎は確信した。
 おのれの対戦相手がこの場から尻尾を巻いて遁走するつもりであったという厳然たる事実を、だ。
 あの男は、初めから我と立ち会うつもりなど毛頭なかった。
 その胸中にあったものは、ただおのれとおのれの身内の保身のみ。
 こちらが堂々たる立ち会いを所望したのを良いことに、機を見て逃げ出す算段をしていたに違いない。
 ゆえにこそ、斯様な子供だましでもってこちらの隙をこしらえようとしたのだ。
 なんという匹夫!
 武士として到底語るに値せん!
 だが、その判断は武に生きる者としてあまりにも軽率に過ぎた。
 なぜならば、戦う相手に背を向けるといった選択肢を、もとよりこの古橋ケンタという人間はその心中のどこにも持ち合わせてなどいなかったからだ。
 源三郎がそれに気付いたのは、次の刹那のことだった。
 投じられた道中差をはじき、すぐさま追撃の一歩を踏み出そうとした彼は、いままさにおのれが侮蔑したばかりの対戦者が我が身の間近にあるのを知った。
 ケンタは、自らが投じた刀を追うようにして、身体ごと一気に源三郎の間合いへと飛び込んできたのである。
 驚愕が濁流のごとく彼を襲った。
 囮だったというのか。
 わざわざ腰のものを抜いて、得物でもって我と対する素振りを見せたのも囮であれば、咄嗟に娘子供を逃がそうとしたのも囮。
 そして、刀を投げつけ立ち会いを放棄すると見せかけたこともまた囮。
 囮、囮、囮──そのすべてが囮。
 何もかもが、いまこの間合いを得るために積み重ねられた謀だったというのか。
 あり得ぬ。
 あってはならぬ。
 斯様に無様な真剣勝負などあってはならぬ。
 そもそも剣術とは、真剣を用いた勝負とは、もっとこう常道に則った美しき流れであるべきなのだ。
 そうでなければ我は認めぬ。
 このような奇策に奇策を折り敷いた立ち会いなど、ひとかどの剣士として断じて認めるわけにはいかぬ!
 その直後、狼狽した源三郎の左膝に言葉にならぬほどの激痛が走った。
 突進してきたケンタの右足が膝の頭を真正面から踏み折ったのだ。
 みしっという不気味なきしみ音とともに、彼の左足が人体としてあり得ない角度に曲がる。
 源三郎の口から獣のような悲鳴が上がった。
 脳内を電撃が駆け抜け、血走った目からはそれまで映っていたすべての景色が閃光とともにはじけ飛んだ。
 ケンタの巨体が、疾風のようにそんな彼の背後に回った。
 たちまちのうちに丸太のような両腕が源三郎の上半身を片羽交い締めの形に捕らえる。
 刹那の間を置き、彼は雄叫びを上げつつ源三郎の肉体を勢いよく後方へと反り投げた。
 ハーフネルソンスープレックス!
 片腕と首とを極めることで相手に万全の受け身を許さない、あまりに危険な投げ技だ。
 たとえそれがプロレスラーであっても、下手をすればこれ一発がフィニッシュホールドになりかねない。
 ましてや、それがプロレス式の受け身(バンプ)を知らぬレスラー以外の者たちならば、落ち方次第では命にすら関わるほどの大技だった。
 そんな危ない代物を、ケンタはいま、ためらうことなく対戦相手に使用した。
 源三郎の身体が、夜の虚空に見事なまでの弧を描く。
 自分の身に何が起こったのかを理解する間も与えられず、彼の脳天は真っ逆さまになって大地の上へと突き刺さった。
 爆発的な衝撃が体幹部を上下に貫き、源三郎の意識は一瞬にして粉砕された。
 おのれの全体重が重力と遠心力で加速され、そのことごとくが人体急所たる頭頂部にまとめて叩き付けられたのだ。
 鍛え上げられた太い首を持つプロレスラーですらが危険と評すその技を、いかに武芸者とはいえ畑違いの剣術家が耐えられる道理などどこにもなかった。
 下が柔らかな地面であったことが彼にとっての幸いだった。
 そうでなければまともな受け身を取れなかった源三郎は、致命的な大怪我を負っていたことだろう。
 しかし、それとても勝負の行方からすればほとんど誤差の範疇と言えた。
