第二十五話:旅は道連れ

文字数 8,211文字

 やや愚図つき気味な空の様子をうかがいながら清水屋で遅めの朝餉をとったケンタたち一行は朝五ツ(午前八時頃)には宿を立ち、舟で馬瀬川を渡るとそのまま休まず飛騨川右岸にある下原の口留番所へと向かった。
 飛騨国の南端、美濃国と接する位置にある同所は、飛騨高山藩初代藩主・金森長近が自領の治安維持と口役銀(くちやくぎん)つまり通行料を徴収するため設けたものが始まりと言われている。
 実際、飛騨の表玄関とも言えるこの番所は降雪量が少ないゆえ冬季でも利用する人馬は多く、年間を通して高山藩に落ちる口役銀その四分の一がここ一カ所でまかなわれているとのことだった。
 ケンタたちがふたたび光右衛門らと出会ったのは、番卒からの通行人改めを受けるべく番所の門を潜ろうとした、まさにその矢先の出来事だった。
「おお、これはこれは古橋殿ではありませぬか」
 初めてのおりと同じように、いかにも好々爺然とした笑顔を浮かべて光右衛門は声をかけてきた。
 この時代にあっては図抜けて大柄なケンタの姿が周囲から浮き上がっていたからだろうか。
 彼は他者の存在などには脇目も触れず、やや遠目からまっすぐにこちらめがけて歩み寄ってきた。
 この降って湧いたような再会にいささか驚いたような表情を見せつつ、ケンタもまた小さく笑ってこれに応じた。
「ご隠居さん!」
 彼は言った。
「ご隠居さんたちもこれから吟味ですか」
「左様」
 鷹揚に頷きつつ光右衛門が答えた。
「いささか面倒なことではありますが、何事も筋道というものは大切なものでありますからな。目先の便利に気を取られても、結局は良い結果を招きませぬ」
 光右衛門の言う「便利」とはいわゆる「番所破り」という行為のことなのだろう。
 訳あって通行人改めを受けたくない者、あるいは運んできた荷に掛かる口役銀を支払いたくない者が時として行う犯罪行為。
 改めて言うまでもなく重い罰が加えられる御法度である。
 しかし、そこはしょせん「蛇の道は蛇」
 番所の役人も話の次第や袖の下によっては、それらをあえて見逃すことも多かったと聞く。
 もっとも、ケンタや光右衛門たち一行のような単なる旅人──すなわち特にそのような脇道を選ぶ理由を有しない者どもにとっては、面倒な手続きによる少しばかりの時間の浪費を厭う必要性はまずもって皆無と言ってよかった。
 ふと見ると、光右衛門の後ろには昨日ケンタと力勝負を争ったボブサプという黒人以外に、もうひとり目付きの鋭い渡世人風の男が付き従っていた。
 なかなかいい体格の持ち主だ。
 見るからにはしこそうで、それなりの腕っ節も備えているに違いない。
 そんなケンタの値踏みに気付き、男はその目線をかわすようにぺこりと小さく頭を下げた。
 前後して光右衛門が男の名前をケンタに告げる。
「そういえば古橋殿とは初めての対面となりますな。これなる者は私ども水戸屋の手代にて、名を小八兵衛と申します」
「お見知りおきを」
 そんな光右衛門の紹介に合わせ小八兵衛と呼ばれた男もまた、小さく相好を崩してみせた。
 全身から漂う鋭さとは打って変わって、なんともまあ人好きのする笑顔であった。
「おはようございます、ご隠居さま」
 彼らの語らいがいち段落するのを見計らったかのようなタイミングで、葵がケンタの横に並び立った。
 ケンタと比べて身の丈で一尺三寸(約四十センチ)ほども小さい彼女だが、不思議とその存在感では見劣りしない。
 丁寧な会釈ののち、まっすぐに光右衛門と向かい合った葵は、年齢とはいささか釣り合わぬ凜とした態度でもって彼に対した。
「おはようございます、葵さん」
 光右衛門もまた会釈を返した。
「この後はまっすぐ高山へお帰りになりますのかの」
「今日は早くに湯ノ島宿に入り、明日明後日までにはそうするつもりでございます」
「ほうほう、それはまた好都合」
 より一層目尻を下げ老爺は言った。
「私どもも、そのようにいたすつもりであったのですよ」
「まあ、ご隠居さま方も」
