雨の動物園

文字数 4,877文字

子供というのはどうしてこうも融通の利かない生き物なのだろうか? 『損』だとか『得』だとかはお構いなしに、目の前の『楽しい』だけが大事で。効率の良さや、都合の悪さなどには無頓着。
 朝から降り続く小雨はやむことを知らない。霧がかった近所の動物園はやけに静かだ。傘を肩にかけて、片方の手で子供と手を握る私は鼻先が冷たくなっていた。
 確かに約束はしていた。ただ、翌朝私を起こしたのは窓を叩く雨音だった。いつも通り朝食を作り、食べさせている間に説得して今日の動物園を中止にしてしまおうなんて考え、甘かった。大声で泣き叫び言うことを聞かない。床を手足でジタバタと叩くのだ。ドラマや漫画だけだと思ってたが、子供は自分の思い通りにならない時、本当に床をジタバタと叩く。
 大人気ない私も次第にヒートアップして声が大きくなる。子供に理由など話したところで納得するはずもないのに。結局折れたのは私の方だった。バスの時間もあり、テーブルの上に食べかけの朝食を残して、子供の頬についた甘い香りのする苺ジャムをティッシュで拭き取り直ぐ家を出た。
 握る小さい手が私をあちらこちら見当違いの方向へ引っ張る。気付かないうちに力が強くなっている。子供の成長は恐ろしいものがある。
 羽織るトレンチコートから雨の匂いがした。襟を直したとき微かに濡れていて私を憂鬱にさせる。それなのにレインコートを着せた子供はというと水溜りをあえて踏ん付けようとする。いったい何が楽しいのか理解に苦しむ。『雨に自分の身体が濡れてしまうと厄介』という概念、子供にはない。
 大きな池、並ぶフラミンゴの群れ。子供は明後日の方向を向いている。鮮やかな桃色の羽。人工的ではない、純粋な自然の力で作り出された色だとは思えない。大人になって久々に訪れた動物園は、子供の頃遠足で来た動物園と景色が違う。当然、見るところも感じるものも全く別物だった。
 猿山では猿が身体を寄せ合い、屋根になった岩陰で雨宿りをしている。雨の日の動物園ならではの光景。
「お尻にイボがある」
 大きな声で子供が一言。私も気付いていたが、あえて口に出すことでもないと思っている。どんな意図で発したのかおよそ見当がつかない。おそらく理由などない。思ったことが考えもなく口から出てしまうのだ。これが『素直な子供は残酷』な一面。
 私はジーンズのポケットで携帯電話が震えたことに気付いていた。誰からのメールか心当たりがあったが、ポケットから取り出すまでに時間が掛かった。今、そのメールを見たところで返信するのが面倒だし、返信できる状況でもないからだ。
 それでもどこかで気になり、しばらくして私は携帯電話を確認した。やはりメールは浩次からのものだった。
「仕事休みになった。家、来てもいいよ」
 メールにはそう書いてあった。私は返信しないまま、ポケットに携帯電話をしまった。『来てもいいよ』だなんて、浩次はそういう男だ。逆に言えば来なくてもいい訳で、『来てよ』とは絶対に言わない。「会おう」だとか「食事へ行こう」だとか誘う行為はしない。いつも選択権を私に持たす。だから浩次は傷つかない。断られることがないから。
「亮平、ちょっと、休憩しようか」
 園内を一通り廻ったのを見計らって、子供をベンチに座らせることにした。濡れた冷たいベンチをポケットティッシュで拭き取って、まず私が座り、私の隣に亮平が座る。屋根がないためふたり身体を寄せ合って、私が傘を差した。
「トラが水遊びしてた」
「そうね、トラさんはきっと雨が好きなんだ」
 あれには私もびっくりした。身体をまるめて雨宿りでもしているものだと思っていたから。サバンナあたりのスコールと勘違いでもしているのだろうか。あえて濡れにいく。水溜りへダイブしていた。
 それよりもびっくりしたのは亮平が意外と真面目に動物を見ていたこと。あれだけ行きたい、行きたいとダダをこねていたわりに、注意が散漫しており、じっくりとは動物を見ていないだろうと踏んでいたからだ。
「トラはたまごの匂いがした」
「そうね、トラは猫の仲間だから」
「仲間なの? じゃあ猫はトラを食べないの?」
「そういうことじゃなくて、同じ猫科の生き物で」
「ネコカ?」
 子供というのは言葉の裏側を読み取る能力が備わっていない。『仲間』という言葉が持つ意味をそのまま受け取ってしまう。トラと猫は友達だとでも思ったのだろうが、猫科と言っても理解出来るはずがない。種類の話をしたかったのだが子供でも解るように砕いて説明するのが私は苦手だ。
 それに猫がトラを食べるのではなく、トラが猫を食べてしまうのではないのか。単なる良い間違えなのか、本気で猫があの小さな身体で、トラを負かしてしまうほどの力を兼ね備えていると考えているのか、どちらかは分からない。
 ちなみに『たまご』というのは亮平が拾ってきた捨て猫のことだ。あれだけ家では飼えないと怒ったのだが、亮平は頑固で折れなかった。仕方なく家で面倒を見ることにした。たまごという名前は亮平がつけた。その由来は知らない。
 そんな他愛もない話をしている最中にも、頭の片隅では浩次から来たメールのことを考えている。今から動物園を出て、そのまま実家の母へ亮平を預ける。そうすれば浩次のアパートに行けないことはない。
 浩次は夫ではない。夫とは離婚した。よくある価値観の不一致というやつだ。だからといって恋人でもない。ただ、一線は越えている。他人に言わせれば歪な関係。だとしても、恋人には成り得ない、ましてや夫婦などもってのほか。
 有り得ないのだ。家庭という空間に浩次が混在していることなど。育児をしている姿を何故か見せることなど出来ないと思っている。家庭と浩次のことは全く別の頭で考えている。くっきりと境界線を引き、生活を使い分けているのだ。
「たまごもトラもお日様の匂いがする」
「雨の日なのに不思議ね」
 無邪気を絵に描いたような笑顔で亮平がそう言った時、私はどこか怖くなってしまった。『子供の感性』というものにはつくづく驚かされる。そこには混じり気なしの純粋な何かを感じてしまい、怖くなると同時に哀しくなる私もいる。
 そうこうしていると亮平はウトウトしてしまい、座ったまま寝てしまった。私が持っているこの傘を叩く雨粒の音はやけに眠気を誘う。私も子供の頃、雨を裂く車のワイパーの音で眠くなっていたことを思い出す。
 それにあれだけはしゃげば疲れて眠くもなるだろう。そんなことを思いながら目を閉じてうつむくその横顔を眺めていた。
 ついさっきまで、家に残してきた朝食の洗い物を思い憂鬱になっていたというのに。今だけは子育てというものが何物にも変えがたいほど愛おしく見えてくる。
 そんなものだ。私もこの子と同じく子供なのだ。都合が良い時は目の前のあなたを受け入れられるが、都合が悪くなると身体があなたを拒絶してしまうことがある。私も目の前の『楽しい』が一番大事な生き物。
明日からまた、慌しい1日が始まると思うとうんざりする。朝を起きて朝食を作って、亮平の支度を済ませて、保育園に連れて行く。スーパーでレジ打ちのパートを終わらせて、浩次の家に行く。浩次は夜勤だから、私が行ったらいつも布団の中で寝ている。私も同じ布団に入り寝る。時間が来たら保育園のお迎えに行く。その繰り返し。