 完全に意識を失った源三郎の身体が半回転してうつぶせに倒れる。
 弛緩した利き手からは刀がこぼれ、四方に投げ出されたその手足はぴくりとも動かない。
 誰の目から見ても、「勝負あった」と判断できる状況だった。
 ケンタもまたその例外ではない。
 彼はむっくりと腰をひねって起き上がり、おのれの後ろで倒れ伏す剣客に向け目を遣った。
 それは特に意識しての行動ではない。
 むしろ、本能的なものだったとするほうがよほど真実に近かった。
 残念ながら、人間とは強い緊張感を持続し続けられる生き物ではない。
 たとえその心身を引き締めている時間がほんのわずかであろうとも、人体は必ず隙を見て我が身に休息を取らそうと試みる。
 その要求は、人々の想像以上に頑迷で、しかも極めて狡猾なものだ。
 だからこの時、ケンタが覚えたわずかな安堵を彼自身の油断と責め立てることは、少なくとも命がけの実戦経験を持たない者に許されるべき行為ではなかった。
 後知恵でエラーを裁こうとするのは、言うまでもなく愚者の所行にほかならないからだ。
 しかし、そのたったひと呼吸の弛緩がケンタと葵たちにもたらしたものは、極めて深刻な状況だった。
 それ文字どおり彼らの行く手を大きく左右するひと太刀となって、その頭上めがけて勢いよく降り注いできたのである。
「古橋さま、後ろ!」
 葵の叫びが原野を走った。
 耳を貫く彼女の指摘に、ケンタは思わず振り返る。
 その目が仰天の余り大きく見開かれた。
 彼はそこに、こちらへ向かって大きく斬りかからんとするひとりの男を見出したのである。
 しまった!
 ケンタは、おのれの過ちを瞬時に悟った。
 油断した。
 敵は奴だけじゃなかったんだ!
 そのとおりだった。
 この場には源三郎に付き従ってきた剣客がもうひとりいたことを、あろうことかケンタは見事に忘却していたのである。
 それは油断と言うにはあまりにもお粗末な、致命的なまでの失策だった。
 むさくるしいなりをしたその剣客はこれまで立ち会いの礼儀に反せぬよう黙って勝負の成り行きをうかがっていたのだが、自らの師が敗れるに至って、その報復をせんとばかりに腰の刀を抜き放った。
 裂帛の気合いとともに大きく前進し、同時に上段からおのが愛剣を振り下ろす。
 風切り音よりずっと早く、煌めく鋭刃がケンタに向かって襲いかかった。
 奇襲にも近いその一撃を受け、それでもなお咄嗟に体を反らすことで致命傷を回避し得たのは、ケンタの持つ卓越した格闘センスが成せる業であったのかもしれぬ。
 だが、しょせんそれにも限界があった。
 刀の切っ先が彼の左足を切り裂いた。
 大腿部の外側中央。
 真っ赤に焼けた針金で肌の上をなぞったような感触が、ケンタの脳裏を直撃した。
 「痛い」ではなく「熱い」
 苦痛が現実のものとなったのは、その直後のことだ。
 袴越しに断たれた肉から、どっと生暖かい鮮血が流れ出す。
 何かに酔ったような剣客の目線がケンタのそれと交わった。
 夜目にも鮮やかな、露骨なまでの敵意と殺意。
 痛覚に身を任せ悶絶する余裕などケンタにはなかった。
 彼は歯を食いしばって痛みをこらえ、反撃のため大きく右手を振り回した。
 身体ごと半回転させて勢いを付けた手刀が、剣客の顔面に渾身の力で叩き込まれた。
 ローリング式の逆水平チョップ。
 ごつい岩のような手刀が音を立てて鼻骨を砕き、剣客は悲鳴と鼻血とを吹き出しながらただ一打にて昏倒する。
「古橋さま!」
「師匠!」
「古橋さまあ!」
 顔をゆがめて座り込むケンタに向かって三者三様の声が飛んだ。
 真っ先に彼の側へ跪いた葵が、素早く左足の切り傷をのぞき込む。
 思った以上に出血がひどい。
 生き死にを左右するほどの大怪我ではないが、深手であることに疑いはなかった。
 それを見て一瞬言葉を失った彼女だったが、すぐさま着物の片袖を噛みちぎり、それをもってケンタの傷口と足の付け根とをきつく縛った。
 傷口そのものをふさぐことと、これ以上の出血を妨げるためだ。
