第十六話:白髪の僧侶

文字数 10,143文字

 ケンタたち一行はいったん善光寺道を離れ、人目に付かない木立の中や田畑のあぜ道を抜けながら南へと進んだ。
 それは、きちんと整備された街道沿いと比べると到底歩きやすい道筋とは言い難いものだった。
 所々に顔を出す木の根や石ころなどが、踏み出す足にいたずらを仕掛ける。
 にもかかわらず、鼓太郎の足取りは随分と軽快なものだった。
 この歳にして、よほど長い距離を歩き慣れているのだろう。
 本人の口にした「近くで獲ったフナやナマズを宿場の旅籠まで毎日卸してる」という言葉も、その歩調を見れば十分に頷ける。
「──と、そこでそのお姉ちゃんに悪さし始めた木っ端侍たちに向かって、おいらは釣り竿片手に打ちかかったってわけなんだ」
 道すがら、鼓太郎は何度も何度も繰り返しおのれの武勇伝を物語り続けていた。
 まあ嘘の類は言っていないのだろうが、そこは子供の言うことだ。いくらかの誇張が入っていることまでは否めない。
 自分の発言に自分で昂ぶりを覚えたのだろうか、知らず知らずのうちに鼓太郎の語りには手足の動きが加わってくる。
 竹製の竿を頭上で振り回しつつ、鼻高々に彼は言った。
「『やめろっ! その人に何すんだっ!』って言いながら、おいら、こいつで連中の頭やなんかをばしばしって叩いてやったのさ。そしたらあいつら、頭のてっぺんから湯気上げて『待てーっ』ってこっちを追っかけてきやがったんだ。『よし、うまくいったぞ』って思ったね。これで捕まってたお姉ちゃんは逃げられるし、あとはおいらが連中を振り切れさえすれば万々歳。ただ当てが外れたのは、あいつらにおいらのほうが捕まっちまったことだよ。普段ならあんなのに捕まるおいらじゃないんだけど、たまたま今日はついてなくってさ。あの橋の上で追い付かれちゃったってわけなんだ」
「左様ですか。鼓太郎さんは本当に勇気ある男子なのですね。正しきことを行うために自分より強き者に挑みかかるというのは、誰にでもできることではありませんよ」
 そんなとりとめない鼓太郎の話を、しずしずと並んで歩きながら葵は楽しそうに聞いていた。
 ときおり、感心したような相槌さえ打ってみせる。
 やはり歳が近いだけあって、どこか心の波長が合うのだろう。
 まっすぐな言葉で自分の行いを誉められた鼓太郎もまた、まんざらではない様子だった。
「そ、それほどでもないさ」
 口先ではそれを否定しつつも、鼓太郎は自慢げに鼻の下を指でしごいてみせた。
「結局、あいつらには殴られっぱなしで終わっちまってるしな。もしおいらにケンタ兄ちゃんぐらいの力があったら、あんな奴らの好きにはさせとかなかったぜ。えりゃあ! ばしばしってね」
「では、これを機会に剣の道へ進んでみてはいかがでしょう?」
 そんな鼓太郎に向かって葵は言った。
「貴殿のような勇気ある仁にこそ、ぜひ剣の神髄を学んで欲しい──そのように私などは思うのですが」
「おいら、二本差し(さむらい)は嫌いだよ。刀持ってるからって、いつもいつも偉そうでさ。何様のつもりかってんだ!」
 それを聞いて思わず苦笑してしまう葵をよそに、なおも鼓太郎は自説を主張する。
「それに、どうせ修行するならおいらは刀や槍みたいな武器に頼るんじゃなくって、さっきのケンタ兄ちゃんみたいに腕っ節だけで戦える技がいいな」
「それならば、古橋さまに弟子入りするのが最善ですね」
 そんな鼓太郎の希望を受けて、葵はさらりと案を呈した。
 降って湧いたようなその発言に、ふたりの後ろを少し遅れて歩いていたケンタは思わず驚きの表情を浮かべる。
「えっ! 俺が弟子を、ですか?」
「はい」
 葵はふと足を止めて、くるりと回れ右をした。
 その眼が冗談を言っているのではないと高らかに主張していた。
