第四十五話:ぷろれすりんぐ心得の条

文字数 6,731文字

 ぷろれすりんぐ心得の条。
 ぷろれすりんぐとはこれすなわち、場に立ち合いし者同士が互いのすべてを切磋琢磨し、その心技体を全力でもって競い比べ合うものにほかならぬことにて候。
 一、勝敗は、次の行いにて決着のことと致して候。
 一、行司が三つ数えし間、相手の両肩を認められし場の表に押し付けること叶えば、これすなわち、押し付けた者の勝利となりしことにて候。
 一、行司が(とお)数えし間、相手の技にて打ち倒された者がふたたび立ち上がること叶わざれば、これすなわち、打ち倒した者の勝利となりしことにて候。
 一、行司が十数えし間、認められし場の外に身を置いたまま戻ること(あた)わざれば、これすなわち、その者の敗北と定めることに致して候。
 一、技をかけられし者が、おのが口頭ないしその態度にて敗北意志の提示を成せば、これすなわち、技をかけし者の勝利となりしことにて候。
 一、目突き、喉締め、釣り鐘打ち(金的)、並びに噛み付き、指一本を掴みし行いは、そのことごとくをこれ禁じ手と定めることに致して候。
 一、おのが意をもって自ら禁じ手を行いし者は、これすなわち、その者の敗北と定めることに致して候。
 一、いずれかの者の身体(しんたい)が認められし場を囲む縄に触れ得たなら、双方とも互いにかけし技を解き、仕切り直しをするものと定めることに致して候。
 一、行司が示しし裁きに反しこの仕切り直しに応じざる者は、これすなわち、その者の敗北と定めることに致して候。
 なお、ぷろれすりんぐとは、断じてただ相手を倒すためだけの技にあらず。
 断じて勝利の栄誉を求めるためだけの技にあらず。
 ぷろれすりんぐとはこれすなわち、おのが五体のみを駆使し、眼前に立ちはだかる険しき(いただき)を越えんとする行いに等しきことと知るべし。
 おのが魂の求めるがまま、果てなく続く(みち)なき(みち)を征く行いに等しきことと知るべし。
 以上。
 ゆめゆめ忘れることなかれ。

 ◆◆◆

 徳川幕府の重鎮たる水戸藩主・徳川(とくがわ)三位中将(さんいちゅうじょう)光圀(みつくに)が供の者二名を引き連れて飛騨金森家の居城・高山を訪れてより、ちょうど十日目にあたるこの日。
 数百年の未来よりこの時代へとやって来た二十一世紀のプロレスラー・古橋ケンタと白髪の僧侶・頭白こと柳生蝶之進との立ち合いの刻は、早翌々日に迫っていた。
 光圀の希望をまんま受け入れたことで正しく仕合の場を提供することとなった高山藩においては、本日も早朝より藩をあげての舞台の準備に余念がない状況となっている。
 それはまさに、急の大名行列を迎える宿場町のごとき有様だった。
 戦の準備にすら近いと言い換えることすらできるだろう。
「プロレスです! この俺が命を賭けて戦う場は、プロレスのリング以外にはありません! 俺はひとりのプロレスラーとして、俺の愛するプロレスを使って頭白さんと勝負したいと思ってます!」
 立ち合いに用いる手段を問われたおり、左様はっきりと答えた巨漢の武芸者に報いるべく、光圀はおのが意をもってさまざまな方面にその影響力を行使した。
 此度の仕合を公の立場で行われる正当なそれとするべく彼が江戸の幕府に訴えを起こしたのは、そのことを象徴する何よりもわかりやすい一事であった。
 ()の日より数えて十日という時が経過しているのは、ひとえにそのことが原因だとも言える。
 具体的なすべての準備がことごとく公儀からの回答を待ってから実施されていることを考えれば、それだけの日数がただ漫然と消費されていくのも、これはある意味やむを得ない現実だと言えた。
 もちろん、こうした光圀のわがままを「権力を笠に着た横暴」と捉え、あからさまな不快感を示す者たちも藩内に少なくはなかったが、それとは逆にこれを「将軍家血筋の者より直々に賜った栄誉」と認識した人間は彼らの数をはるかに上回っていた。
 ことに藩主たる金森頼時とその弟である重詰がそのような姿勢を明確にしているとあっては、藩全体の論が一方に偏って定まるのも至極当然の成り行きだった。
