第七話:忍びの者、来襲

文字数 12,816文字

 夜九ツ刻。
 二十一世紀の世であるなら、まもなく日付が変わろうかという時間帯だった。
 普通の生活を営む者たちのほとんどは、すでに就寝していることだろう。
 数刻前まではまだ所々にうかがうことのできた町の灯りも、いまではとんと眼にすることが叶わなくなっていた。
 それは、人々にとって新しい一日を迎えるために必要な安息の時間にほかならなかった。
 何かと忙しく立ち回る近代以降の人間には理解しがたい思想なのかもしれないが、彼らにとってはゆったりとした休息もまた真剣になって取り組むべきかけがえのない人生の一部なのであった。
 秋山家においても同様だ。
 ひとり娘の葵はおろか、下男の茂助や下女のおみつですらとうの昔に布団の中で安らかな寝息を立てている。
 ただ今宵に限って言えば、同家の主である弥兵衛と客分であるケンタだけがその範疇に含まれていなかった。
 囲炉裏の中で赤く燃える薪の明かりが、膳を挟んで向かい合うふたりの姿をぼんやりと照らしていた。
「古橋殿は実にお強い」
 杯の中身をくいと飲み干し、感嘆の意とともに弥兵衛は言った。
「乾半三郎が相手では、いささか役不足でありましたな」
 社交辞令ではなさそうだった。
 だからというわけではなかったが、ケンタもまた隠し立てせずこれに応じた。
「いえ、あの人は本当に強かったですよ」
 それは、間違いなくケンタの本音だった。
「なんだかんだ言って、ボコボコにされたのは俺のほうですから」
 そう言いながらこめかみの生傷に指を這わす。
 半三郎の放った突きがわずかにえぐった箇所だった。
 血止めの貼り薬が少々痛々しく見える。
 無論、半三郎から加えられた打撃がケンタの肉体にもたらした外傷は、これだけでない。
 彼のまとう着物の下には、無数の醜い打撲痕が隠されていた。
 衝撃が皮を破り血を滲ませているものさえあった。
 純粋な打撲傷としては、かなり重篤なものだと言える。
 おそらくこれが常人なれば、まともに立ち上がれる状態ではなかっただろう。
 いまごろは、高熱を発し寝床で唸っていても不思議ではない。
 プロレスラーとして極限まで肉体を鍛えあげたケンタでなければ、そうなっているのが当然の結末であった。
 単に受けたダメージ量を比較するだけなら、自分のほうがはるかに多い。
 そんなケンタの言い分には、一定の「理」が存在していた。
 だが、弥兵衛はおのが意見を翻さなかった。
「あれは『強い』のではなく『巧い』のです」
 やや突き放すような口調で彼は言った。
「確かに、真っ当な剣術試合で半三郎に勝てる者は多くありますまい。打ち込みの速さ、足の運び、見切りの正しさ。どれをとっても藩内では屈指のものでありましょう。されど」
「されど?」
「あの者は、どうやっても立ち合いに勝つことで得る『何か』を優先してしまう。試合に負けることで失う『何か』とそれを、心の芯で天秤にかけてしまうのです」
 弥兵衛はそんな言葉で愛弟子を評した。
「言ってしまえば、勝負を見詰めることができないのですな。どこかで、手にする利を計りながら戦ってしまう。それで勝てるのは、相手もまた同じような心根を持つ者か、さもなくばかかっている利がさほどでない場合のみでしょう」
 弥兵衛が語る含蓄ある言葉を噛み締めるように聞きながら、なぜだかケンタは、あの立ち合いに続いた一連の出来事を漠然と思い出していた。

 ◆◆◆

「それまで」
 張りのある弥兵衛の声が仕合の終わりを告げた時、ケンタは足下に横たわる半三郎を仁王立ちするように見下ろしていた。
 死にかけた蛙のごとく仰向けに寝そべっている対戦相手に駄目を押すのは、至極簡単なことだと思われた。
 しかし、この時のケンタは、そんな必要性をまったく感じていなかった。
 情け、というわけではない。
 それが、プロレスとして美しくない行動に思われてならなかったからだ。