 楚々とした微笑みを浮かべながら彼女は言った。
「古橋さまであれば、きっと良き門人を育てうるものと葵は思います。身に付けた『ぷろれす』の技を後世に伝えることも、あるいは古橋さまに天がお授けになった役割のひとつなのではないでしょうか?」
「……考えたこともありませんでした」
 絶句してしまうケンタに葵が「では、考えてみてください」といたずらっぽく応えると、鼓太郎もまた「そりゃいいや!」と大きく両手を広げて歓迎の意をあらわにした。
「ケンタ兄ちゃんの道場なら、おいらすぐにでも入門するぜ!」
「そんなこと言ってもなあ、鼓太郎」
 予期せぬ流れに翻弄されつつ、困ったようにケンタは告げた。
「俺も葵さんも、名古屋での用事が済んだら高山に帰らないといけないんだぞ。仮に俺がプロレスの道場建てても、おまえ高山まで来れないだろ?」
「いや、絶対に行く」
 断言する鼓太郎にケンタが呆れた。
 「おいおい、親御さんはどうするんだ?」と穏やかに諫める。
 だが、鼓太郎は引かなかった。
 彼は言った。
「おいらに親はいない。父ちゃんも母ちゃんも、じいちゃんもばあちゃんも、兄ちゃんや弟たちも、みんな三年前の流行病でぽっくり逝った。だからおいら、この土地にしがらみなんて全然ない。行きたいところがあったら、どこにだって行くさ」
「そうか……」
 ばつが悪そうに頭を掻いてケンタが言った。
「そりゃ、悪いこと聞いちゃったな……」
「終わっちまったことをくよくよ悔やんだって仕方がないだろ? それに、父ちゃんたちは死んじまったけどおいらはまだ生きてる。昨日のことより今日のこと。今日のことより明日のことさ」
 元気にそれだけ言い放つと、鼓太郎はふたたび一行の先陣を切って歩き出した。
 その言葉は、どこか自分自身に強がっているかのごとくケンタには聞こえた。
 それから、二刻(約四時間)ほど歩いた頃合いだろうか。
 もともとは田畑だったと思われる荒れた土地の真ん中に、見るからにくたびれた感のある一軒の古寺が姿を見せた。
 もはや手入れが行き届いているかどうかの話ではなく、その外見は廃墟にすら近い。
 だが、そこには人の住んでいる気配が確かにあった。
 おそらくは、かまどに火が入っているのだろう。
 建物の裏手から、うっすらと白い煙が立ち上っていた。
 そんな古寺を指差しながら、鼓太郎は告げた。
「あそこがおいらたちのねぐらだよ」
「おいら、()()?」
「そうさ」
 ケンタの放った疑問符を受けて彼は言った。
「おいら以外に、おいらの兄弟分たちもあそこで暮らしてるんだ。もともとあの寺にいた坊さんは流行病に肝を潰してどこかに夜逃げしちゃったから、いまじゃあおいらたちと変な旅の坊さんがひとり、あそこに居着いてる。見た目はあんなだけど中は広いし、ちゃんと雨風もしのげる。何だかんだ言って、住めば都って奴さ」
 荒れ地の中を流れる小川に沿って、一行は鼓太郎の指し示した古寺へと向かった。
 その古びて黒ずんだ建て屋は、周囲を木々に守られるように鎮座していた。
 思ったよりもしっかりとした造りだ。
 少し離れた場所にある打ち棄てられた百姓家が風雨にさらされ無惨な佇まいを見せているのとは、まったく対称的な様相だった。
 鼓太郎に付いて寺の境内へ足を踏み入れたケンタは、ふと奇妙なものの存在に目を留めた。
 それは、人の胴回りほどの太さを持つ銀杏の立木だった。
 その幹には、ささくれ立った荒縄が幾重にも渡って巻き付けられている。
 まるで公園の樹木に施す冬支度のようだ。
 しかし、縄が巻かれているのはその一本だけで、ほかの立木にはそのようなものは見られない。
 なんだろう? と気になってその立木へと歩み寄る。
 荒縄はかなり固く巻き付けられているようで、触ってみると若干の湿り気を帯びていた。
