アクアパッツァと二丁目のケイコママの話

文字数 2,604文字

怪物の様な造花の影が伸びる。
彼は水をやるつもりも、
陽を浴びせるつもりもない。

束ねればスカートの様なカーテン。
ひんやりとした風に揺れていた。

隙間から射し込む光が
宙を舞うほこりすら照らす。

日が窓の形に作った床の日溜まり。
横たわり、ただぼんやりと未来について考えた。

壁にかけられた時計は柄も形も独特でいったい何時なのかが見辛い。彼を物語る。彼は生活を豊かにすることよりも、「豊かに見せる」為の生活にこだわる。見やすさより、見てくれの良さ。

背中を丸めて、屈み込み目線を合わせる冷蔵庫にアクアパッツァ。料理が好きな訳ではない。料理をする自分が好きなだけ。その見映えと名前の響きに酔っているだけ。彼はそういう男だ。

コルクに止めた写真が、
無造作に並べられている。
ハートの浮かぶラテアートだとか、
窓際のサボテンに、オレンジのミラー。
なんでもない交差点の写真。

つまらない。どこかで見たことのある当たり前なものが続く。それでも彼は写真家を名乗り、アーティスティックに生きているつもりでいる。飯も食えない。金にならない、写真をぶら下げて。

グラスに泳ぐ熱帯魚は、
月に目がけて飛び跳ねた。
真っ青なヒレを垂らして。

ガラスの中、色とりどりの玉が水に浮かぶ温度計。

彼は僕と居ることで安心する。その安心は僕を見下ろすことで芽生える感情だった。その証拠に彼は自分より下だと思う相手にしか夢を語らない。論破されるのが怖いから。

海外で買ったという、よく分からないアジアンテイストの置き物がこちらを見ている。そんな部屋。

彼はいつだって個性を主張する。
誰とも似つかないセンスの持ち主、そう自分のことを思っている。
なんとも安っぽい。

そんな彼はもうじき仕事から帰って来る。
捻じ曲がり読み辛い秒針の針を眺めながら、ぼんやりと思った。

ひとりでいるこの時間は嫌いではない。
なんだかほっとしたりする自分に罪悪感を覚えながら。

彼と僕とは恋人だ。
彼も僕も所謂ゲイというヤツだ。

この身体に違和感がある訳ではないし、
特殊な恋愛をしている感覚もない。
いたって普通、誰かと同じ。
自然体に生きているつもり。
ゲイという響きに、驚かれるだけ。

ウォーターサーバーの泡は、
ブクブク、ブクブクと、
浮かんで、弾けて、消えた。

あなたの奇抜なタンクトップは、
ベランダにて揺れています。

僕は、バーでアルバイトをしている。
彼ともバーで出逢った。

ジャケットを羽織った彼が、
客としてふらりとやって来た。

ネオンカラーのTシャツから、
ちらりと見えた二の腕に。

それがきっかけ。
ちなみにゲイバーではない。

いったい僕はどこへ向かって、
歩いているのだろうか?

そもそも、歩いているのか?

彼を見て、胸が痛むことがある。
ゲイということすら、
旗のように振りかざして。

アートをお金にして飯を食う。
そんなこと、まだ言ってる。

自由を掲げて、自由に生きている。
そんなふりをする彼を。

なによりも、誰よりも、
なにかに縛られているのは彼だ。
雁字搦めなのだ。

余裕ぶるのにも限界がある。
お金も、年齢も、個性も、
限界がある。消耗品なのだから。

それなのに、また、余裕ぶって。

よく分からない表現で、
それこそ詩人のように、
それっぽいことを言っては、
また、苦しんでいる。

冷凍庫には、
ミント味のアイスクリーム。
よくいう、シャリシャリの、
歯磨き粉。

オリーブオイルに、
生ハムに、アクアパッツァ。

味ではない。雰囲気が好き。
それで大好物。

今の生活に不満はない。
ただ、夜に愛し合う時は、
不便に思うことがある。

そこに性の壁はなかった。

僕のその後は、
普通に会社員となり、
普通に女性と職場恋愛をして、
普通に結婚した。

あなたは、下北沢に、
居場所を見つけましたか?
探し物は見つかりましたか?
自由ですか?

幸せですか?

君は僕を見下していたかった。
優越感に浸って現実を逃避していただけ。
君って誰よりも嫉妬深い男の子だから。

灯りもつけない昼下がり。
彼が東急ハンズで買ってきた、
家庭用プラネタリウム。

天井にぺらい星を散りばめて、
くるくると廻してみた。

小窓から覗く、電線。
焦げた線路。ちぎれ雲。

階段を駆け上がり、
ドアの開く音。

彼が帰ってきた。

♢♦︎

煙草の煙はライトに照らされ、柔らかに漂った。指先で灰を落とすその仕草。
氷がグラスを弾き、ひんやりとした音。ママは静かに話を続けた。

二丁目、ゲイバー、ケイコママ。

その野太い声で乙女さながらにはしゃぐ娘たちを遠目に見ている。
やけに落ち着いていて、その振る舞いは上品で、言わば女より女を嗜むケイコママ。

ブランデーに浸す人差し指。氷と共に混ぜたなら、口紅をグラスに移して。
羽織る薄手のカーディガン。その中で見え隠れする肩は、色気が漂う。

どれほどまでに色濃い人生を歩んできたのか。その胸の奥は深そうで。僕はすべてを見透かされるような気がして。

時にママは、諭すように、あやすように、口説くように、なだめるように、囁いた。
時に僕は、ラジオを聞くように、波音を聞くように、恋人の話を聞くように、耳を澄ませた。

語れぬ夢は、ひた隠す夢は、誰かを傷つける夢は、虚しいばかりだと。
母も父も、どこで間違えたのかと悔やんだ。怒りと哀しみの真ん中で。

底抜けにエネルギーを振り撒くあの娘たちも、過去をぶら下げて生きる。
傷跡引きずりながらそれでも自分を生きる。辿り着いた最期の、この居場所で。

ケイコママが、まだ圭吾君だった時の話。
ゲイ同士、影日向にて、密やかに、蜜に愛し合った。

その男はママに別れを告げて部屋を出た。慣れ親しんだ田舎へと帰ったのだ。
その男の新しい恋人は女。本物の女を愛し始めた。

その女と籍を入れ、普通の会社員になるのだと。
青春の背中は影も作らず去って行った。

若かったあの頃。いい加減なフリをして、何気ないフリをして暮らしていた。

明日のことなんて知ったことじゃなかった。
若さを持て余して、世間には背を向けて。

雑に愛を扱った。時には乱暴に愛してみせた。そうでもしてないと世界が壊れてしまいそうで。

なにも言わずに、なにも言えずにただ黙ってそんな話を聞いていた。
話の最後に微笑んだママは少女だった。

帰ろうかな、まだ呑もうかな。
もう一杯だけ付き合ってと。
僕はママに、空のグラスを差し出した。

店を出る時、ケイコママは言った。
この店が私の故郷。この店が私の家、家族。この店が帰るべき場所。

なにかを燃やさない限り、火はつかないのだと。火をつけない限り、温まらないのだと。
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