第十一話:益田街道

文字数 7,595文字

 中山道の太田宿から高山城下までを結び、美濃・飛騨両国を南北に縦断しているのが、俗に「益田街道」と呼ばれる交通路だ。
 かつては、「東山道支路」という飛騨と都とを繋ぐ官道がその役を負っていたものだが、飛騨高山藩初代藩主・金森長近が飛騨川沿いに「河内路(こうちじ)」という新しい街道を開くにあたり、いまや同地における主要路はこの河内路を通る益田街道へ移り変わっていた。
 河内路は、飛騨国においてもっとも格式が高いとされる「飛騨一ノ宮水無神社」裏手を始点に、「(みや)峠」「御母衣(みほろ)峠」のふたつを越えて南飛騨の中心地である萩原宿へと伸びていた。
 北陸と東海とを最短距離で結ぶその道は、飛騨国のみならず太平洋に面した各地域にとっても経済・文化の流通路として極めて重要な意味を持つ。
 ケンタと葵のふたりが行こうとしているのは、まさにそんな街道だった。
 時代劇などでお馴染みの、左右に松の木が立ち並ぶ、幅広くてよく踏み固められた土の道。
 当初、ケンタの思い浮かべた益田街道とやらも、おおまかに言えばそんなイメージのものだった。
 だが、実際に彼が目の当たりにした代物は、そんな印象とは大きく異なる何かであった。
 平たく言うなら「田んぼのあぜ道を拡大しただけのもの」とでも言えようか。
 確かに、きちんと道として整備されているかと言えばそのとおりだと言える。
 人の往来に邪魔となるような木は伐採され、橋梁や一里塚、そして一定距離ごとに休憩所とも言える茶屋や旅籠が設けられている。
 旅慣れた行商人が利用するには、まさに充分以上の完成度であろう。
 その一方で道幅はやや狭く、せいぜいあって一間(一.八メートル)といったところ。
 峠を越えるあたりでは、ところによってそれすらも満たさない。
 人が行くには問題なくても、馬や荷車にとってはかなり窮屈なはずだ。
 事実、ケンタたちは峠茶屋の周辺で幾度も荷物を載せた牛を相手に道を譲っている。
 これが馬や牛、あるいは荷車同士であれば難渋すること請け合いだと思われた。
 こりゃあ先が思いやられるな。
 それが、初日に宮峠を通過した時、ケンタの抱いた感想だった。
 旅立ちの際の腹積もりでは萩原宿までのおよそ七里(約二十八キロ)を一日目で踏破することにしていたのだが、こうも道路事情が悪いのであればそれを下方修正するしかないように思えてしまう。
 ましてや、今回の旅は女性である葵の足に合わせなくてはならないのだ。
 計画変更もやむを得ないかな、と考えた彼は、率直な意見を旅の当事者である葵に向けてぶつけてみた。
「その時は、手前の橋場で宿を取りましょう」
 それに対する彼女の返答は、真にあっさりしたものだった。計画変更(そんなこと)などわけもない。
 そう断定してしまえるくらい、それは余裕に満ちた発言だった。
 ただし、少し考えればそれももっともなことなのだと気付かされる。
 なぜなら、弥兵衛が自らの愛娘に託した手紙にはいついつまでそれを対象に届けるようにという時間的な縛りがまったく定められていないからだ。
 ケンタは、それを訝しんだ。
 いかに身内の者とはいえ、まだ少女と言える年齢の娘をわざわざ旅に出してまで手渡さなくてはならないほど重要な手紙。
 普通に考えれば、かなり急ぎの内容のはずだ。
 にもかかわらず、この曖昧さはどうしたことだろう。
 前日の晩、おのれが弥兵衛に呼び出された時のことを思い出して、ケンタは出所不明の不安感が胸中に湧くのを止めることができずにいた。
 あの晩、彼と対面したケンタは、弥兵衛の言に率直な反対意見を述べた。
 旅の途中でいつぞやのような連中に襲われたらどうするんですか、というわけだ。
 葵の護衛を承っている立場としては、至極当然の発想だと言える。