 無情な追撃をもってすでに決した勝敗をことさら強調してみせることに、いったいなんの意味があるのだろう──それは現実的な理に適うものではなく、どちらかといえば哲学、いや美学という表現にすら近いものであった。
 半三郎の身体がなんとか言葉を発せられるまでに回復したのは、相応の時間が経ってからのことだった。
 容赦なく床板に叩き付けたかのごとく映ったケンタのボディスラムであったが、実のところ、彼は致命的な角度を実に注意深く避けていた。
 やろうと思えばいくらでも頭や頸椎から落とせたものを、わざわざ大怪我をしにくい背中から投げ落としたのは、()()()()()()としての矜持がケンタになさせた決断だった。
 真剣勝負という面で捉えるなら、それは彼の持つ明らかな甘さであると断言していいだろう。
 ただし、だからと言ってその技が無力だったというわけではない。
 そのことは、技を受けた半三郎の様子が何よりも明白に物語っていた。
 致命的な箇所でなかったとはいえ、硬い板の上に勢い良く体幹部を激突させられたのだ。
 生半な威力で済もうはずなどない。
 しかも、なまじ被弾面積が大きかったがため、襲いかかった衝撃はまさに半三郎の全身をまんべんなく貫いていた。
 瞬時にして肺腑が押し潰され、内臓が体内で攪拌されたのだ。
 もはや痛いという感覚さえ、そこにはなかった。
 ゆえに、受け身の素人とも言える半三郎が比較的わずかな時を要しただけで身を動かせるようになったことは、むしろ賞賛すべきことのように思われた。
 少なくとも、ケンタはそのように思った。
 苦悶の表情を浮かべつつ身体を起こした半三郎に、それまで言葉を失っていた同門の剣士たちがわらわらと駆け寄ってきた。
 どの顔も心配の色を隠すことなく見せている。
 それは、彼らの抱く「乾半三郎」への信頼が並々ならぬものであることの明白な証左であった。
「先生!」
 剣士のひとりが口火を切った。
「我々は、乾殿の『負け』に納得がいきません」
 興奮気味に彼は言った。
 最後の投げが放たれるまで、乾殿はそこの御仁を一方的に打ち込んでおられました。
 これがれっきとした剣術試合であったなら、乾殿は両手で数えられぬほどの「勝ち」を得られているはずです。
 また、これがたとえ果たし合いであろうとも、得物が真剣でさえあったなら、いまこの場で倒れ臥しているのは乾殿の側ではなかったはずです。
 先生。
 我々は、我々は──…
 そんな訴えを耳にした弥兵衛は、冷徹とも聞こえる口振りで半三郎に尋ねた。
「おまえもそう思うか?」
 半三郎は、おのが意を頷くことで師に伝えた。
 それが本心であることは、その瞳の色からうかがい知ることができた。
 それを見た弥兵衛は、わずかに肩を落とし嘆息した。
 一度目をつぶり、ひと呼吸置いてふたたび彼に視線を向ける。
「ならば」
 低い声で弥兵衛は言った。
「なぜに、初めから真剣を用いなかったのだ?」
 敬愛する師の口からこぼれ出たその言葉に、門人たちは誰もが皆、驚いたような顔を見せた。
 当然だろう。
 半三郎がケンタに挑んだのはあくまでも力比べという意味での立ち合いであって、彼らの中の基準では命のやり取りをするほどのものだと認識されていなかったからだ。
 真剣を用いるとは、すなわち初めからその一線を踏み越えることを意味している。
 対戦相手の生命そのものを奪うこと、それすらも許容範囲とする立ち合いは、少年の頃より剣の道を志してきた彼らにとってすら、そうやすやすとなし得る決断でありなどしなかった。
 思わず絶句した弟子たちの姿をどこか醒めた目で眺めつつ、淡々と弥兵衛は告げた。
「真剣を用いての立ち合いならば相手に勝てる、そう思うたのなら、ためらうことなくそうすべきなのだ。にもかかわらず半三郎はおのが得物に木太刀を選んだ。それは、ほかならぬ半三郎の意志によるものであろう。古橋殿の意志が導いたものではない」
「しかし、先生。それでは……」
 門人のひとりが必死に何かを言おうとした。
