とある夏の日

文字数 1,504文字

とある夏の日。

辺りはまだ明るいというのにお風呂に入った。湯船の中にあるこの心はやけに静かで。
ぽっかりと空いた1日はうたた寝を。浅い眠りの中にも夢を見て。

漣が染めゆく白い夏。
蝉時雨が溶けいくあの坂。
波音が水際の心臓に運ばれる。
黙り込んだ夜中の海。

まるで幻みたいだと天井を見上げ、目を閉じて呼んでみる。
時を旅すれば微かに蘇る。

濡れた髪のままTシャツで外へ出た。頬を触る柔らかい風。
玄関の戸が開く音。振り返れば父の姿。

座り込む僕の膝にグローブを置く父。
忘れかけていたグローブの匂いも、ボールの匂いも懐かしい。

分かり合えない日もあった。
衝突した日もあった。
言葉のドッチボールばかり。
はぐれた心は鬼ごっこばかり。
でも、キャッチボールなんて何年ぶりだろうか?

山なりに放物線を描いては胸元でおじぎする父の球は優しくて。
球の中に込められた声に耳をすませ、僕も何かを込めて投げ返す。
風に踊る前髪が乾いてしまったことに気づく。
僕が頭を下げなくとも、なにもかもを許してくれるような優しい時間が流れていることに気づく。
そんな夏の日の話。

「小さい頃は投げ返すので精一杯だったのにな。良い球投げれるようになったな」
無口な父がそう零して、微かに笑みを浮かべた。

僕が大学進学の為この田舎を立つ日、父は当時の仕事現場であった市民プールの片隅で、軽トラに持たれ昼休憩を取っていた。

自販機で買った冷たい缶コーヒーは汗をかいていた。作業服は飛び散ったコンクリートに汚れていた。吹かす煙草の煙が青い空に溶けて行った。

僕を見つけると親指を立てて、微かに微笑んだ。僕は思わず道路の脇に車を停め、父の元へ照れ臭そうに歩いて行った。

「行くのか?」
「うん」
「これで、ラーメンでも食え」
そう言って作業服のポケットからシワのついた千円札を取り出して僕に差し出した。
「ありがと」
「帰って来なくても良いから」
「えっ?」
「東京をお前の街にしてこい」
「……。」
「気をつけて行って来いよ」
「うん」

父は白髪が増えた。酒の量は減った。何故か小さく見えた。
なにかが変わっていた。

「母さん、元気にしてたか?」
「あぁ、元気すぎるくらいだ」

僕の知らない苦悩があっただろう。
父の知らない僕も居るだろう。
時間を埋めることが必要だろう。
投げ込むよ、あの日みたいに。

「どうだ、仕事は?」
「あぁ、まあ、なんとか」
「お前も忙しいだろうけど、たまには顔出せよ」
「えっ?」
「母さんが喜ぶから」

近頃、ふと思うことがある。
呆れるくらいに不器用な僕の優しさも。
不自然なくらいに伝わらない愛情表現も。
損ばかり踏んでしまうとこだって、父に似た。

「明日、祭りがあるんだぞ?」
「知ってるそれ。母さんが言ってから」

夏休みの終わりってなんでこんなに切なさに染まるのだろう? 
終わりかけた夏の日にどこから悲しさはやって来たのだろう?

僕は父に褒められたことはない。
でも父だって僕に褒められたことはない。
お互い様だ。

「俺が釣った魚で母さんがスープ作ったんだ。さっき味見したんだけど、良い味だ」
「うん、食べる」
「父さん」
「なんだ?」
「俺、結婚するわ」
「そうか」

なにもかもをひっくるめて短くまとめてしまえばただ一言。「この名前をくれてありがと」多分、あの人もとても気に入ってくれている。

「次帰る時は連れて来い。釣りでもしよう」
「あぁ......。」

貨物船を見下ろして、長い橋を渡る。
翌日僕は田舎を立ち、自分の街へ。
二日後、彼女に言った。会ってほしい人がいると。
三日後、なんでもないありふれた幸せ。
そんで四日後、父は死んだ。

「はっさくでも食べるか?」
「苦いの苦手なんだ俺」

僕の胸元で夏の匂いがする、優しいボールがグローブに収まった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み