 葵を誘拐しようと試みたあの連中は、どうみても堅気の者だと思えなかった。
 確かにケンタはその内のふたりを撃退して葵の身を救出したし、弥兵衛もまた、受け持った二名に手傷を負わせこれを打ち払っている。
 だが、彼らが容易な連中でないこと自体は、両名の共通認識として完全にできあがっていた。
 さらに言うと、秋山家がこの一件をきちんと届け出たにもかかわらず肝心の役人たちのほうに動く素振りが見られないのだ。
 それを見る限り、どこからか圧力がかかっていることに疑いはなかった。
 そんな状況下で旅に出るというのは、自ら望んで孤立無援の死地へ踏み込むことと同義語ではないか。
 頭の悪さを自覚するケンタですら、その程度のことは理解できていた。
 できているつもりだった。
 だが、弥兵衛は頑として自分の意見を翻さなかった。
 もちろん、強権的な態度を取るような真似はしなかった。
 その一方で、合理的な根拠をもって訴えるでもなかった。
 彼はただ淡々とケンタに向かって頭を下げ、「お頼み申す」という言葉を繰り返したのみだった。
 結局、半刻を待たずしてケンタが折れた。
 そこまで言われては仕方がない。
 何か裏がありそうな気はしたが、それ以上の抗議を彼はのどの奥へと落とし込んだ。
「お引き受けします」
 ため息を吐きながら、ケンタは弥兵衛の意志に従う言葉を口にする。
 いまの自分の立場では、それ以外の選択がないように思われたからだった。
 あれから三月も動きがないんだ。
 もしかしたら、連中のほうで方針の変更があったのかもしれない。
 それも、こちらに都合のいい方向で。
 ケンタは、そう無理矢理に自分自身を納得させた。
 納得させたその上で、この道中、葵の身を守り抜こうと心中密かに誓っていた。
 葵とケンタが御母衣峠を越えたのは、朝四ツ刻(午前九時頃)のあたりだった。
 葵の母が眠る古寺を立ってから、およそ一刻半(三時間)かかった計算となる。
 一里半ほどの間にふたつの峠を踏破したこと、それも女性の足でということを考えればかなり早いペースだと言えるだろう。
 峠を越えれば、ひとまずはなだらかな地形が続く。
 街道はぐんと広さを増し、東北から南へ流れ下る飛騨川と併走して濃尾平野に延びていく。
 萩原宿から高山へと向かう旅人なのであろうか。
 このあたりまで来ると人とすれ違う頻度も格段に多くなっていた。
 高山で葵の外出に同行する時もそうだったのだが、ケンタは常に彼女の後ろを付いて歩く。
 その姿を視界に収めていないと、自分の承った「護衛」という任を実感しにくくなるからだった。
 葵はそうした彼の態度に、これまで一度も口を挟んだことがなかった。
 むしろ、そんなおのれの立場を楽しんでいる素振りすら見せていたくらいだ。
 この益田街道においてもそれは変わらない。
 すれ違う旅人がたまさかに見せる奇異の表情など、まったく気にしていない様子であった。
 今回、葵は藍色の着物と鳶色の帯の組み合わせを旅装としていた。
 それは、彼女がケンタと初めて会ったあの日に着ていた衣装とまったく同じものだ。
 手甲や脚絆など以外にあの時と異なっている部分を見つけるなら、それは布製の袋に収められた護り刀が胸元から顔をのぞかせていることぐらいだろう。
 その懐剣が、ちりんちりんという涼しげな音色を葵の歩調に合わせて小さく響かせていた。
 袋を結んだ紐の先に、房と並んで小さな鈴が付けられていたからだった。
「いい音だなあ」
 柄にもなく、ケンタが誉め言葉を口にした。
 世辞などではない。
 それは、紛れもなく本心から出た感想だった。
 歩きながら彼は言った。
「なんかこう、耳に優しいというか何というか。妙に心に残りますね」
「お誉めいただき光栄に思います」
 葵は応じた。
 こちらも歩みを止めることはない。