 反論、いや口答えにすら近い言いようだった。
 だが、弥兵衛はそれを制した。
 およそ感情のこもらない目付きで、その門人を睨め付ける。
「それでは──なんだね?」
 彼は言った。
「本当の勝負事に、終わってから『こうしておけば良かった』は存在しない。ひとたび戦いの場に臨んだのなら、その場で成し得る全力をもってそれに当たらなくてはならないのだ。それが『剣術つかい』としての本質であり、すべてだと言っても構わない。そのことを理解していない者は、決して本気をもって当たる敵に勝ち続けることはできぬ。おまえたちもひとかどの剣客を目指すのであれば、そのことをおぼえておくがいい」

 ◆◆◆

 ゆるりと杯を傾けながら、ケンタはその時放たれた弥兵衛の言葉を幾度となく心の中で反芻していた。
 彼が口にした「剣術つかい」としての本質──全力をつくさない者は、全力をつくす者に勝ち続けることはできない──に率直な感銘を覚えたからだった。
 もっとも、ケンタと一緒にそれを聞いていたはずの門人たちのうち、彼と同様な思いを抱いた者は半数にも及ばなかったようだ。
 おそらく、彼らの目には自分たちの師匠が仲間を討った敵を庇ったように映ったのだろう。
 その眼には、あからさまな反感すら見て取ることができた。
 真に優れた師から与えられる指導とは、時としてそんな反応を呼び起こすものである。
 そのことを、プロレスラーとして厳しい新弟子時代を経験してきたケンタは実体験で知っていた。
 ウエイトトレーニングと同じだ。
 筋肉も人間も、痛みを感じるほどに傷付けられなくては大きな成長を遂げることができない。
 どちらもそれを繰り返し乗り越えることで、ひと回りもふた回りも太く強靱になるのだ。
 しかしながら、その事実を知る者は思いの外少ない。
 教えられるほうばかりでなく、教えるほうにおいてさえもなお、である。
 敗北や挫折を「悪」とする歪な思想が、どうしても人の心を左右してしまうからであった。
 人間を誉めて育てるという方法は普段の指導が厳しいからこそ成り立つのだ、とケンタはその本質を理解していた。
 あとになってから師弟の間で揉めごとにならなきゃいいけど、と無責任な立場でその後のことを心配しつつ、ケンタは目の前に座る秋山弥兵衛という人物に覚えた敬意をたっぷりと味わっていた。
 二十一世紀の日本ではとっくのむかしに絶滅していそうな「先生」だな、などと失礼を承知で評価してしまう。
 その「先生」が言葉を続けた。
「この世の中も泰平が長くなり、いわゆる『武』の心得を忘れた侍も多くなりました。嘆かわしいことですが、それもまた時代の趨勢なのでしょう。私のような古い考えの人間がいまの世を生きる者たちに淘汰されてしまうのも、そう先の話ではありますまい」
「そんな寂しいことを言わないでください」
 自虐的な弥兵衛の言葉を、ケンタは短く否定した。
「先生のような人間を心底『凄い』と感じる莫迦者が、少なくともここにひとりはいるんですから」
「ありがたいお言葉です」
 弥兵衛は思わず苦笑した。
 手に持った杯を膳の上に戻し、改めてケンタとまっすぐ目を合わせた。
「時に、古橋殿はどちらのお生まれかな?」
「京都、福知山ですが」
「丹波の国、朽木(くつき)伊予守(いよのかみ)殿の御領地ですな」
 懐かしそうに弥兵衛が言った。
「私も若き頃、西国を回っていたおりに幾度か足を踏み入れたことがござる。京の都が近いせいか、この高山と比べましても随分と華やかな城下町でありましたな。失礼ながら、国もとへ帰るおつもりは?」
 そんな弥兵衛の問いかけに、ケンタは複雑な表情を見せた。
 「……そうしたいのはやまやまですが」と、お茶を濁す答えを絞り出すことしかできなかった。
 原因不明の超自然現象によりまったく意図しないまま数百年の時を遡ってしまったケンタにとって、この時代の福知山とは自身が少年期を過ごした懐かしい故郷でありはしない。