 とても虫除けの類などとは思えない。
 明らかな違和感がそれにはあった。
 だが、そんなケンタの詮索は不意に現れた第三者によって妨げられた。
 その者は、余りに唐突なタイミングでケンタの背後から誰何の声を発したのだった。
「どちらさまかな?」
 穏やかな口調でありながら、その呼びかけは思わずケンタを身震いさせた。
 言葉の発せられた距離が、余りに近くであったからだ。
 はっと振り向いた先にケンタが見たものは、背の高いひとりの僧侶だった。
 よく使い込まれた藍染めの法衣を、どちらかといえばだらしなくその身にまとっている。
 禅宗の修行僧である雲水の装いだ。
 だがその肉体が放つ雰囲気は、明らかに僧侶のまとうそれではなかった。
 肩幅や胸の厚みはともかく、上背だけならばケンタに比肩できる体格をこの者は有していたのである。
 法衣を身に付けていなければまず武人と見なされても仕方がない。
 そう思えてしまうほどに屈強な大男だった。
 しかしながら、その瞬間ケンタの目を強烈に引き付けたものは、彼の放つ雰囲気や屈強な体格そのものではなかった。
 初っ端にケンタの眼を捉えたもの。それは僧侶の備えた真っ白な頭髪だった。
 いやむしろ、その色彩は銀に近いとさえ言える。
 高齢であるから、というわけではなかった。
 僧侶の顔付きは、彼が少なくとも三十路の前半にある人物だということを如実に物語っていたからだ。
 にもかかわらず、短く刈りそろえたその髪も口の周りにやや乱雑に繁茂しているその髭も、みな一様に混じり気のない白色だった。
 断じて醜悪ではないにしろ、それはある意味で異形と評しても差し支えない容貌だった。
頭白(ずはく)さま! ただいま帰りました」
 僧侶の姿を視界に認めるや否や、鼓太郎は嬉々として口を開いた。
 その物言いからは、子供らしいある種の思いが見て取れる。
 道中ケンタや葵に向けられたものとは異なる、まっすぐな親愛の情だった。
「おお鼓太郎。いったいどうしたのだ、その顔は?」
 頭白と呼ばれた異形の僧侶は、彼のほうを見遣ると同時に驚きの声をひと言あげた。
 ひと目見て、あからさまな暴行の痕跡を残すその面容に気付いたのだろう。
 そそくさと歩み寄る仕草の節々に、隠しきれない慈愛の深さが滲み出ていた。
 鼓太郎に向け、心配そうに手を伸ばす頭白。
 鼓太郎は、そんな彼に向かってこれまでの経緯をかいつまんで説明した。
 それをまんじりともせず聞き終えた頭白は大きくひとたび頷くと、改めてケンタと葵の双方に向き直った。
 深く腰を曲げ、礼儀正しく謝意を示す。
「不逞の輩よりこの者の身をお守りいただいたこと、当人になりかわり心より感謝いたします」
 頭を垂れつつ頭白は言った。
「それがしの名は頭白。見てのとおり、旅の法師でござる。失礼ながら、そこもとらの名は?」
「俺は古橋ケンタ。で、こちらが──」
「秋山葵と申します」
「古橋殿に葵殿でござるか」
 頭白は、極自然に侍言葉を用いた。
「ごらんのとおりの貧乏寺ゆえさしたるお構いもできませぬが、差し支えなければゆるりと逗留くださいませ」
 そんな頭白の申し出を、ケンタと葵はありがたく受け入れることにした。
 もともと今宵の宿を求めてここまでやってきたのだ。
 あえてそれを断る理由などどこにもない。
 何よりも、そんな真似をすれば鼓太郎から差し出された健気な感謝が水の泡となってしまう。
 妙な遠慮をすることもなく、ふたりは勧められるがままに草鞋を脱いだ。
 この名もない古寺には、頭白以外にも齢十の鼓太郎を頭に四人の子供たちが暮らしていた。
 男の子と女の子が二名ずつ。
 最年少は今年六つになったばかりの男の子で、女の子はともにそれよりふたつ上の八才だった。
 どの子も遊びたい盛り、はしゃぎたい盛りの年頃だ。
