月に金木犀が咲かない理由

文字数 2,562文字

『新月』
制服の袖をまくり、君は蛇口をひねった。長い黒髪を耳にかけると口元を水によせる。唇を尖らせて水を飲むその横顔に、首筋は光って見えた。
遠くからは誰かのはしゃぐ声が聞こえ、次々に正門へと消えていく。周りが浮き足立っているのも無理はない。明日から長い夏休み。グランドの片隅に並ぶこの手洗い場は昼を待たずにだんだん静かになる。
君はタオルで濡れた唇を拭き取ると自転車にまたがる。その瞬間、君の香りを鼻先で感じた。僕等は自転車を並べて走り出す。

くだり坂の先には海を見下ろせる。いくつも並ぶ電信柱を抜けて僕等を乗せた自転車は、ブレーキもろくに握らずにくだって行く。生温い風は淋しさを連れてきた。最後の夏休みに君とどれほど居られるだろうかと。弾むサドルは僕を急かし、僅かな期待は膨らんでいく。
海岸に沿って伸びる道の隅に自転車を置き、堤防へと歩を進める。肩を並べて歩いていた君は駆け出した。僕が呼び止めると振り返る。その澄み切った顔で僕を見つめる。一瞬に時間は止まった。君は生成り色だ。何色にも染まれない。
僕等はしばらく黙って眺めていた。
「今日、花火大会があるみたいだな」
「それがどうしたの?」
「別に……。」
「私、浴衣、着ようかな」
「えっ?」
「なに、びっくりしてんの?」
「行くの?」
「行くよ」
「誰と?」
「ナイショ」
「なんだよ、それ」
「いっしょに行く?」
「えっ?」
「この堤防から躊躇いなく海へ飛び込んでくれたら、いっしょに行く」
「はっ? 」
「ねぇ?」
「うん?」
「何故、金木犀が月に咲かないか知ってる?」
「なんでって、そりゃ、月だからだろ?」
「答えになってない」
「宇宙で花見た事ねぇだろ?」
「そもそも宇宙に行ったことないくせに」
「そうだけど……。」
「火星があって、木星があって、それなのに金木犀は咲かないの」
「謎謎か?」
「ある意味謎謎ね。あなたにとって」
「なんだよそれ、月には空気もないし、水もないし、光もないからだろ? だから咲かないんだろ?」
「今夜は新月だって」
「はぁ?」
「だから月は姿を見せない。暗い分、花火が綺麗に見える」
辺りは見る見るうちに暗くなっていく。
「なんなんだ。なんだよ、これ」
「夜が来たみたいね」
「いや、意味分かんねーから。さっきまで終業式やってたはずだろ? どうなってんだ」
「見て、空が真っ暗。月も出てない」
「なんでそんな冷静なんだよ」
「時は待ってくれないの」
「はぁ?」
「時は追い越せないし、取り戻せもしない。今しか居れないの、この時には」
「ちくしょ、意味分かんねーわ」
僕は海へと飛び込んだ、躊躇いもせずに。
そこは音のない世界。海の冷たさすら忘れた身体は、どんどん沈んで行く。ゆっくり眼を開けると辺りは真っ暗で、僕が吐いた息は泡と変わりぶくぶくと浮かんでいった。水面を見上げれば、打ち上げ花火が光っては消える。色とりどりに咲いては水面に揺れ、打ち上げられた音だけを微かに残して消える。僕は慌てて泳ぎ、浮かび上がると水面へ顔を出す。
君は背中を丸め屈み込み、堤防から僕を見下ろしている。
「行こう。いっしょに花火大会行こう」
「もう終わったよ、花火大会」
「えっ? 嘘だろ? 高校生活最後の夏休みだぞ」
「高校生活、最後? なに言ってるの? あなたはとっくの昔に卒業してるじゃない? 大人になって会社で働いてる」
「えっ?」

「未練残したからって、夢に見ないで。眼を覚まして」

♢♦︎

『満月』
また、あの夢を見ていた。

眠気まなこで窓の外の流れる景色を眺める。乗り過ごしてはなさそうだとほっとして、時計に眼をやる。今日も、もうすぐ終わろうとしていた。そして今年も、もうすぐ終わろうとしている。今日は大晦日。
揺れる電車。生温い風を足元で浴びる。車内に客は僕だけとなっていた。つり革の向こうで月がこちらを見ている。近づきもせず、離れもせず、僕を追いかける。今夜は満月だ。
首元を締め付けるネクタイに気づき緩めると、ボタンをひとつ外す。窓が少しだけ曇っていた。その先で電線は高さを変え流れて行く。
電車を降りると冷たい風が頬を触る。思わずコートの襟を合わせた。街は静まり返っているが、少しだけ浮き足立っているように思えた。新年を前にして胸を高鳴らせるように。
胸ポケットで煙草の箱がやせ細り、残り僅かなことを思い出す。コンビニの光が眩しい。煙草と缶ビールを買い、家路を急いだ。
街の冷たさが心地良く感じられていることに気づき、空を仰ぐ。
僕はなにかへ取り憑かれたように仕事へ明け暮れた。なにかに追いつくために必死で走り続けた。いや、なにかに逃げるようにもがき続けた。気づけば高校を卒業して四年の歳月が流れていた。
誰も待っていないマンションに着くと、中は当然のように真っ暗でひんやりしている。手探りで電気のスイッチを押すと、静かでなにもない部屋がある。
缶ビールを飲み干したところでベランダへと出た。ライターの乾いた音と共に火をつける。空き缶を灰皿に煙草を吹かすことにした。
休むことなく走り続けてきた。新年を前にして、残り僅かな今年にふと立ち止まっていた。
君とは高校を卒業してからも、細く頼りない糸でなんとか繋がっていた。何度か会っては他愛ない話を交わし合った。それからは手紙のやりとりも月に一度はあった。月に一度から数ヶ月に一度と少なくなった。言葉に詰まる手紙も次第に送り合うのをやめ、携帯のメールで済ませるようになった。そのメールすら最近は送っていない。最後のメールはいつだったのか、どちらを最後に途切れたのかすら思い出せない。
そんなことを考えていたら、テーブルの上で携帯電話が光り、震えていることに気づいた。僕は空き缶の上に煙草を乗せ、携帯電話を取りに行く。ベランダに持ち込み、画面を見ると『メール一件』の文字。君からだった。

もう、メールをするのもこれで最後にします。さようなら。

 どんなに時間を費やしたとしても、どれほど歳月を重ねたとしても、僕と君には近づかない距離があることに気づく。この気持ちはあの電車と似ていた。外は冷たく、中は生温い。
煙草を揉み消し空き缶の中に放り投げるとベランダに残したまま部屋の中へと。ふと時計を見る。

新しい年を迎えていた。
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