 仮に同地を訪れたとしても、そこはおそらく、いや確実にこの高山と同様遠い異世界であることだろう。
 自分はこの世の住人ではないのだ。
 口にした酒のせいかそのことを改めて認識してしまったケンタは、ふっと予期せぬ疎外感に囚われた。
 ホームシックとはどこかが違う。
 無理矢理言葉に直すとすれば、自らの足下がおぼつかないことに対する不安感とでも言うべきか。
 胸の奥がもやもやしてたまらなかった。
 口からこぼれた回答がどこかあいまいな言葉となってしまうのも、やむを得ないことだった。
 そんな事情を知り得るはずもない弥兵衛であったが、そのどうにも表現のしがたい顔付きから、ケンタが何やら訳ありの身であることだけは判別できた。
 じっと彼の表情を見詰めながら、その人柄の本質さえも推し量ろうとする。
 いまどきの武芸者には珍しい人物だ。
 長年に渡る剣客稼業で培った弥兵衛の鑑定眼が、そんな風にケンタのことを評していた。
 この若者からは、およそ「野心」というものが感じられなかった。
 栄達とも名利ともまったくかけ離れた世界を生きてきたのではないかとさえ思えるほどだ。
 もちろん、その積み重ねてきた修行が並大抵のものでないことは明白だ。
 そうでなければ、あの乾半三郎を相手にあれだけの戦いを演じることなどできはすまい。
 だが、ケンタはそんな自分を誇る素振りを欠片も見せない。
 仮に、同年代の侍が彼と同量の修練を経てきたならば、その者は必ずや手にした力をどこかの誰かに見せつけようとするだろう。
 見るがいい。
 見るがいい。
 これこそが我の力ぞ。
 それは武を志した者が皆一度は通る道であり、同時に乗り越えなくては先に進めぬ険しい峠でもあった。
 一所懸命に十年やって、果たしてその行程半ばに至るかどうか。
 自力でその地を踏破すること叶わず道半ばにして引き返す者や、楽を求めるがあまりついにはおのれそのものを見失ってしまう者も数多い。
 ケンタのように、力を持ちながらなお自然体でいられる人間は、たとえそれが四十路の武芸者であってさえもさしたる数には及ばないのが現実だった。
 三十路を前にして、早くもその位置に辿り着いているのか、この若者は。
 いささかの感嘆とともに弥兵衛は思った。
 これまで歩んできたその足跡を、一度じっくり訊いてみたい。
 野心以外のいったい何が、そなたの足を進ませてきたのか。
 野心以外のいったい何が、そなたの背を押し続けてきたのか。
 太平の世に甘んじた若い侍たちのほとんどからは、およそ同種の匂いは漂ってこない。
 彼らの行動原理となるものは、現世利益の追求──すなわち野心そのものだ。
 一見ひたむきなほど剣の道に打ち込むのも、ひとえに剣術の腕前が良家へ奉公する際の足掛かりとなるからにほかならなかった。
 無論、それもまた時流に沿ったまっとうな考えであると弥兵衛も内心でわかってはいた。
 わかってはいたが、それでもなお、彼はその種の生き方を好きになれなかった。そういった俗世にまみれた門人ではなく、愚直なほどまっしぐらにおのれを追い詰め、それによって心身を昇華させようとする求道者のごとき愛弟子が欲しいと切に願った。
 そんな飢えにも似た思いを抱いていた弥兵衛の前に現れたこの若者。
 勝利を得るため自らの肉体をためらいなく危険に晒すこの若者を、ぜひ手元に置いて鍛えてみたい。
 そう、弥兵衛は思った。
 古橋ケンタ。
 いかに愛娘の恩人であるとはいえ、しょせん彼は得体の知れない流れ者でしかない。
 胡散臭さで言えば、そこいらの無頼者をすら余裕で上回ることだろう。
 しかし今朝方の激しい立ち合いを眼にしたいまの弥兵衛は、深く大きい「武」の器をこの若者に見出すことができていた。
 この男に本気で「道」を学ばせたなら、いやはやどれほどの武芸者と成りおおせるものか。
 少なくとも我が身を安全地帯に置き無傷で勝ちを得ようとした乾半三郎などとは比べものにすらならぬだろう、とまで感じていた。
 私のもとで剣を学んでみませぬか?