 寺の中は、駆け回る子供たちの歓声で騒々しさの限りを極めていた。
 幼い四人はみな、近隣に住む百姓の家に生まれた子供たちだった。
 産みの親はすべて異なる。
 だが、その家族が三年前にこの地を襲った流行病に倒れたことは共通していた。
 だから、折良くこの寺に頭白が居着くことなければ、子供たちが今日という日を迎えられたかどうかはわからない。
 いや、まず間違いなく野垂れ死んでいたことだろう。
 少なくとも鼓太郎はそのように信じていた。
 そしてそれは、ほかの子供たちも同様だったのだろう。
 例え言葉にすることはなくても、彼らがこの異形の僧侶を恩人として認めているのは明白だった。
 彼を見る八つの眼差しが、何よりもはっきりとその事実を物語っていた。

 ◆◆◆

 その日の宵五ツ刻(午後九時頃)付近であろうか。
 書院で床に就いていたケンタは、不意に吹き込んできた涼風に顔を撫でられ目を覚ました。
 立て付けの悪い障子戸が肌寒い夜風の侵入を阻めなかったのだろう。
 特段気にするようなことでもなかったが、ひとたび覚醒した意識はふたたび彼を眠りの園へと連れ帰るのを頑なに拒んでみせる。
 仕方がない、とばかりに黙って天井を眺めるケンタ。
 その耳には、いささか風変わりな音色が伝わってきていた。
 隣接した広間で眠る四人の子供たちと葵とが放つ、安らかな吐息の斉唱だ。
 ふとそちらの方向に顔を向け、ケンタは思わず相好を崩した。
 つい先ほどまで展開されていた葵の奮闘を、何気なく思い出したからだった。

 ◆◆◆

 どうにもこうにも手際の悪い頭白と子供たちを手伝い──いやむしろ指揮しながら、葵は要領よく夕餉の準備を整えた。
 それだけではない。
 彼らの着ていた着物の綻びをてきぱきと繕い、それなりに広い寺の掃除や片づけまでをも済ました上で、なお余った時間を子供たちの遊び相手として使ってさえみせた。
 女性が何よりも良妻賢母であることを求められ教育される時代とはいえ、それは余りにもできすぎた印象をケンタに与えるものだった。
 頭白も、そんな彼女を率直な言葉で賞賛した。
 「なんとできた女子(おなご)でござろうか」と。
 それは、もはや感嘆にすら近い表現だった。
 だが頭白のほうも、一方的に他者を査定するだけの立場にはいられなかった。
 彼から高い評価を受けた葵もまた、自分以外を値踏みすることに対しやぶさかではなかったからだ。
 夕餉を終えてしばらくしたのちに葵と交わした語らいが、唐突にケンタの脳裏に蘇った。
「思いもかけぬ御仁でありました」
 彼女の第一声は、頭白に対する明らかな好感を内に秘めていた。
 ケンタにとって、それは意外なほどの豹変だった。
 当初の葵は、頭白という僧侶に対する腹立たしさをケンタの前ではっきり表明していたからだ。
 その原因となったのは、夕餉に供された献立の内容だった。
 今宵の食卓におかずとして用意された品は、「鮒味噌(ふなみそ)」と呼ばれる郷土料理だった。
 それは、はらわたを抜き白焼きとしたフナの身に味噌と酒とを加え、大豆が敷き詰められた鍋の中でたっぷりと時間をかけて煮込んで作る。
 そうやって煮上がったフナは骨まで柔らかくなっており、栄養豊富なだけでなく日保ちにも優れていた。
 副食として作り置きしておくには、まず最適な一品だと言えた。
 頭白はケンタたちと子供たち双方にこの料理を振る舞うだけに留まらず、おのれの食膳にもまた同様にそれを載せた。
 それが葵の不興を買った。
 頭白は僧侶だ。
 言うまでもなく、仏に仕える者は戒律により生臭物を口にすることが許されていない。
 にもかかわらず、頭白は(うお)という食材に迷うことなく箸を付けた。
 それは、いわゆる禁忌を破る行いにほかならないのではあるまいか?