「左様左様。飛騨国・湯ノ島といえば、(はやし)羅山(らざん)なる儒学者が『諸州に多くの温泉あれど、その最たるは、摂津の有馬、下野の草津、飛騨の湯島が三処なり』と評しておりますからな。この老骨も、それを聞き及んでおきながらなお同地を素通りするわけには参りませなんだ。ちなみに葵さん。羅山の評には先駆者がおることを御存知か?」
 「いいえ」と首を左右に振る少女に向かって光右衛門は語る。
「実はのう、かつて京都五山の禅僧だった万里(ばんり)集九(しゅうく)なる歌人が、いまより二百年ほども前、すでに『梅花無尽蔵』という詩文にて『天下三名泉は有馬・草津・湯島』と歌っておるのですよ。羅山は将軍家に仕えた僧侶でありましたからの。いかに紀行文を記しておったといえど、先に申した三つの湯場をすべて訪れたとも思えません。あるいは集九の言を引用しただけなのやもしれませぬなあ」
「そうなのですか」
 それを聞いた葵が、思わず両目を輝かせた。
「ご隠居さまは、なんでも御存知なのですね」
「何、これも年の功という奴でございますよ」
 光右衛門はからからと笑ってこれに応えた。
「葵さん、もしよろしければ、高山城下までの道中をご一緒させていただいてもかまいませぬかな?」
「喜んで!」
 葵は答えた。
「そのおりには、ぜひいろいろなお話を葵に聞かせてくださいませ」
「よろしいよろしい」
 光右衛門は数回深く頷いてこれに応じた。
「なんとしても葵さんのご期待に添える話を語って進ぜましょうぞ」
 こうして旅程を共にすることとなった光右衛門一行と葵たちであったが、番所を出でて湯ノ島宿へと至る七里余(約三十キロメートル)の道すがら、特に大きな騒動に出くわしたりはしなかった。
 道中に横たわる中山七里──飛騨川に沿って奇岩や怪石の続く急峻な渓谷。
 そこは飛騨街道屈指の難所でありながら、同時に旅人たちの目を引きつけてやまない何かを確かなレベルで備えていた。
 自然の織りなす驚異とでも評すべきか。
 数寄者であれば、あるいは金を払ってまでこの絶景を目にしたいと感じるかもしれない。
「ひとの作りしものなぞはしばらく眺めるだけで飽き飽きするのだが、自然というものはほんに百里行けども退屈するということがないのう」
 光右衛門が思わずそう呟いたのも至極当然と思われるほどだった。
 一行のうち、ただひとりこの時代の人間ではないケンタもまた、その発言には全然同意するほかなかった。
 名古屋へと向かう道中にも同じことを思ったが、二十一世紀に尊ばれる速度と効率とを最大限に重視する旅路といまのように生まれ持った二本の足でその地その地の空気を味わう旅路とでは、やはり存在意義そのものが異なっているのだろう。
 もっとも、そのどちらが真に正しいのかまでは当のケンタ自身にも判別はつかなかったのだが。
 彼らが本日の目的地とした湯ノ島宿へ到着したのは、間もなく夕七ツ(午後五時頃)にもなろうかという時間帯のことだった。
 途中まで快晴だった天候がわずかに崩れ、しばしの降雨によって足止めを食らわされたことが思惑より若干遅れた原因だった。
 ただし、日はまだ十分に高く、およそ夕暮れ時という雰囲気ではない。
 宿を求める旅人たちの姿も多く、一行は急ぎ手近な一軒の旅籠にて草鞋を脱いだ。
 「山形屋」という名を持つその湯宿はケンタたちの懐具合からしてやや不釣り合いな大見世であったが、「宿賃は私がお世話いたしましょう」という光右衛門の申し出が彼らの背中を強く押したのだった。
 無論のこと葵やケンタは「ご隠居さまにそこまでしていただくいわれがない」と老爺の言をいったんは固辞したのだが、光右衛門もまた引き下がりなどしなかった。
 「年寄りの親切は素直に受け取っておくものですぞ」と、このちりめん問屋の隠居を自称する老人は温和な口振りを用いつつ強硬なまでに主張した。
 ケンタと葵がしばし顔を見合わせ、ついにその意を承る旨の返答をするまでには、それからさほどの時間を要さなかった。
 食事の前に、大風呂に浸かりさっぱりと旅の汗を流し落とす。そのしばらくあとに運ばれてきた旅籠自慢の夕餉の品は、六人一緒に光右衛門たちの座敷で味わった。
 炊きたての御飯にあぶらめ(アブラハヤ)の甘露煮。
 長漬けの丸かぶを煮戻した「煮たくもじ」という郷土料理。