 だが、ふと口を吐きそうになった発言を弥兵衛はその寸前で飲み込んだ。
 今宵そのような理由でこの若者と対座したわけでないことを、唐突に思い出したからだった。
「古橋殿」
 小さく咳払いしてから弥兵衛は言った。
「この弥兵衛、そこもとを見込んでお頼みしたきことがござる。引き受けてはいただけませぬか?」
「俺にできることであれば」
 ふたつ返事でケンタは答えた。
 それを見た弥兵衛がほんのわずかに相好を崩す。
「そこもとでなければできぬことでござる」
 単刀直入に弥兵衛は告げた。
「我が娘、葵の身を守ってやってはいただけぬか」
「葵さんを?」
 驚いたような声をケンタがあげる。
 弥兵衛は、これに大きくうなずくことで応えた。
「左様」
 神妙な面持ちで彼は言った。
「詳しいことは申せませぬが、あの娘はとある御仁に狙われております。昨日、娘をかどわかさんとした浪人どもも、その御仁の息がかかっていたことに相違ありませぬ。確固たる証拠こそありませぬが、それは紛うことなき真実にござる」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 いきなり大きくなった話の内容に追従できず、ケンタは両手を大きく広げてみせた。
「それは警察に──じゃなかった、御上には知らせてあるんですか? 俺みたいな馬の骨じゃなくって、本職の人とか先生のお弟子さんとか、もっと信頼できる適役の人がほかにおられるじゃあないですか」
「御上はおろか、(あるじ)持つ侍はいっさい信用できませぬ」
 ケンタの発言を根こそぎ否定するように、弥兵衛はきっぱりと言い切った。
「しょせん武士とはそういうものなのでござるよ、古橋殿。個々の人柄を信じることは叶っても、ひとたび(あるじ)筋から命じられれば、あれらはおのが意に反してもそれに従わなくてはならないのです」
「そりゃそうでしょうけど」
 なおもケンタは言葉を続けた。
「俺だって、昨日葵さんに拾ってもらった行き倒れみたいなもんですよ。もちろん先生がそんな俺を信頼してくれてるのはうれしいし、世話になってるお礼をしなきゃなとは思ってますが、それにしたって──」
 彼の唇がそこまで言葉を紡いだ瞬間だった。
 かすかに襖戸を叩く音が、弥兵衛の耳に届いた。
 それは、葵が眠っている部屋の方向から流れてきたものだった。
 わずかだが、人の動く気配も感じられる。
 曲者か!
 側に置いてあった脇差しを引っ掴むや否や、弥兵衛は跳ね上がるように立ちあがった。
 よく修行を積んだ武士らしく、無駄のない迅速な動きだった。
 意識より早く肉体のほうがその行動に反応したケンタもまた、それに従って腰を浮かせた。
 疾風のように走るふたつの影が、立て続けに襖戸を開けながら葵が眠っているはずの座敷へと至る。
 寝床はもぬけの空だった。
 縁側に面している障子戸が開けっ放しになっている。
 そこから見ることのできた庭先に、その者たちの姿はあった。
 数は四つ。
 全身を茶褐色の忍び装束で固めた男たちだった。
 はしこさを重んじる連中らしく、四人とも明らかに小柄な体格の持ち主だ。
 ケンタたち現代人の基準では小男と言える弥兵衛と並べてもなお、若干小さく映って見えた。
 しかし、その身体能力は相当に高いものだと想像できる。
 なぜなら、うちひとりの右肩には、後ろ手に縛られ猿ぐつわを噛まされた葵が軽々と担がれていたからだった。
 ケンタたちの姿を認めた葵が、声にならない声で助けを求める。
 恐怖におののいたその大きな瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれていた。
 必死になって身を捩り、両脚をばたつかせる。
「葵!」
「葵さん!」
 口々に叫んで、弥兵衛とケンタは庭先へと駆け下りた。
 その行く手を阻もうとふたりの曲者が立ちはだかった。
 素早く()()()を逆手に握り、中腰でケンタたちを牽制する。
 時間を稼ぎ、その隙に残ったふたりを逃がそうというのだ。
 もちろん、葵を担いだ曲者は逃走組に属していた。
「古橋殿」
 弥兵衛が言った。
「ここは私が引受申す。そこもとは葵を!」
「わかりました!」
 流れるような仕草で脇差しを抜き放ち、弥兵衛は曲者どもと対峙する。