 折を見てそうケンタに持論を説いた葵は、その後、わざわざ子供たちに聞かれない場所を選んで頭白に対してもいささかの苦言を呈したのだという。
 ところが、頭白はそんな非礼とさえ取れる発言に気を悪くするでもなく、むしろ優しく教え諭すよう言葉を返して来たのだと彼女は語った。
 それは、およそ禅問答に近いやり取りだった。
「そこもとの申されること、至極もっともだとそれがしも思いまする。されど葵殿。『戒律』とは、果たしていかなる代物なのでございましょうや?」
 口火を切った頭白の問いに、まず葵は「お坊さまが御仏の教えを守るため必要とされる禁忌のことだと考えますが」と答え、それを受けた頭白がさらに言葉を紡ぎ出した。
「では、『御仏の教え』とはいったいいかなるものなのか。葵殿は、その本質を考えたことはおありか? 御仏の教えとは、言わば人が正しく生きる道を闇夜に示す光のようなもの。あるいは、荒れ地にて人を導く道標と申してもよろしいか。それは、断じて人の心そのものに優越する存在ではないのでござる。
 人が導きに応じるか否かを決めるものは、あくまでも『人の心』であり申す。それを忘れてはなりませぬ。
 葵殿。この鮒味噌に用いたフナは、鼓太郎がそれがしや仲間たちを思うて獲ってきた心のこもった(うお)でござる。そして、ともに煮込んだ味噌や酒、豆などもそれがしの托鉢にお応えくださった人々の心がこもった有り難き品々でござる。それがしにとって、そのどちらもが等しく尊きもの。いわば、人の心そのものであり申す。どうしてそれらを分けて食することなどできましょうや。
 戒律を破ることは御仏の教えに反すること。葵殿の申されたその言葉に、それがしも異論はござらぬ。されど、この世でもっとも大切なこととは『誰かを思う人の心をないがしろにせぬこと』と、それがしは思うております。人心なくしてなんの仏法。仏法なくしてなんの戒律でござりましょうや」
 もはや敬意ともとれる光を瞳の中に湛えながら、彼女はその経緯(いきさつ)をケンタに話した。
「まるで、昔語りに現れる旅の上人のような御方でございました。私、あのようなお坊さまがこのような場所に隠れ住んでおられるとは思うてもおりませんでした」
 そんな結びを聞かされたケンタは、「葵がそれほどまでに言うのだから」という軽薄極まりない根拠をもとに、頭白という僧侶の人柄を信じることにした。
 はなはだ不安定な拠り所であると自分でも思う。
 しかし同時に、誰を彼をもまず疑ってかかる姿勢よりは数百倍ましなのではないかとも、ケンタは思っていた。
 それが「古橋ケンタ」という人間の本質なのだと自認すらしていた。

 ◆◆◆

 そんな思考を巡らせているうちに、急な尿意がケンタを襲った。
 どうにも我慢ができなくなり、いそいそと寝床を抜け出して厠へと向かう。
 この寺の厠は境内の外れにあって、そこを流れる小川を跨ぐようにして設けられていた。
 見てくれは、いまにも倒れそうな小さなあばら屋みたいなものだ。
 いささか面倒なことに、本堂からそこまでは若干の距離がある。
 手っ取り早く近間で済ませてしまう手も考えなくはなかったが、やはりそこは神聖なる寺の敷地。
 とんと宗教には無頓着なケンタであっても、さすがに抵抗を覚えずにはいられなかった。
 厠で自己を解放し、ひと息吐きながら外に出る。