 その手際の良い応急処置は、あるいは父・弥兵衛より教わったものなのだろうか。
「葵姉ちゃん」
 彼女の背中から手当の様子をうかがっていた鼓太郎が、恐る恐る尋ねた。
「師匠の傷の具合はどうなの?」
「駄目……」
 小さく首を振って葵は答えた。
「これ以上の手当は私では……いまのままでは、とても国境を越えられる傷ではありません。なんとかしてお医者さまにかからないと」
「すいません。俺の不注意です」
 苦痛ゆえか、顔中に脂汗をにじませながらケンタは皆に謝罪した。
「このまま俺が殿を勤めますから、葵さんたちはどうか先に行ってください」
「左様なことができるとお思いですか!」
 そんな彼を、面と向かって葵が叱った。
 彼女の表情は、いまにも泣きそうになるのを必死になってこらえている、まさにそう表現すべき有様だ。
 それを目の当たりにしたケンタは、小さく息を飲みつつ「すいません……」と謝りながら頭を垂れた。
 葵もまた、彼の言葉に応じるよう声を震わせ語りかける。
「古橋さまは私の、いえここにいる皆のために、皆を守るために傷を負われたのです。お願いですから、そのように『置いて行け』などという残酷なことは、もう二度とおっしゃらないでくださいませ」
 訴えるように彼女は言った。
「父・弥兵衛は私たちを逃すため、あえて敵中に残りました。古橋さまも、私たちを守らんと一命を賭して戦いに臨まれました。でも葵には、自分に果たしてそれだけの価値があるのかどうかがわかりません。いいえ、わかろうとも思いません。古橋さま、私はそれぐらい莫迦な娘なのです」
「葵……さん」
「ですから、葵は絶対に古橋さまを見捨てません。ひとたび父を見捨てた自分がいままた古橋さままで見捨てたとあっては、私は私自身を許せなくなってしまいますゆえ」
 彼女はすっくと立ち上がった。
 座ったまま呆然と自分を見上げるケンタの手を取り、不退転の意もあらわに宣言する。
「この身は古橋さまの剣にも盾にもなれないかもしれませぬが、杖の代わりぐらいは務められます。さあ、遠慮なく私の肩にお掴まりください」
「強いひとですね」
 苦笑しながらケンタは告げた。
「あなたを助けなきゃいけない立場の俺が、いまあなたに助けられようとしている」
「今度は謝らないでくださいませ」
 嬉しそうにはにかんで見せた葵がそれに応えた。
「古橋さまの危急に手助けができ、葵は本望でございます」
 右足に力を込め、ケンタは立ち上がった。
 左足の怪我は痛いのだろうが、苦悶の声をあげたりはしない。
 左脇に寄りそう葵の肩に形だけだが手を乗せる。
 彼女はああ言ってはいるが、まるで子供のような体格の少女にとってケンタほどの巨漢を支えるという行為はまず無理難題と評し得る。
 ケンタも、そして当人たる葵も、おそらくはその事実を十二分に理解していた。
 理解していてなお、ケンタは葵の思いを無碍にしようとはしなかったし、葵もそんなケンタの心遣いが心の底から嬉しかった。
 しかし同時に、彼女はおのれの非力を心底恨めしく思っていた。
 私にもっと「力」があれば。
 もっともっと「力」があれば、父を置き去りにすることも、古橋さまに傷を負わすこともなかったのに。
 悔しい。
 この身が非力な「女」であることが悔しい。
 大切な人々の苦境にあって、自分はなんの「力」にもなれない──…
 そうやって自分を責め、唇をかみ締めているのは何も葵だけではなかった。
 「古橋ケンタの一番弟子」を自認する鼓太郎もまた、それに類似する感情におのが身を焦がしていたのだった。
 むしろ自分が「男」であると自覚していた分、その無力感は葵に数倍していたかもしれぬ。
 鼓太郎は葵に支えられるよう立ち上がった師匠の足に目を遣った。
 応急とはいえ止血が施されているにもかかわらず、その傷口を覆う布には流れ出る血液が大きな染みをこしらえていた。
 まるで無理矢理平静を装うケンタと成り代わるように、鼓太郎は激しくその表情を歪ませた。