 左右から一気に襲いかかる曲者ども。
 くないと脇差しとが激突し、鋭い金属音が月夜の庭に響き渡った。
 ケンタは、そんな弥兵衛を尻目に、塀を乗り越え先行する曲者どものあとを全速力で追いかけた。
 身体中を分厚い筋肉の鎧で固めたプロレスラーは、本来走ることを得意としない。
 そういった肉体の作り方など、端から考慮に入れていないからだった。
 こと持久走ともなれば、その傾向はより強く現れた。
 にもかかわらず、ケンタは曲者どもとの距離をぐんぐんと詰めていく。
 なんとしてでも葵を無事に取り返さねば、という使命感が、この時の彼に必要以上の力を発揮させていたことももちろんあった。
 しかしそれ以上に大きな要因となったのは、やはり曲者のひとりが肩上に死荷重を抱えていたことだろう。
 いかに修練を積んだ人間であろうとも、娘ひとり分の体重を運びながらでは発揮する速度に陰りが生じて当然であった。
 曲者どもは逃走を断念した。
 追ってくるケンタを引き連れたまま古びた神社の境内に駆け込んだ曲者どもは、その地を囲む森を抜け参道脇に飛び出した。
 その場で葵をどさりと降ろし、おのおの片手にくないを握る。
 背後からくる邪魔者をまず排除しようというのだ。
 鋭利な切っ先が月光を浴びて妖しく煌めく。
 その様子を目の当たりにしたケンタもまた、一瞬にして覚悟を決めた。
 昨日から今日にかけて二度も真剣な立ち合いを行った経験が、彼の性根をそれまで以上に据わらせていた。
 足を停め、曲者どもの挙動をうかがう。
 先に動いたのは曲者どものほうだった。
 ケンタが呼吸を整える隙もない。
 ふたりまとめて弾かれるように間合いを詰めてくる。
 その片割れの手から、不意にくないが放たれた。
 真一文字に虚空を切り裂いたそれは、ケンタの機先を制するように足下の地面へ突き刺さった。
 正面から来る敵に向かって応じようとしていたケンタの足が、これで怯んだ。
 反射的に視点が下がり、その目が曲者どもを見失う。
 彼らが狙っていたのは、その瞬間だった。
 くないを投げた曲者の背を踏み台にして、もうひとりが高々と跳躍する。
 目論見は明らかだった。
 地を行くひとりがケンタの足を取って組み倒すのに合わせ、おのれは上空からこれに襲いかかろうというのだ。
 およそこの世に存在する武術というものの大半は、立体的な異方向同時攻撃に対処する技術を持たない。
 多対一の状況を視野に入れた武術はもちろんあるが、それにしたところで水平面での対応に終始しているのが実状だった。
 だが、曲者どもは知らなかった。
 いま彼らと戦っている大男(プロレスラー)にとり、多対一の攻撃も上下を使った立体的な攻撃も、その主戦場(リング)においては極々あたりまえのものであったという厳然たる事実を、だ。
 ゆえに、予想どおりの反応を示したケンタを見た彼らは即刻勝利を確信した。
 地を行く曲者がケンタの腰にどすんと身体ごと組み付いた。
 右手をその膝裏に回し、手前に引き付けながら体重を浴びせる。
 見事なまでに実戦的な「タックル」だった。
 しかしその直後、彼は異変に気付いた。
 いま確実に足を取り、目方をかけて崩し倒そうとしている男の姿勢が、あろうことか微動だにしないのだ。
 まるで、地に深く根を張った大木を押しているような錯覚にすら襲われる。
 当然だった。
 古橋ケンタはただの大男ではない。
 その足腰を日々数千回、いや時には万を数える回数のスクワットで極限まで鍛えあげた「トップレスラー」のひとりなのだ。
 ふた回り以上も小柄な人間にとり、その身を揺るがそうという試みはもはや不可能事に近かった。
 たとえ実行者がどれほど高い技術を持とうとも、である。
 策敗れたことを瞬時に悟り、曲者の目が大きく見開かれた。
 それは、上からケンタに躍りかかろうとしているもうひとりの男もまた同様だった。
 おのれの視線がケンタのそれと真っ正面から対向しているのを知り、彼は動揺し、そして驚愕した。
 莫迦な。
 曲者は自問した。
 相棒がこやつを組み倒せなかったことはいい。
 そんなこともまれにはあるだろう。
 しかし、この連携で不意を打てなかったというのは一体全体どういうことだ? 