 肩越しにケンタのほうを向きながら、白兎のごとき愛らしい笑顔を浮かべてみせる。
「いまは亡きお母さまもこの鈴の音が好きでした。もちろん、私も大好きです。この懐剣はお母さまの形見ゆえ滅多に持ち出すことなどないのですが、今回は長旅となりますので、そのお守りも兼ねてお父さまが持たせてくださったのです」
「ああ、だから最初にお母さんのお墓に参ったんですか」
「はい」
 葵の瞳に輝きが増す。
「どうせこれを持っていくなら、お母さまの御霊にもこの道中を守っていただこうと思い立ちました」
「信頼ないなあ」
 ぱしんと額に平手を当て、わざとらしくケンタは言った。
「秋山先生からあなたの守りをことづかったのは俺なんですけど。俺ってそんなに頼りないですか?」
「あ」
 それを聞いた葵は思わず両手を口元に当て、まるで棒を飲んだかのごとくに足を止めた。
 慌てて身体ごと振り返り、困惑した表情を形作る。
 薄い桜色の唇が、すぐさま弁明の言葉を紡ぎ出した。
「そんな……私、決して古橋さまを軽く見ていたわけでは……」
「冗談ですよ」
 破顔一笑してケンタは告げた。
「ちょっとからかってみただけです」
「もう。言っていい冗談と悪い冗談とがありますわ、古橋さま!」
 普段の立ち姿からは想像もできない葵の年頃の少女らしい新鮮な怒りを目の当たりにして、思わずケンタは声を上げて笑ってしまった。
 それはおそらく、彼女が父・弥兵衛には決して見せない感情表現であろうからだった。
 ふたりが初日の目的地である萩原宿に到達したのは、暮六ツ刻(午後六時頃)も近付いた夕七ツ(午後五時頃)過ぎだった。
 一年もこの時期であれば、日はまだ十分に高い。
 そのことを見越し、いささか足を伸ばしたことが今回功を奏した形となった。
 萩原宿は、高山藩主の旅館があることで知られる益田街道随一の宿場町だ。
 臨済宗の名刹である「禅昌寺(ぜんしょうじ)」や、かつて源氏の棟梁・(みなもとの)義平(よしひら)が関東鶴岡より勧請した「飛騨二ノ宮久津八幡宮」など歴史ある寺社も点在し、なるほど南飛の小府と呼ばれるだけの風格を漂わせている。
 軒を連ねる旅籠屋(はたごや)の中からケンタたちが今宵の宿として選んだのは、「山元屋(やまもとや)」という看板を掲げた見世だった。
 理由はひとつ。
 近場で湧き出る温泉を利用した大風呂があるという客引きの言葉に、ケンタと葵の双方が思わず心引かれてしまったからである。
 確かに、日中を歩き通しでここまで来た両名にとって熱い湯に浸かり心身を弛緩させるというのは何物にも勝る快楽であったろう。
 上がりかまちに腰を下ろして素足になり、見世の者が持ってきた桶の水でそれを洗う。
 そんなある意味儀礼的とも取れる行為を済ませたのち年配の女中に案内されてふたりがそろって通されたのは、母屋から隔てられた離れ座敷であった。
 広さはざっと十二畳。
 青々とした真新しい畳が目に眩しい。
 水墨画の描かれた白い襖戸も極めて上品なものだ。
 山元屋は、こうした離れ座敷以外にも六畳程度の客部屋を母屋の二階部分にいくつかと、土間の側にひとつ囲炉裏のある大部屋とを持っていた。
 後者は、もっぱら金のない旅人が雑魚寝をするために使う板の間だ。
 そんな選択肢の中、ケンタたちが迷わず離れ座敷へと案内されたのは、彼らが──というより葵が武士の身内と判断されたからだろう。
 二十一世紀に生きていたケンタには知るよしもなかったが、武家の者を粗末に扱うことは旅籠の恥という認識がこの界隈の宿場では相当に強かったのである。
 部屋に上がって旅装を解き、出された白湯を一服する。
 そうすることで、ようやくケンタは腰を落ち着けることができた。
 「歩く」という本来の役目を果たしてきた左右の脚に留まらず、全身にずしりと疲労感が漂っている。
