深海図鑑

文字数 4,774文字

そこに小窓がある。僕個人にとってはとても重要な意味を持つ窓である。何故ならば、僕とこの世界を繋ぐ、唯一の空間なのだから。窓の向こうにはなんでもない風景がある。そこにあるのは一本の木、ただそれだけ。少し暗い話にはなるが、その木は僕にとって唯一の友達なんだ。
それでもこうして耳をダンボみたいに大きくして隣部屋の話を聞こうとしているのは、いろはの様態がとてつもなく気になっているからだ。
 彼女は僕のことを『いちご』と呼んでいる。勿論、本名ではない。彼女が命名したあだ名なのだ。その名の由来は、僕の病室番号が15であったこと。ちなみに僕もお返しと言ったらなんだが、彼女のことを『いろは』と呼んでやっている。その由来は勿論、彼女の病室番号が16であるから。
 いろはは僕の読書という至福の時間を邪魔する為に、単なる暇潰しか知らないが僕の病室へしばしば訪れた。
「なーに呼んでるの? トチオトメさん」
 開いた本の表紙を摘み上げ、タイトルを覗き込むいろは。
「他人の読書中にその本を閉じようとするなんて、そんな人間見たことない。それも何ページか分からなくなっただろ」
「なにこれ? 深海図鑑? つまらなそう」
「つまらなそうで結構。君が読まないといけない物ではないんだから」
「相変わらず変わってるね。君って」
 いろはに言われてしまったら、僕もおしまいだ。変わり者という言葉はいろはの為に存在していると言っても過言ではないのに。
「好きなの、深海が?」
 僕の顔を覗き込む様に下から見上げるその仕草といったら、純粋無垢で今だけはなんの汚れも知らない少女に見える。これを故意に行っているのなら、この人は怖い。
「そもそも深海に興味がないならこんな図鑑開かないだろ」
「深い海の底なんか暗いだけで、なんか薄気味悪いよ」
「深海は暗いだけじゃないんだ。高水圧に低水温、生物にとって過酷な条件が揃っているんだ」
「そんなに深いの?」
「そんなにってもんじゃない。深海はエベレストがすっぽり入るくらい深いんだ。それに海面よりも地球の中心の方が近いんだ。それくらい深い」
「相変わらず暗いね、いちご君。あなたは深海くらい暗い。知りすぎててなんだか怖いくらい」
「そんなことはない。深海は宇宙にある火星くらい調査が進展していない。未知の学問なんだ。なんせアポロから四十年以上、誰も月に行ってないっていうけど、潜水艦トリエステ号がマリアナ海溝、を最後に52年の間、誰も10000mより深く潜ることはなかったんだから」
「なんか面白いね」
「意外だな。まさかあのいろはが深海の話で面白いと思うなんて」
「違うよ」
「えっ?」
「いちごくんが面白いんだよ。あなた興味のある話になると物凄い喋るよね。それが面白くて、興味もないのに、そんなに深いの? って質問したんだよ」
「からかうなよ」
 怒る僕をにやけた顔で眺めていたいろはは、僕に背中を向けると病室番号15の部屋を後にする。

 僕等は18。普通ならば高校に通っているはずの年頃。それなりに部活や勉強をして、放課後には友達とゲームセンターでも行って。恋愛のひとつでもしていたっておかしくはない。それなのに僕らときたら、この小さな病室で1日の大半を消費する毎日。まるでここは深海みたいだ。
 自分でも自覚があるくらい無口で地味な僕はともかく、いろはが周りの皆と同じように、当たり前に高校へ通えていないのは実に勿体無いと感じる。きっと友達にも人望が厚く、彼女のことを悪く言う奴は居ないであろう。それに男子がほっといてはくれないはず。そう考えると本当に勿体無い。そんな感情と同時に彼女と僕では人間性に格差があるように感じられ、心が痛い。また卑屈なことを浮かべては窓の外にある景色を眺めた。