 そして、それがために、この降って湧いたような光圀の意向に納得できない金森家の家臣たちは、おのが心中に暗い炎を宿しつつ鬱積した日々を送らざるを得ない有様へと陥っていたのだった。
 その筆頭たる人物が、飛騨高山藩城代家老・姉倉玄蕃そのひとだった。
 およそ自力では解決できない不満を抱え、この鷲鼻の家老は今宵もまた、押さえきれない憤懣をあたり構わず炸裂させる。
「ええい、忌々しい!」
 それは高山城下にある姉倉屋敷、その一角に設けられた離れで起きた出来事だった。
 立ち上がりざま両手に持った一枚の紙を渾身の力で左右に引き裂き、玄蕃はあたかも子供のようにわめき叫んだ。
 およそ感情のおもむくまま汚い言葉を吐き出し続けるその姿は、とても城代家老という要職にある武士のそれとは思えなかった。
 まことに醜く、見苦しく、まさに浅ましきことこのうえない容態であると、素人目にも断言できた。
 たとえ何があろうとも余人の目に晒すことはできない。
 由緒ある姉倉家の名誉のために、それだけはなんとしても避けねばならぬと感じさせる、文字どおりの悪態であった。
 彼の手によってふたつに裂かれたその紙に記されていたものは、「ぷろれすりんぐ」なる怪しげな武芸、それにおける諸般の決まりごとについてであった。
 古橋ケンタと名乗る巨漢の武芸者が口述した内容を他の者が聞き取り、これをわかりやすい言葉に直して筆書したためたものがそれである。
 だがこの時、そこに書かれてある事柄を玄蕃はいっさい認識できていなかった。
 仮に頭蓋の内部に直接その文面を注ぎ込んだとしても、彼の脳はそれがいったいいかなる事象を示したものか、まったく理解し得なかったに違いない。
 それは、露骨なまでに色めきだった玄蕃の思考そのものが、彼の心身に理性的な反応を微塵も許さなかったからにほかならなかった。
「よりによって水戸光圀だと!」
 上座を離れ、ろうそくの明かりが灯る十二畳ほどの座敷の中をうろうろと徘徊しつつ、この鷲鼻の家老は我を失い、そう腹立たしげに吐き捨てた。
「何故じゃ。何故、このような大事なおりになって、あのような者が予期せず我がもとに訪れることとなるのじゃ。なんという不運。なんという不遇。なんという厄難! 天は、このわしに恨みでもあるというのか!」
「落ち着きなさいませ、御家老」
 そんな脈動する休火山のごとき玄蕃に向かって、そのすぐ側から努めて冷静な諫言を送った者がいた。
 言わずもがな、姉倉家用人・生島数馬そのひとである。
 若くして知謀の士を自認するこの男は主のいらだちをまるで他人事のように受け流すと、眉ひとつ動かすことなく「これは、まさしく天の配剤にござる」とまで言ってのけた。
「これが天の配剤と申すか!」
 怒気のこもった叱責が、玄蕃の口からほとばしり出た。
「わしが身に降り注いでおるこの窮状を、そなたは天の配剤と申すのか?」
「御家老。この世で起こる出来事のすべては、いわば『塞翁が馬』にてございます」
 それに怯むことなく、淡々と数馬は続けた。
「賽の目が吉と出ているか凶と出ているかは、所詮、物事のことごとくが終わってみなければ皆目わからぬものにございます。仮にいま御家老が類い希な厄災に出会うておるといたしましても、それを転じて福と成すことが叶えば、一時の危難は続く安泰の呼び水であったと評することもまたできるようになりましょう」
 そんな沈着極まる彼のひと言ひと言が、茶釜で煮立った湯のごとき城代家老の心中に、注ぎ足される冷や水にも似た劇的な効果をもたらしていく。
 もはや爆発寸前だった玄蕃の内部の興奮がたちまちのうちに萎えしぼみ、それにともなって、この男に本来備わっていたはずの冷静さが足音高く蘇ってきた。
 表情を緩め、彼は尋ねた。
「数馬。おぬし、何か良き知恵を持っておるのか?」
「無論にございます」
 両目に自信を漲らせ、にやりと笑って数馬は答えた。
 この離れ座敷の中には、いま屋敷の主たる玄蕃本人とその用人である数馬のふたりだけしかいなかった。
 いや、いまだけ、というわけではない。
 もとよりこの座敷は、玄蕃と数馬とが他の家臣に聞かせたくない、関わらせたくない密談を行うために用いられているのがもっぱらであったから、むしろ彼ら以外の者がここに足を踏み込むこと自体が極めてまれなことだった。