 もちろん激烈なウエイトトレーニングとは比べものになどならないが、それでもその消費エネルギーは相当なものだと思われた。
 事実、しこたま腹が減っている。
 思えば、出立前に早い朝餉を口にしてからこれまで、食事らしい食事はしていない。
 空腹感を覚えるのも当然だった。
「此度は当山元屋をご利用いただき、誠にありがとうございます」
 旅籠屋の主人である山元屋広吉(ひろきち)が姿を現したのは、それからまもなくのことであった。
 塗り壁のように広い顔を持つ、がっしりした体格の男だ。
 両手を付いて一礼し自らを名乗ってみせた彼は、愛想の良い笑顔を振りまきつつ、とうとうとおのが見世について語り始めた。
 正直、それは泊まり客にとってどうでもいい内容の話だった。
 ただ、目の前にいるこの男がおのれの営む旅籠屋を心底誇りにしていることだけははっきりとわかった。
 そうした語りを黙って聞いているうちに、ケンタの腹に棲む虫が不平の声をあげだした。
 汗の引いた身体が冷えだし、湿り気を帯びた肌着の感触がいささか不快だ。
 我慢できなくなって思わずケンタは主に尋ねた。
「すいません。飯はいつごろになりますか? あと風呂にも入りたいんですけど」
 広吉はこの不躾な問いかけに表情を曇らせるでもなく、むしろ待ってましたとばかりに言葉を返した。
「ただいま私ども自慢の鍋物を準備しております。夕餉は、もうしばらくお待ちくださいませ」
 どことなくうれしそうに、広吉はケンタに告げた。
「風呂のほうは、中庭を挟んだ別棟に内風呂がございまする。裏手から湧いた湯を直に引き入れておりますので、いつでもご利用ください」
 広吉がその場から退出したのち、ケンタと葵は交互に湯浴みを済ませた。
 浴場は広く、常時新しい湯が流れ込んできている浴槽は、大人が四、五人余裕で座れるほどの大きさを備えていた。
 それは、温泉宿と比べて勝ることはあっても決して劣ることはなかったであろう。
 なるほど、旅籠の主が自慢げに語るだけのことはあった。
 たっぷりの湯で身体を洗い、浴槽にじっくりと肩まで浸かる。
 たったそれだけのことで幸福感を覚えられるのだから日本人とは随分と安上がりな民族だな、などとケンタは思った。
 もちろん、否定的な見解から出た思いではない。
 むしろ、そんな民族に生まれた自分を幸運に感じたがゆえの感想だった。
 宿の女中が食事を運んできたのは、ケンタと入れ替わりに湯浴みへと向かった葵が部屋に戻ってきてすぐのことだった。
 漆塗りの膳が、向かい合って座るケンタと葵の前に備えられる。
 その上に乗っている献立は、白米中心の飯と汁、()()()()と干しぜんまいの煮物、鮎の塩焼きに梅干し、大根の漬け物がいくつかといったところだった。
 質素であることを旨とする秋山家の食卓とは、比べものにならないくらい豪勢なメニューだ。
 女中がおひつから炊きたての飯をよそい、持参した鉄鍋から熱々の汁物を椀に注ぐ。
 それらが改めて膳の上に置かれた時、ケンタは驚きのあまり思わず声を上げてしまった。
「肉だ!」
 彼が注目したのは、汁が注がれた椀の中身であった。
 それは、明らかに動物の肉を使用した鍋物に相違なかった。
 具は、細かく分けた肉の塊にいちょう切りの大根、さまざまな種類の()()()と笹がきにした()()()、そして鋭い角度で大胆に包丁を入れた長葱。
 それらすべてが、濃い目に味噌の溶かれた汁の中で自己の存在を高らかに主張している。
「これは『熊鍋』でごぜえます」
 いまにもごくりとのどを鳴らしそうなケンタに向かって、よく肥えた中年の女中が笑いながら告げた。
 田舎者らしい屈託のなさで彼女は続ける。