 あり得ぬ!
 上と下から同時に襲う我らの技を、こやつはどこかで見知っていたとでもいうのか?
 大男がぬっと右腕を掲げるのを、彼は眼下に直視した。
 そして次の瞬間、裂帛の気合とともに丸太のごときその腕がおのれめがけて振り下ろされるのも。
 轟、という風切り音を発し、手刀が曲者の鎖骨部分へと叩き込まれる。
 袈裟斬りチョップ。
 コーナーポストからダイビングする体重百キロ以上のレスラーさえ苦もなく撃墜するケンタのそれが、ほぼ無防備な人体を真っ向から直撃した。
 無事でいられるわけなどなかった。
 びきっという異音と衝撃とが曲者の全身を稲妻のように駆け抜けた。
 腕回り六十センチを誇るケンタの剛腕が、ただ一撃の下にその鎖骨を叩き折ったのだった。
 恐るべき膂力である。
 曲者は「ぎゃっ」と短く悲鳴を上げ、身体ごと後方へ弾き飛ばされた。
 受け身も取れずに背中から落下し、苦痛に身を捩りつつ地面の上をのたうち回る。
 何という剛力!
 敵わぬ。
 虫のように地面へはたき落とされた相棒の姿を見せつけられ、ケンタに組み付いたほうの曲者は、この場から退くことを決意した。
 それも体勢を立て直すための一時的撤退ではない。
 戦場からの全面的な退却を、だ。
 決断がなされたのち、曲者のとった行動は極めて迅速だった。
 素早くケンタから身を離した彼は、大きく飛びずさろうとして地面を蹴る。
 だが不幸なことに、精神がその肉体に命令する速度よりも、状況の変化する速度のほうが何倍も速かった。
 曲者は、目の前に立つ大男がそのごつい左手でおのれの腰ひもを鷲掴みしていることに気付いた。
 いつの間に、と驚愕してみせる余裕など彼にはなかった。
 この手を振り払わねば、逃げ出すことはおろか、こやつと距離を置くことも叶わぬではないか!
 そう判断した曲者は、くっと歯を食い縛りなお一層の力を我が身に込めた。
 全身の筋肉を動員し、もってケンタの手を引きはがそうと試みたのだ。
 しかし、それもたちまち無駄な努力と化した。
 彼が全力で腰を引くのよりも一手早く、分厚いケンタの胸板が覆い被さるようにその後頭部と背中とを下方へ押したのだった。
 いわゆる「がぶり」の体勢だ。
 太い両腕がそこから胴回りを抱え込み、ヘソのあたりでその両手ががっちりとクラッチされた。
 曲者の身体が勢い良く真上に引っこ抜かれたのは、次の刹那の出来事だった。
 突如として襲いかかるGが脳内の血液を後頭部へと圧迫した。
 眼に映る光景が凄まじい速度で下方に流れる。
 これまで経験したことのない振り子のような動きに、三半規管がまるで追従できなかった。
 一瞬にして意識が途切れ、彼はおのれの身に何が起きているのかをまったく判別できなかった。
 消失した思考が唐突に蘇ったのは、身体が振り子の頂点に達した時のことだ。
 その位置は、余裕で二メートルを超える高さにあった。
 なんて()()んだ。
 この時、ただそのひと言だけが曲者の脳裏に浮かんだ。
 次の瞬間、彼の肉体は、いま辿ってきたばかりの行程を引き返すように大地めがけて振り下ろされた。
 それも、持ち上げられた勢いに数倍する、とんでもない速度で、だ。
 投げ捨て式パワーボム。
 まるで滝つぼにでも吸い込まれるような吸引感とともに、曲者の意識はふたたび頭蓋の中から消失した。
 かろうじて受け身を取れたのは、おそらく厳しい修練の賜物なのであろう。
 身体がおぼえていたという奴だ。
 ただし、それもしょせんは「焼け石に水」だった。
 とてつもない衝撃が背中を襲い、曲者の身体は地面の上で大きく一度バウンドした。
 そのままうつぶせに倒れた彼は、ケンタの眼前で沈黙した。
 失神したのかダメージで動けなくなったのかは判別のし難いところであった。