 月と星の光が冷たく大地を照らし出し、眼に映る世界は意外なほどに明るかった。
 幻想的ですらある。
 つい足を止めて、そんな世界に浸りきってしまうほどだ。
 二十一世紀に生きる日本人でこの美しさを見知る者は、果たしてどれぐらいの割合で存在するのだろうか。
 おそらく絶対的な少数派にちがいない、とケンタは思った。
 彼の耳がかすかな異音を捉えたのは、ちょうどそんな時分の出来事だった。
 ざく、ざく、と何かで土塊を掘っているように聞こえる音。
 さほど遠くからのものではない。
 不意に好奇心を揺り動かされ、ケンタは周囲を見渡した。
 その目が厠から半町(約百メートル)ほど離れた荒れ地の直中に人の背をひとつ見出す。
 夜の帳越しにその容貌を伺うことはできなかった。
 しかし月光にきらきらと映えるその白髪は、人影が紛れもなく頭白その人のものであることをケンタにはっきりと知らしめた。
 小走りでそれとの距離を詰めながら、彼は大声で呼びかける。
「頭白さん、こんな時間に野良仕事ですか?」
「古橋殿か?」
 唐突な呼号を背中に受けた頭白が、はたと手を止めケンタのほうを顧みた。
 まるで苦笑いでも浮かべているような語り口で、これに応じる。
「これは、まことにお恥ずかしいところをお目にかけた。赤面の極みでござる」
 この時、彼は一本の唐鍬(とうぐわ)を手にしていた。
 主に開墾や根切りなどに使用される代表的な農具のひとつだ。
 先ほど聞こえてきた音は、その先端が固い地面を穿つおりに生じたものだったのだろう。
 やはり、畑でも起こしていたのだろうか。
 何もわざわざこんな時間を選ばなくても──と、ケンタは思った。
 だが、時を経ずして彼は気付いた。畑仕事にしては様子がおかしい。
 地面を耕し畝を作ろうとした形跡が、彼の周囲にはいっさい見られないのだ。
 まるで、ただ同じ箇所めがけて何度も何度も唐鍬を打ち込んでいたかのような、そんな風にさえ見受けられる。
 いったい何がしたくてこんな真似を? ケンタの脳裏に疑念が生じた。
「何、単なる稽古事でござるよ。背なの力を鍛えるには、薪割りと鍬打ちが最適でござるからな」
 ケンタが湧き上がった疑問符を言葉にするよりも一手早く、単刀直入に頭白は答えた。
 帯に挟んでいた手ぬぐいを取り上げ、額の汗を数回拭う。
「それがし、これでも武門の出でござってな。生まれつきのこの風貌ゆえ、()()()()よ、()()()()よ、と蔑まれながらも、武の技だけは幼き頃より仕込まれてまいりました。そのためでござろうか。名を捨て、家を捨て、仏の道に踏み込んではみたものの、こうして汗をかかないことにはよく眠りに就くことも叶わぬのです」
 彼は言った。
「皮肉なものですな。頭ではとうに俗世の(わざ)など捨てたつもりとなっておるのに、身体のほうは一向におぼえた業を忘れようとしてくれませぬ」
「それ、俺にもわかる気がします」
 目の前で自嘲的な言葉を発する頭白に向けて、ケンタは空気も読まずに賛同の意を表した。
「俺もここ数日まともに身体動かしてないから、どうにもこうにも筋肉がなまっちゃってるみたいです。習慣って奴は、なかなか消えてくれないんですよね」
 右肩をくるくると回しつつケンタは告げた。
 それは、いかにも見当違いな応答だった。
「ほんに風変わりな方でござるな、古橋殿は。まさしく、葵殿の申されたとおりだ」