「私どもの主の叔父筋に猟師の方がおられまして、その御仁が熊や猪なんかを持ち込んでくるのでごぜえますよ。そんなもんで、私どもはそれらを汁にしてお客さまにお出ししている次第(しでえ)でごぜえます」
「へえ」
 感嘆したようにケンタは応えた。
「天然物か。そいつはうまそうだ」
「むかしから、熊の肉は食えば身体が温まるだけでなく精も付くもんだと言われておりますゆえ」
 意味深な口振りで女中は言った。
「これから頑張らにゃならねえお客さま方にとっちゃ、ちょうどいい献立でごぜえましょう」
「ありがたくいただきます!」
 すかさずケンタは椀の中身に箸を付けた。
 目標は汁の海に浮かぶ動物性蛋白の塊だ。
 巧みに箸先でそれを掴み、口の中に放り込む。
 味噌味が濃厚に染み込んだ肉塊は想像以上に柔らかく、また臭みの取れたものだった。
 以前口にしたことのある飼育された熊の肉、それと比べても粗野でなくはるかに味わい深くも感じられる。
「うまい!」
 ケンタが嘆声を発した。
「ここしばらくは、ご飯と味噌汁だけ食べてたようなものだったからな──」
 そんなケンタの喜びようとは裏腹に、葵は「熊……ですか」と呟いたきり箸を動かそうとしなかった。
 複雑な表情を隠そうともせず、椀の中身に視線を落とし続けているだけだ。
 そんな様子に気付いたケンタが訝しんで声をかけた。
「どうしたんです、葵さん? 気分でも悪いんですか?」
 ケンタの問いかけに、初めは「いえ、その……」と何か言いにくそうに口をもごもごさせていた葵だが、ふた呼吸ほど間を置いてから思い切ってそれに答えた。
 質問に質問を返す形となったが、はたと顔を上げて彼女は尋ねた。
「古橋さま。果たして獣の肉とは、人が口にしてよろしい代物なのでありましょうか?」
「はあ?」
 思いも寄らなかった反応に、ケンタは一瞬呆けたように口を開けた。
 何を理由に葵が食肉に躊躇しているのかをさっぱり理解できなかったからだ。
「よろしいも何も、動物の肉って普通に食べるものじゃあないですか。熊だからって別に毒があるわけでもないですし、栄養あっておいしいですよ」
「く、薬として獣肉を食するという話は聞いたことがあります」
 葵は応えた。
「ですが、このように楽しみとして『四つ足』を口にするなど、私にはとても──」
 当惑しきった葵の顔を目の当たりにしたケンタは、急に耐えきれないおかしさを感じて、ぷっと小さく吹き出した。
 唐突にかつて学舎で習いおぼえた知識を思い出す。
 近代以前の日本人にとって、食肉文化というものは()()()の禁忌であったのだと。
 そう言えば、当時日本史の教鞭を執っていた変わり者の担任が、「もっとも、そんなタブーを律儀に守っていたのは極々一部の侍や坊主ぐらいのものだったろうがね」とも言っていたっけ。
「難しく考えすぎですよ」
 目の前に座るこの折り目正しい少女が恩師の言った「極々一部」に含まれる層であることを認め、その上でなお彼は言った。
「熊肉だって魚やタニシと同じです。明日からまた長旅で、必要な分はきっちり今日のうちに力付けなきゃいけないんですから滋養強壮の薬だと思って食べてみてください」
「古橋さまがそうおっしゃるのであれば……」
 葵は恐る恐る箸を延ばし、椀の中身、それもおのれが禁忌とまで考えていた物体を口に運んだ。
 目をつぶり、思い切って咀嚼する。
 次の瞬間、驚きのあまり彼女のまぶたがぱっと開いた。
「おいしい!」
 葵は口走った。
「このように美味なものがこの世にあったなんて!」
 「そうでしょう、そうでしょう」とばかりにケンタが繰り返し頷く間にも、葵の食はどんどんと進んだ。
 この小さい身体のどこにそれだけの量が収められたものか、結局彼女は三杯もの御飯をぺろりと平らげてみせたのだった。
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