 今日はいろはの機嫌が悪い。一目見ただけで直ぐに判断できる。その顔といったらまるで深海魚のムネエーノみたいだ。
「なんで、なんで、なんで、なんで、先月したばっかりなのに、なんで?」
「知らないよ、僕は医者じゃないんだから」
「これ以上、何を検査するっていうの?」
 まるでおもちゃを強請り、床をバタバタと叩く子供の様だ。
「まあさ、先月検査した部位以外も念の為、検査しておこうってことなんじゃないの? してもらっといたら良いじゃないか?」
「どれだけ私の身体を知りたがってるのかな、ほんと嫌になる」
「そういう意味じゃないだろ?」
「そういう意味ってどういう意味?」
「いやっ」
 思わず僕は言葉を詰まらせてしまった。まさかそこを追求されるとは思いもしていなかったから。
「じゃあ、あなたが医者なら私の身体を検査したい?」
「はい? 何言ってるの?」
「どうなの?」
「えっ?」
「検査したいの? 私の身体」
「うん?」
 驚いた。どうやら彼女はこの話題から僕を逃してくれないみたいだ。いったい僕にどんな言葉を期待しているというのか?
「したいの? したくないの?」
「したいよ」
 少し声が大きくなってしまった僕。返答を間違えてしまったのか、一瞬彼女が固まっていた。この沈黙が怖い。
「えっ、したいの?」
「そりゃ、そうだろ。医者だったらしたいと思うのが当たり前だから」
「......。」
 黙りこんだ後、大きな声でケタケタと笑い始めてしまったいろは。お腹を抱え、小刻みに震えている。
「何がそんなに可笑しいの?」
「あー、ごめん、ごめん。笑いが止まらない。えっと、あぁ、そうそう、なにもそんなに真面目な顔して言わなくても」
 いろはは、僕のベッドに備え付けられている手すりを握り締め、もう一度、溜まっていた笑いを吐き出した。
「そりゃ、真面目にもなるだろ? あれだけ恐い顔されたら、こっちだって真面目にもなるさ」
「あら、恐い顔なんて失礼な言い方じゃない?」
「ともかく、検査しなよ」
「うん、うん、納得、納得」
 意外とすんなりと納得した。いろははとてつもなく単純明快な生き物なのか?
「いちごが言うなら間違えない。納得したよ」
「なんだその理屈?」
「あなたの屁理屈より、マシな理屈でしょ? いちごくん」
 何故か彼女が嬉しそうに見えた。理由は良く分からないが機嫌が直ったのならそれで良い。何も問題ない。満足そうに病室を出て行く背中がそれを物語った。

 このところ、いろははほっそりと痩せてしまったように思う。その白い肌からは青い血管が浮き出て見えている。
いろはが、ちょっかいを出すために僕の病室を訪ねに来ない。ただ単にいろはの気まぐれであろう。むしろそうであって欲しいが。いろはの憎たらしい顔を拝めない最長記録の更新。それがなにを意味するのか?
 なんて臆病な生き物なのだろう。これほどまでに近い、なんせ隣の病室。16の病室、その扉をノックするはずの右手が握り拳のまま、躊躇って汗をかくだけ。
 この一歩、この一歩は、深海10000m程の距離と僕にとっては同等で、最大限の勇気を表現したものだった。
 恐る恐るその扉をノックする。開けて直ぐに気づかされる。いろはは居ない。彼女の名前が書いてあるはずのプレートは白紙で。どうやら彼女は面会謝絶の集中治療室へ移動になったらしい。
「馬鹿野郎、僕を置いて行くな」
 生まれて初めてと言っていいほど大きな声を出した。その事実を知って初めて生まれた感情をそのまま言葉として吐き出した。これほどまでに泪を流せるのか僕は。巨大な不安と、少しばかりの安心感。
 それから一ヶ月、三十一日間、744時間。君の居ない世界で生きたよ。生きているのに死んでるみたいに生きてたよ。
 窓から見えるあの木を一日中見てさ。代わり映えのしない時の中で、時間が止まったように、時間は止まらず流れたよ。