 白瓜と生姜の味噌汁。
 献立の内容こそ決して豪勢なものではなかったが、どれも旅籠の料理人が客人をもてなそうと丹精込めてこしらえたこと一目瞭然の品々だった。
 「いただきます」という光右衛門のひと言をもって今宵の宴は開始された。
 年配の女中が皆の給仕をするなか、和気藹々とした刻がのんびりと優しく流れていく。
 ここまでの旅路を共にしてきたとはいえ、初めて夕餉の席を同じくする一行がこうも緩やかに打ち解けられたのは、最年長である光右衛門が所々で見せる的確な気遣いによるところが大きかった。
 いやあえて誤解を覚悟で言い換えるなら、彼の手によってこの場のすべてが支配されていたと評しても過言ではあるまい。
 しかも、全員がそれにまったく歪みを感じないほどの自然さで、である。
 こと集団のリーダーとして彼をみれば、その手腕はなまなかのものでないと評し得た。
 およそ半刻ののち、楽しげな夕餉の時間が終結すると、各々はそれぞれ自身のやるべき事柄へ向けて散っていった。
 ケンタと鼓太郎の師弟はまだ陽が明るいのをいいことに鍛錬と称する何事かを行うため外へと出かけ、ボブサプと小八兵衛も、行く先を主である光右衛門に耳打ちしてから同じように姿を消した。
 座敷に残されたのは老爺と少女のふたりきりとなった。唐突に光右衛門の側から提案があり、葵はこの博学そうな好々爺より学問の手解きを受けることと相成った。
 「これからの時代は、女子(おなご)といえど見識を深めていくのが肝心でありますぞ」という光右衛門の言葉には、どこか彼女の胸を打つものがあった。
 「よろしくお願いいたします」と、まるで敬愛する師に対するがごとく一礼し、葵は老人の語るひと言ひと言にじっと耳を傾け聞き入った。
 光右衛門もまた、わかりやすく丁寧な言葉をかみ砕いて選びつつそれに応えた。
 濃密な講義の時間は一刻を上回った。
 天道、是か非か。
 大陸王朝の歴史書である「史記・列伝」を引き合いに出しつつ、光右衛門はゆっくりと葵に語る。
(いん)紂王(ちゅうおう)に仕えた(しゅう)武王(ぶおう)は、かつての主君を平らげて自らが国の宗主となりました。伯夷(はくい)叔斉(しゅくせい)という賢者は、おのが主君を討った武王に従って周の国の穀を食べるを恥とし、首陽山(しゅようざん)という僻地に隠れて山菜を採ってこれを食べておりました。しかしそれも長くは保たず、ついにふたりは餓死することとなったのです。
 ある人は斯様に申しております。『天の道は決してえこひいきなどしない。いつも善人の味方である』と。ですが、伯夷・叔斉のような仁は、むしろ善人というべきではありますまいか?
 孔子(こうし)の弟子の顔回(がんかい)という仁は義人として広く世に知られておりましたが、貧困にまみれ若くして亡くなられました。一方、盗跖(とうせき)という名の盗賊は、悪事の限りを尽くしながらも人の世にはばかり続けました。
 いまの世でも、決して正しいとは言えない者が平然と富み栄えておるのが実情であります。いかなる時でも善き道を歩もうとし、正義にかかわることでなければあえて憤りを表に出そうとしない仁。左様な者たちが理不尽な災いに遭っている例は、まさしく浜の真砂の砂粒のごときでありましょう。
 葵さん。左様な天道というものは、果たして正しきものなのでありましょうか? それとも、そうでなきものなのでありましょうか?」
「……わかりません」
 少しの間考え込むような素振りを見せたのち、ためらいがちに葵は言った。
「若輩者の私には、まだ左様な事柄はわかりかねます。わかりかねます、が──」
「が?」
「それでも、考えていきたいと思います。考えることを諦めずにいたいと思います」
「よろしい」
 大きく相好を崩した光右衛門がいたく満足げに頷いた。
「その言葉が聞きたかった」
 光右衛門の講義は、それから時を経ずしてひと段落した。
 戸外での鍛錬から戻ったケンタと鼓太郎の気配に、はたと葵が気付いたからだ。
 おもむろに彼らの面倒を見なくてはならないと老爺に告げた彼女は、丁寧な断りを入れたうえで光右衛門の居室をあとにした。