 だが、ケンタはかけた技の一撃に絶対的な手応えを感じたものか、それ以上曲者どもに追い討ちをかけようとはしなかった。
 足下に刺さったくないを無造作に引き抜き、地面に転がる葵のもとへと駆け寄っていく。
「怪我はありませんか?」
 力強くその眼をのぞき込みながら、ケンタはくないを用いて葵を縛めから解きはなった。
 よほど恐ろしかったのだろう。
 彼女はしばし、いっさいの言葉を口にすることができなかった。
 自らの両肩に置かれたケンタの両手をそっと掴み、次いで全身を震わせながら滂沱の涙をあふれさせた。
「古橋さま!」
 ひと声叫んだ葵が、ケンタの胸に顔を埋める。
 子供のように泣きじゃくりながら、何度も何度も「怖かった、怖かった」を繰り返した。
 真剣勝負とは別の意味でいままで経験したことのない状況に直面し、ケンタはうろたえ顔中を真っ赤に火照らせた。
 口にすべき言葉を、身に付けた貧困なボキャブラリーの中から必死に選ぶ。
「もう大丈夫です!」
 結局口にできたのは、ごくありきたりな台詞だけだった。
「葵さんは俺が守りますから。安心してください!」
 ケンタは、そう高らかに宣言した。
 もちろん当の本人にそういった自覚のあろうはずもなかったが、言葉どおりに受け取れば、それは随分重たい発言だと言えた。
 特に世間ずれしていない初心(うぶ)な少女にとってはなおさらである。
 それを耳にしたとたん、涙でぐずぐずになっていた葵の表情にぱあっと明るい光が差した。
 まるで白馬の王子を見詰める王女のような表情だった。
 そのまっすぐな眼差しがケンタの胸襟を見事なまでに貫通した。
 応じて視線を合わせる度胸などどこにもなく、彼は咄嗟に天を仰いだ。
 とりあえず、そうすることしかできなかった。
 いま自らが打ち倒したばかりの曲者たちへ視線を移す。
 唐突におのれを襲った動揺を鎮めるべく、むりやり意識をそちらに向けた。
 奴らには、いったいどんな理由で葵を誘拐しようとしたものか聞き出さねばならない。
 まずは身柄を確保して、必要とあればこの時代の警察組織に突き出してやろう。
 だが、驚くべきことに曲者ふたりの姿は、もうそこにはなかった。
 ケンタが目を離したわずかな隙を利用して、うまうまと逃げ出すことに成功したのだ。
 ケンタは我が目を疑った。
 そんな莫迦な。
 あれだけのダメージを受けた身体で、まだ立ちあがれる余力を残していたってのか?
 だとしたら、それは並大抵の鍛え方じゃない。
 どちらも二十一世紀じゃあ子供にだって劣りそうな体格だったのに、一体全体なんて耐久力の持ち主なんだ!
「なんなんだ、奴らは」
 あの曲者どもが単なる小悪党ごときでないことを悟り、ケンタはぽつりと呟いた。
 不意に、さきほど聞いた弥兵衛の言葉を思い出す。
 彼は確かこんなことを口にしていたはずだ。
「詳しいことは申せませぬが、あの娘はとある御仁に狙われております」
 葵さんが悪い奴に狙われている──正直、さっきは話半分にしか聞いていなかったけど、まさか本当のことだったなんて。
 ケンタの背筋に震えが走った。
 それも、彼女を狙っているのはあんな連中を手下に持ってるような奴だってことか。
 どう考えても、そこらのやくざ者かなんかが相手だとは思えない。
 じゃあ、その理由はなんだ?
 この()には、そんな大層な連中に狙われなくちゃならないワケがあるっていうことなのか?
 いったい、それはなんなんだ?
 知らず知らず抱き締めていた少女の体温を掌に感じつつ、ケンタは出口の見えない迷宮に足を踏み入れようとしていた。
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