 そして三十二日目の深夜。扉を開ける音で目覚める。
「ねぇ、家出しようよ」
 真っ赤な顔をしたいろはが居た。車椅子に座る彼女は泪を溜めて、肩で息をしていた。
「家じゃないだろ、ここは」
「つまらない、つまらないよ、いちご」
 その真っ赤な顔、お前の方がいちごだろ? きっとあの車椅子で病棟を抜け出してきたのだろう。
「連れ出してよ、今直ぐ」
「無茶だよ」
「無茶だと分かってて言ってるの」
「抜け出す理由がない」
「理由なんてどうにでもなるでしょ」
「例えば?」
「デート」
「それは、十分な理由だ」
 いろはの後ろに廻り、車椅子の両ハンドルを握り閉め、ふたりの15室を飛び出した。巡回の警備員、看護士にばれぬよう、息を潜め、主に荷物の運搬に使われる従業員用のエレベーターに飛び乗った。
 目指すは屋上で、誰も居ないふたりだけの世界で、これはきっと大冒険で、誰がなんと言おうと列記としたデートなのだ。
 星が降るようだ。夜空を埋め尽くそうと、溢れ返っている。
「こんなことしていいと思ってるの」
「いろはが言い出したことだろ?」
「質問を変えてあげる」
「答えがない質問だったら答えない」
「こんなことしたいと思ってた?」
「こんなことって?」
「だから、その、デート……。」
「思ってた」
 真っ暗な深海では結婚相手を探すことすら大変だ。ミツクリエナガチョウチンアンコウは出逢ったら、一生離さない、離れない。オスはメスよりも小さくて、メスに寄生して暮らす。ただただ、くっついているだけなのに、いつしか皮膚がくっついて、いつしか血管がくっついて、身体はひとつになる。それでもって、僕はいろはの病気すら食べつくしてやろうと思っている。
「こんなところでいいのか? 抜け出してもない、ここは病院の敷地内」
「あなたにしては上出来じゃない」
「もし僕がこの世界で唯一、宇宙で生存することが出来る深海生物のクマムシだったら、宇宙にでも連れ出せるのにな」
「あら残念、あなたはいちご。土に根を張る、実は果物じゃなくて野菜のいちご」
 近くのコンビニですら夢物語の僕はいろはに宇宙以上の夢を見た。
「ねぇ、いろは」
「はーい?」
「ひとつ聞いても良いか?」
「うん」
「いろはって、死ぬの?」
「死ぬよ」
 なんだこの感情は? 僕は想像を超えていくほど平然としている。なんとも心静かで、落ち着いている。
「お疲れ様」
 最後に僕はそう言った。

 いろはを連れ出したこと。僕はうんと怒られる準備と覚悟を決め込んでいた。えらいことをしてしまったという自覚は持っているつもりだった。にもかかわらず、僕は誰からも怒られることはなかった。その理由はあの日の僕には解らなかった。
 あの夜がいろはに逢った最後の夜で、数ヶ月後、なにも変わらぬベッドの上で、僕はいろはが死んでしまったという事実を知る。
僕は、いろはが死ぬ直前に僕に宛てて書いたという手紙を読み返していた。

いちご君へ
いちご君、ごめん。お先に失礼します。
でも、安心して。私は誰かの身体で生き続けることにしたから。
だから、お引っ越しをしただけなの。
私は潜水艦を変えて深海から抜け出すね。
あなたは私の光だった。
いちご君、あなたもきっと深海から抜け出せる。
日を浴びて、笑える日が来るから。
いままで、遊んでくれてありがとう。
あなたのことを、私の人生において一番大切な人。
そう、呼んであげることにします。
いろはより

 季節は春。窓に眼をやれば僕のただひとつの友達であるあの木が、はじめて花を咲かせていた。それはマリンスノー。プランクトンの死骸が粒子となり、白い雪のように深海へ降るように。ずっと、眺めていた。ずっと、ずっと眺めていた。
「は、はじめまして」
「あなたは?」
「僕はこないだとても大きな手術を受けた者なのですが、どうしてもあなたに会わないといけなくて」
「すいません、話が見えてこないのですが」
「僕が受けたのは臓器提供の手術で」
「はい?」
「勿論、提供者の名前も住所も知らないのですが、あなたに私の心臓の音を聞いて欲しくて」
「えっ、もしかして、あなた?」
 どくん。どくん。どくん。どくん。
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