 ちょうど縁側の障子戸を開けたあたりでいずこからか帰還した小八兵衛とすれ違う。
 小八兵衛は葵が少し離れた距離に至るまで待ってから座敷に入り光右衛門と対峙した。
 その瞬間、それまで「目の中に入れても痛くない」孫娘でも見ていたかのような好々爺の表情が武士(もののふ)のそれへと一変する。
 彼は鋭い口調で問いかけた。
「おったか?」
「二、三人といったところでありやすね」
 小八兵衛は即答した。
「間違いなく国境の番所からつけられておりやす。侍じゃあありやせん。あっしらの同業か、あるいはその類いの連中ではないかと」
「狙いは葵さんかの?」
「おそらくは。少なくとも、ああいった連中が御老公をつける理由はいまのところごぜえやせんから」
 小八兵衛の回答を受け、光右衛門は小さく唸った。
 「では、この道中で何かしでかしてくるやもしれぬな」と懸念の意を示す。
 だが、小八兵衛はあっさりそれを否定した。
「それはねえと思いやす」
 小八兵衛は老爺に言った。
「そんな気があるなら、とっくに手を出してきてるでしょう」
「なるほど」
 光右衛門──光圀は小さく頷いてから小八兵衛に告げた。
「なればもう少し様子を見よう。そなたは引き続いて監視を怠るな。ここはもはや敵地であると心得よ」
「承知」

 ◆◆◆

 一行が湯ノ島宿を立ったのは、翌日の明六ツ(午前五時頃)であった。
 昨夜と同じように光右衛門の座敷で食事を共にし、余裕を持って旅支度を調える。
 天候は晴れとまでは言いかねるが雲は十分に高く、早々に泣き出すようなことはなさそうに思われた。
 急ぐ必要がないとわかれば少々寄り道を楽しみたくなるのが旅を楽しむ人の常である。
 光右衛門もその例外ではなく、葵たちもあえて彼の意向を拒絶してみせるほどの堅物ではなかった。
 湯ノ島宿を出立した彼らはおよそ二里(約八キロメートル)強を歩いて飛騨萩原へと向かい、朝四ツ(午前九時頃)を向かえるまでには「龍澤山(りょうたくざん)」の山号を持つ名刹「禅昌寺」や飛騨二ノ宮にして南飛の総鎮守社たる「久津八幡宮」を参拝した。
 ことに源氏の嫡男・義平が関東より「鶴岡八幡宮」を勧請したと伝えられている「久津八幡宮」の荘厳な佇まいは光右衛門の心をいたく揺さぶったと見えて、ケンタたちはしばらくの間、その口から放たれる感嘆の言葉を何度も何度も繰り返し聞かされる羽目に陥った。
 飛騨萩原から高山城下までの距離は、おおよそ七里(約二十八キロメートル)といったところだ。
 いまからまっすぐ目的地へ向かえば、途中の峠越えを考慮に入れても日没前後には到着できるだろう道程だった。
 仮に子供である鼓太郎の足がそれに付いてこられなくても、その場合は峠手前の久々野(くぐの)で宿泊すればいい──あえて口にこそ出さなかったが、実のところ葵はそんな風に目論んでいた。
 久々野とは、飛騨川と無数河川(むすごがわ)の合流点に広がる村落の名だ。
 村民の大半は、もっぱら稗・粟を初めとする雑穀の栽培や近場を流れる河川での漁に従事している。
 ただ、同地が益田街道上を横切って流れる無数河川の渡河点であることに加えて、南から高山に向かう旅人らにとってちょうど「ここから先は峠道」という絶好の位置に広がる集落であることから、それらを目当てとする非公式な宿もいくつか存在しているのが実情だった。
 実は、秋山道場で働く下女・おみつの実家があるのも、ここ久々野なのであった。
 益田街道を一路高山へと北上するケンタたち一行が久々野に辿り着いたのは、夕七ツ(午後五時頃)を若干過ぎたあたりのことだった。
 当初の目論見よりも一刻ほど遅れを見せている。
 いかに歩き慣れているとはいえ、やはり幼い鼓太郎の歩みが旅路に大きく影響していた。
 無数河川の浅瀬を歩いて──葵と鼓太郎はケンタの、光右衛門はボブサプの肩上に乗って──渡り、百姓家が点在する村の縄張りに足を踏み入れる。
 田畑での仕事を終えた村民たちと幾度かすれ違うが、街道を行く旅人たちの姿に慣れているせいか彼らが顔色を変えたりするようなことはなかった。
「ご隠居さま、城下までは間もなくでございます」