 そのせいであろうか。
 姉倉玄蕃は、この座敷内においてなら、おのが素の感情をあらわにすることがままあった。
 普段は強気一辺倒のこの男が、ときにはその魁偉な見てくれからは想像もできない弱音を吐くことすら少なくはなかった。
 数馬は、そんな主の裏の素顔をこれまで幾度となく目にしてきた。
 しかし、それをもってこの人物がなんとも女々しい男だなどとは、寸分たりとも思わなかった。
 むしろ、ことさらありがたいことだとさえ思っていた。
 なぜならば、おのれの仕える対象が自分の前でだけ泣き言をほざくということは、それすなわち直接的な信頼の証であるだけでなく、その人物の本質を知るために必要な得がたい機会であると考えられていたからだった。
 毎度のことながら、数馬はこんな主の醜態を目の当たりにするたび、内心でほくそ笑む自分自身を感じていた。
 喜びを噛み締めていたと言い換えても構うまい。
 彼は確信していたのだ。
 この男(姉倉玄蕃)は、その息の根が絶えるまで我が掌の上から逃れることなどできまいと。
 我に対する依存の情を、根本から捨て去ることなどできまいと。
 だからこそ、数馬はこれまでなんの遠慮もすることなく、おのが智粋を玄蕃のために提供してきたのだ。
 決して裏切ることのない、権力を持った操り人形。
 自らがその能力を捧げるに、これほど相応しい主人などそうそうおるまい。
 左様思っていたがゆえに、左様認めていたがゆえに、彼の立ち位置は今回においても小揺るぎすらせず不動であった。
「御家老」
 座したまま、ずいと身を乗り出しつつ彼は言った。
「此度の件に関しましては、水戸殿の御威光をそのまま我が方へと流用するのが上策にございます」
「我が方へ流用、とな」
「左様にございます」
 玄蕃からの確認を受け、数馬は自論を展開した。
「明後日に行われます公の立ち合いにおきまして、彼の古橋ケンタなる者が柳生蝶之進に勝利する事態となりますれば、ただいまの御家老の立場では到底水戸殿の御意向に逆らうことなど叶わぬ夢でありましょう。水戸殿の庇護のもと、葵姫は御家老の手の内を離れ、これまで積み重ねてきた我らが企ても水泡に帰すること確実にございます」
「そのようなことは、改めて言われなくとも重々承知しておる。ゆえに知恵を出せと申しておるのではないか」
「はっ、失礼いたしました。しかしながら──」
「しかしながら?」
「しかしながらにございます。
 それら我らにとって最悪の事態は、あくまでも明後日に行われる仕合の様相がこちらの都合悪く定まった場合に限られてのこと。すなわち、柳生蝶之進が此度の立ち合いにて後れを取ることさえなければ、水戸殿の御意向はむしろ我らの側に都合よく働くものと考えられます。思い出してくだされ。御家老のお記憶が間違ってさえおらねば、あの御方はこの賭け事の前提として、飛騨金森家がいまの時局をお認めになっておられるのですぞ。
 ゆえに、ひとたび仕合の勝ちが柳生蝶之進のものとなれば、彼の御仁は自ら口になされた御言葉を翻すこともできず、いわば我らが作りあげた現状を追認されたに等しき立場と相成りましょう。それはまさしく天下の副将軍、栄えある水戸徳川家の御墨付きが得られるようなものではございませぬか。そうなれば、我らは改めてその御威光を盾に、これまでの目論見をなお一層強く推し進めて行けばよいのでございます」
「なるほどのう」
 満足げな笑みが玄蕃の顔に浮かび上がった。
「光圀公の横槍を、その言質として用いようということか」
「いかにも、そのとおりにございます」
「面白い」
 大きく頷き玄蕃は言った。
「なれば、早速その手筈のほうを整えるがいい」
「承ってござる」
 我が意を得たりとでも言いたげな表情を見せ、数馬が応えた。
「さすればそれがし、これより大村寿仙めに命じて密かに痺れ薬の類いを調合させ、仕合当日、彼の者の朝餉へと一服盛りたき次第に存じまする」
「仕合当日だと」
 それを聞かされた玄蕃が、不満げに顔をしかめた。
「何を悠長な。もっと早う手を打つわけにはいかぬのか? あるいは、そもそも痺れ薬などではなく命に関わる毒を盛り、あの古橋ケンタなる者を早々に亡き者とするわけにはいかぬのか?」