「おいら、水戸屋のご隠居を呼んでくる」
 小さな拳を握りしめ、鼓太郎は皆に告げた。
「このままじゃあ、やっぱり遠くへは逃げられないよ。事情を話して、あの人たちに助けてもらおう」
「水戸屋のご隠居か……」
 ケンタはしばし思考を巡らせ、そして答えた。
「いい案かもしれない。どうせ駄目でもともとだしな。このまま何もしないより数倍ましだ」
「一ノ宮までは、あたしが鼓太郎坊を案内(あない)しますよう」
 そう申し出たのはおみつだった。
「お嬢さまと古橋さまは、それまでどこかに身を隠していてくださいまし」
「どこか、って、あてはあるんですか?」
「益田川の漁師小屋がええと思います」
 ケンタの問いに彼女は答えた。
「あそこならお嬢さまにもわかりますし、暗い中で目に付く場所でもありませんです。あそこにじっとしていてくだされば、あたしと鼓太郎坊がご隠居さんたちを連れて駆け付けてきますで」
「迷っている刻はなさそうですね」
 決断したのは葵だった。
「私たちはそこであなた方を待つこととします。鼓太郎さん、おみつ、どうかよろしくお願いします」
 間を置かずに一ノ宮までの行程を駆け出したふたりと別れ、葵とケンタはおみつの言う「益田川の漁師小屋」へと向かった。
 それは高山城下を南北に流れる益田川のほとりに建つほったて小屋のようなもので、主に繁忙期を狙って余所からやってくる雇われの漁師たちが一時の生活拠点として使用している建物だった。
 地元の漁師たちも仕事の休憩場所として重宝しているため、その中には布団や飲み水が常に用意してあった。
 もしかしたら、食べ物や怪我の治療に必要な道具が置かれている可能性もある。
 しばしの隠れ家としては、まず最適な環境だと言えた。
 傷付いた足を引きずるケンタを献身的に支えつつ、葵はおのれの知る最短距離でもって益田川へと向かった。
 人目に付かぬよう西へ歩くことおよそ半刻(約一時間)
 ようやくのことで、ふたりの視界に川の流れが現れる。
 上流のほうで激しく雨が降ったのだろうか。
 益田川はその水かさを格段に増し、いまや轟々と不気味な音を奏で出すほどになっていた。
 明るい時にそれを目にしたならば、土塊を含んだ茶色い濁流を認めることができたであろう。
 葵たちはそのまま大小の石が転がる河川敷近くにまで降り、益田川の流れに沿って目標たる漁師小屋を懸命に目指した。
 天候が突如として崩れ頭上に大粒の雨を注いできたのは、ふたりが闇夜の向こうに小さな木造の建物を認めたのとほとんど同じ頃だった。
「もう少しでございます、古橋さま」
 体中を雨粒に叩かれながらも、ケンタを元気づけるよう努めて明るく葵は告げた。
 だがしかし、当のケンタは小さく頷くことでしかそれに応えることができなかった。
 ここまでの道中で弱気な言葉などひと言も発しなかった彼であったが、やはり怪我の痛みと出血とがその気力・体力を大きく削っていたのであろう。
 雨の滴とは別に顔面を流れ落ちる脂汗が、何よりも雄弁にそれを物語っていた。
 そんなケンタを気遣いつつ、激しく降り出した雨から少しでも早く逃れようと葵は若干歩みを速めた。
 されど雨脚は思いの外に速く、彼女の努力を見る見るうちに無益なものへと変えていく。
 「たらいをひっくり返したような雨」とは、まさしくこの状況のことだとケンタは思った。
 ふたりの身体がずぶ濡れになるのに、さほどの時間は要しなかった。
 揺らめく人影が彼らの前に出現したのは、ふたりが件の漁師小屋を目の前にしたちょうどその時のことだった。
 互いの距離はおよそ五間(約九メートル)といったところであろうか。
 建物の陰より無造作に歩み出てきたそれは、降りしきる雨のなか、音もなくケンタたちの行く手に立ちはだかった。
 およそ生きた人とは思えないその佇まいに、葵はぎょっと息を飲み、ケンタもまた全身に緊張感を走らせた。
 あの剣客どもが先回りをしていたのか?