 だが、そのようなことは意にも介さず、頭白は口元を綻ばせてそれに応じた。
「そこもとは穂高山の大天狗により幾百年先の世から連れて来られた仁と伺っておりましたが、なるほどその時代では、いまのごとき受け答えこそがむしろありふれたものなのでありましょうな」
 その発言を耳にしたケンタは、「なぜ知っている?」とばかりに驚きの声を上げてしまった。
 ほとんど脊髄反射のように、「葵さんから聞いたんですか?」と確認の言葉を口にする。
 頭白はゆっくり頷くことでそれに応え、そして告げた。
「ご安心召されよ。葵殿には、『左様なことは軽々しく口の端にのぼらせるべきではござらぬ』と釘を刺しておきましたゆえ」
「いや、それもそうなんですが──」
 落ち着き払った頭白の態度とは対称的に、焦って身を乗り出すような姿勢を取りつつケンタは尋ねた。
「こんな奇天烈な話、本気で信じてもらえたんですか?」
「いかにも」
 それがさもあたりまえのことであるかのように、平然として頭白は答えた。
「疑うべき理由がどこにもござらぬ」
「でも」
「古橋殿。上を見られい」
 なおも合点が行ってないケンタを制し、頭白は誘うように夜空を見上げた。
 それに釣られたケンタもまた、一緒になって満天の星空を仰ぎ見る。
 吸い込まれるほどに美しい極上のパノラマ。
 それを両手で指し示し、朗々と頭白は語った。
「この広大な天と比べれば、人というものは余りにちっぽけな存在でござる。そんなちっぽけな存在が偉大な天の成したる事柄を『信じられぬ』『あり得ぬ』などと大上段から論じようとは、まことにおこがましい話だとは思われませぬか?」
「天……ですか」
「左様。天でござる」
 頭白はそこでいったん言葉を切ると、腰に下げた水筒に手を伸ばした。
 ヒョウタンの実を加工したものだ。
 彼はおもむろにその栓を抜き、ケンタに向かってついと差し出す。
 飲んでみよ、とその目が優しく促していた。
 無言でそれを受け取ったケンタは、勧められるがままその水筒に口を付けた。
 中に入っていた液体は水ではなく酒の類だった。
 強い含み香が鼻に抜ける。
 まるで不意打ちを受けたかのように、ケンタはその目を丸くした。
 まさか酒が入っていようとは思ってもみなかったのだ。
「子供たちの手前、堂々と酒を嗜むわけにはまいりませぬからな」
 そんなケンタの様子を目の当たりにして、頭白はいたずら坊主もかくやと思われる表情を浮かべてみせた。
 まるで級友にでも語りかけるような口振りで彼は言った。
「古橋殿。何百年も後の世を語れる御仁と酒を楽しむなど、生涯何度も機会のあるものではござらぬ。よろしければ、そこもとの時間をいくらかそれがしのため割いてはいただけますまいか?」
 ケンタにとっても否はなかった。
 その後、ふたりはどちらともなく草地の中に腰を下ろし、深夜に至るまで延々と言葉を交わし合った。
 頭白は自らが捨てたはずの「武」について持論を語り、ケンタもまたそれに応じておのれの信じる「プロレス道」について熱弁を振るった。
 その時間は、後々まで決して忘れることのできぬ濃厚な記憶として、ケンタの胸中にくっきりと刻み込まれた。
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