「毒をもって彼の者を害してしまえば、話が大事となりすぎまする」
 その意見に対し数馬は反論した。
「また、早くしてあの者の体調を崩した場合、なんらかの異変を悟った水戸殿が立ち合いの日を繰り延ばすよう申し出なさるは明白にございます。また、時を経ることで調べが進み、薬を盛ったことが我らが殿や彼の御老公に知られることと相成っては、こちらにとってあまり面白味のあることではございません。痛くもない腹を探られるのは避けるべきかと考えまする」
 理に適った腹心の言説を耳にした玄蕃が、「ふっふっふ」と含み笑いをしてみせる。
「見事だ、数馬」
 彼は告げた。
「さすがはこのわしの知恵袋よ。誉めてつかわすぞ」
「ありがたき仕合わせ」
 そううやうやしく平伏する数馬に向かって玄蕃はゆるりと歩み寄り、腰を屈してその肩上に手を置いた。
 魁偉な容貌をことさらに弛緩させ、鷲鼻の家老はおのが最も信頼する家臣目がけてねぎらいの言葉を重々しく放つ。彼は言った。
「数馬。そちも(わる)よのう」
「お褒めにあずかり、光栄至極に存じます」
 そんなふたりの会話は、あたかも男色の道(衆道)に足を踏み込んだ者同士のそれをすら、ともすれば連想させ得るものだった。
 あるいは、物理的にはそうでなかったにしろ、精神的には本当にそれと近い関係が両者の間に存在していたのやもしれぬ。
 この時、不意に表へと現れ出た彼らの親密。
 それは、この離れ座敷という慣れ親しんだ閉所に対してふたりが抱く、いわば「ほかの誰にも見聞きされていない」という安堵の心を何よりも雄弁に物語っていた。
 左様な確信があったからこそ、玄蕃は、おのれの立場上、余人に晒すわけにはいかぬ不体裁を腹心の前で形にすることができ、数馬は、歯に衣着(きぬ)せぬ物言いを、なんの遠慮会釈もなく主目がけて吐き出すことを叶え得たのである。
 文字どおりの私的空間で交わされる、決して公にはできない諸々の応酬。
 だがそれは、端から見ればあまりにも無防備に過ぎるひと時だと言えた。
 場合によっては、まさしくおのが急所を敵前にさらけ出すようなひと時だとさえ言えた。
 そしてまったくもって不幸なことに、彼らはそれを為し得るための前提条件がとうのむかしに覆っていたという事実を、この時点では欠片も知り得る立場になかったのであった。

 ◆◆◆

 こいつぁまた、性悪狸と性悪狐の悪巧みみてえなやり取りだぜ。
 姉倉屋敷にある離れ座敷の床の下。
 月明かりすら微塵も届かぬ文字どおり漆黒の闇の中で、常陸国の盗賊・松之草村小八兵衛は、じっと息を殺してその鋭敏な耳をそばだて続けていた。
 高さにして二尺(約六十センチ)もない空間に這うような姿勢で身を潜め、彼は鮮明に彼の時の光景を思い出す。
 それは、突如として彼の目の前に現れたひとりの少年の姿であった。
 厳重だったはずの警備の網をおのれの知恵と機転のみを頼りにしてかいくぐり、小八兵衛が仕える高貴な老爺の御前にたったひとりでやってきた、勇気と行動力にわずかな不足も感じない、そんな年若い知己の姿であった。
 託された手紙を密かに手渡すというその目的を果たした瞬間、極度の緊張から解き放たれたせいかぼろぼろと多量の涙をこぼし始めた子供らしいその表情を脳裏に浮かべ、小八兵衛は声に出さずにひとりごちる。
 鼓太郎坊。
 おまえさんの言う「もうひとりの師匠」って奴は、なかなかどうして大した野郎だぜ。
 いい先生たちに囲まれて、おまえさんは本当に幸せもんだな。
 やがて彼は、なおも密談を続けている頭上のふたりをそのままにして、足音を忍ばせながらいそいそとその場から離れた。
 おのれが新たに行くべき先、おのれが新たに為すべきことがいまきっちりと定まったからだった。
 星が瞬く空の下、迅速に夜風を切って小八兵衛が向かったその目的地は、町外れに建っている武家のものとも町民のものとも思えぬ一軒の邸宅だった。
 所有者の名前は大村寿仙。
 飛騨高山藩主・金森頼時の身を診察する本道(内科)の藩医、そのひとりであった。
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