 一瞬そう考えたケンタだったが、すぐさまそれを改めた。
 いや、たぶんだけど、あれは連中の仲間じゃない。
 身体にまとった臭いが全然違う。
 そもそもあの連中は、良い意味でも悪い意味でも、紛れもなく「ひと」そのものだと断言できた。
 その懐に欲と俗とを併せ持つ、文字どおりの「ひと」であることに疑いなんてなかった。
 それは、その行動の節々に顔を見せている感情が明白だったからだ。
 でも、いま自分たちの眼前に立つこいつは、明らかにそういうのとは一線を画している。
 うまく言葉にできないけど、俺の肌が、本能が、経験が、何か違うと必死になって訴えている。
 「ひと」としての感情が、そのどこからも見て取れない。
 いったいこいつは──なんなんだ?
 ひょっとして、本当に「ひと」ではないのか?
 人影が改めて間合いを詰め始めたのは、ケンタたちが足を止めたその次の瞬間の出来事だった。
 両者の距離が近付くにつれ、闇の奥から人影の持つ輪郭が徐々に徐々に浮かび上がってくる。
 それは法衣を身にまとったひとりの僧侶だった。
 網代笠を被った背の高い雲水僧。
 だがその見てくれには、どこかに強い違和感がある。
 身につけたもののことごとくが闇のように黒い、そう文字どおりすべてが黒で塗り固められた彼の身形こそが、はっきりとそれを象徴していた。
 双方の間合いが二間強、およそ四メートルを切ったあたりで、ケンタは自身に寄り添う葵の身体を左腕でそっと後ろへ退けた。
 心のどこかで一戦を覚悟する。
 目の前の僧侶からはおよそ殺気も敵意も感じられないが、彼にはむしろそのこと自体がどうにも不気味でならなかった。
 じゃり、と地面を踏みしめる音を立てつつ、唐突に僧侶はその歩みを止めた。
 そこでゆっくりとあごひもをほどくと、丁寧な動作で被り物を脱いでみせる。
 その素顔があらわとなった。優しく穏やかでありながら、それでいて底を掴ませないしたたかさを秘めた眼差しがケンタたちに向けられる。
 身の丈六尺を越えるケンタと並んでも見劣りしない体躯とまるで白雪のごとき純白の髪を有するその僧侶──ケンタたちは、彼のことを親しく見知っていた。
「頭白さま」
 葵の唇が、驚きとともにその名を紡いだ。
 そう、いま彼らの眼前に姿を見せたこの僧侶こそ、ふたりが尾張国にて世話となった古寺の主・頭白坊その人にほかならなかった。
 心なしか、葵の表情に安堵の色が浮かび上がった。
 さもありなん。
 彼女にとってこの頭白という法師は、その人柄に好感を抱きこそすれ、断じて嫌悪の対象になどなり得る存在ではなかったからだ。
 地獄に仏。
 いわゆる危急の場に信頼できる味方を得たような心持ちを葵が抱いたとしても、それは仕方のないことだと言えた。
 だが、ケンタにとってはそうでなかった。
 あたりまえだ。
 このような状況下で、いかに顔見知りとはいえ、なんの前触れもなく目の前に立ちふさがる男をどうしたら無条件に信用できると言うのだろうか。
 第一、なぜこの男がここにいるのだ?
 遠い尾張の国で親のない子供たちと暮らしているはずの僧侶が、いったいなんの理由でいま自分たちの前に姿を現したのだ?
 不自然だ。
 それはあまりに不自然すぎる。
 そして、そんな彼の警戒心を全肯定するかのごとく、ひと呼吸置いた頭白は冷たく無機質な声でもってケンタに語りかけてきたのだった。
「ご無沙汰でござる、古橋殿」
 有無を言わせぬ口振りで彼は言った。
「さっそくだが、葵殿をこちらに引き渡していただきたい」
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