 ふとひと息つきながら、光右衛門に葵は告げた。
「このまま行けば、宵の刻までには一ノ宮に着けるでしょう」
「そこまで無理はしなくてもいいんじゃないですか?」
 そんな彼女を気遣うようにケンタが横から口を挟んだ。
 気丈に振る舞ってこそいるが、いまうかがうことのできる葵の表情から色濃い疲労が見て取れたからだ。
 彼と並んで歩を進める鼓太郎もまた似たような有様だった。
 こちらも泣き言ひとつ口にしないが、その足取りにはどこかおぼつかないものがある。
 無理もない。
 よくよく考えるまでもなく、いかに休み休みとはいえ都合五刻(約十時間)余りも徒歩の旅を続けてきたのだ。
 場合によっては成人男子ですら足がどうにかなりかねない。
 この時にケンタが抱いた懸念は、至極もっともなものだと思われた。
「私も左様に考えますぞ」
 それを察したものか、光右衛門もケンタの発言に同調した。
「古橋殿のおっしゃるとおり、疲れをおして無理矢理先に進んでも、結局は碌なことになりません。ここはひとつ、どこか軒を貸していただける家を見付け、そこでゆっくりと疲れを癒やすべきではありますまいか」
「そうですね」
 年長の男子ふたりから進言され、葵は素直に主張を折った。
 こころなしか、その顔付きには安堵の色が見え隠れしている。
 やはり、彼女自身も自らの困憊を自覚していたということなのであろうか。
 わずかなはにかみを浮かべながら葵は言った。
「ちょうど庄屋さまの御屋敷がこの近くだと聞き及んでおります。まずはそちらをうかがうことにいたしましょう」
 そんな彼女に向かって予期せぬ呼び声が投げかけられたのは、彼女がそう発言したまさに直後の出来事だった。
「あんれぇ、葵お嬢さまと古橋さまではないですか」
 それは、どこか間延びした感じのする若い女性の声だった。
 しかも、葵とケンタにとっては明らかに聞き覚えのある声だ。
 ふたりは、ほとんど同時に声の放たれた方向へと顔を向けた。
 そして、そこに立っていた発言者を目の当たりにするやいなや、異口同音にその者の名を口にする。
「おみつ!」
「おみつさん!」
 そう、それは秋山道場で下女の役を務める娘・おみつの姿だった。
 手拭いを角隠しの形で頭に被り、たすきと前掛けとを身につけている。
 おそらくは農作業からの帰りなのだろう。
 野良着の裾や袖には、わずかに土の汚れが付着していた。
 そんな彼女を確かめた葵が、思わず疑問符を掲示する。
「どうしてこんなところに?」
「こんなところも何も、久々野はあたしの村ですからぁ」
 驚いたように飛びだした葵の問いかけに、おみつは木訥とした口振りでそう答えた。
 双方の話が噛み合っていないことはすぐにわかった。
 葵がおみつに尋ねたのは、「秋山道場で働いているはずのあなたが、なぜいま時分、この久々野村にいるのか?」ということであり、それに対するおみつの返答が彼女の求めた回答条件を満たしていないのは誰の目にも明らかだった。
 だが、当のおみつ自身はそのことにまったく気付いていない様子だった。
 それを証明するかのごとく彼女は言った。
「お嬢さまたちこそ、なんでまたこげなところにおられるんですかぁ」
「なんでまた……って」
 咄嗟に言葉を返したのはケンタだった。
「俺たちは先生に頼まれた用事を済ませての帰り道ですよ。別に寄り道してこの村に立ち寄ったわけじゃないんですから、そんなにおかしいことでもないでしょう?」
「いやいや、おかしいことですよぅ」
 思わず目を丸くしておみつは応えた。
「だって、あたしも茂助じいさまも、お嬢さまたちはあれで国を出られてもう戻ってこられないって聞いてたのですからぁ」
「えっ」
 仰天してケンタは尋ねた。
「そんな話を誰が言ってたんですか?」
「そりゃあ、秋山の先生に決まっていますよぉ」
 おみつは言った。
「まさかご存じなかったんですか? 先生は古橋さまたちが旅に出られてからすぐ道場をたたまれて、あたしと茂助じいさまにお暇をくだされたのですよぉ」
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