「ねぇ、ねえってば」
「うん?」
「ねぇ、聞いてんの?」
「あ? 聞いてる」 
 浩次のアパートにて。お互い服や下着を布団の周りに脱ぎ散らかし裸で天井を見上げ、寝転がっている。時刻は十六時。こんな昼下がりになにしてんだろって、いつも萎えてしまう。
「あのさ、将来の夢なんだった?」
「将来? 俺、何歳だと思ってんだ? 今更、夢だのなんだのあるわけないだろ」
「違うわよ。子供の頃は夢とかあったでしょ、それなりに」
「宇宙飛行士」
「はっ?」
「だから、宇宙行くつもりだったんだ、漠然と。それもなんとなく行ける気がしてたんだ」
「馬鹿だね、相変わらず」
「そんなもんだろ、子供の頃の夢なんて」
「その夢、叶いそうですか?」
「叶うどころか、家と工事現場の行き来で一生が終わっちまいそうだよ。今だって、宇宙どころか、この布団から冷蔵庫の水取りに行くことすら面倒で躊躇ってんだぜ。この距離すらな、宇宙なんて到底行けっこない」
 そう言って笑って見せたその横顔は子供みたいで、それなのに子供とは縁遠い存在にも見えて、あなたの印象は極端な矛盾が生じている。
「なんか夢あったの?」
「えっ、私?」
「夢くらいあったろ?」
「まあ、それなりに」
「どんな夢?」
「大人になること」
「なんだ、それ。昔っから変わったヤツ」
「でも、そんな夢叶いっこないの。宇宙飛行士と同じ」
「全然、違うだろ」
「同じ、大人って宇宙くらい遠い存在。そもそも大人なんてこの世の中に存在しない生き物だから。子供の頃、想像していた大人ってヤツは幻だったんだ。意外と大人は子供で。子供のまま歳だけ取ったの、みんな」
「なんか、もういいや、お前の話ってなんか痛い、寝よ」
「目覚ましかけといてよ」
「あぁ」
 目覚ましが鳴ったら帰るから、汚れたり、つまづいたりの現実に。

 私は結局、雨の動物園で浩次からのメールを返すことはなかった。こくり、こくりと舟を漕いでいた亮平はしばらくすると静かに眼を醒ましこちらを向いた。そのタイミングで「帰ろうか」と私は一言つぶやく。すると亮平は小さく頷いた。
私は元旦那と別れる際、離婚届と共にある約束を突き付けた。あの子とはもう会わないで欲しいと。
元旦那は抵抗するでもなくすんなりとその条件を受け入れた。
理由としては亮平を戸惑わせたくなかった為だ。離婚は特殊な作業に思え子供には到底理解出来ないと考えた。
今思えば私はあの子を取られたくなかったのかもしれない。元旦那に懐いてしまい、パパと暮らしたいなんて言われた日には、立ち直れないし、留めることも出来ないだろうから。それって孤独だ。
亮平にはもうパパと会えないということをきちんと説明した。
誤魔化し、誤魔化しでやんわり少しずつパパの居ない生活に慣れ、自然な流れでパパとは会えないことを悟ってもらうことも出来た。しかしそれはしたくなかった。
私が亮平にもうパパと会えないときちんと説明することは言わば、私からあの子へのプロポーズに近いものだ。
とは言っても母と子、親子には結婚届もなければ離婚届もないが、ふたりで暮らしていくことを宣言したかったし、受け入れて欲しかった。きっと離れて欲しくなかった。
もうパパには会えないと亮平に説明すると、あの子は違和感を覚えたようにきょとんして、何も言わず小さく頷いた。
その日以来、亮平が元旦那の話を口にすることは一度もなかった。私が思う以上にあの子は大人だ。
元旦那と亮平が別れる日、亮平は誰に言われるでもなく折り紙の裏に大きかったり小さかったりする絵みたいな字でパパ宛の手紙を書いた。きっと最後になるであろう手紙を。
手紙にはこう書いてあった。

パパへ

あそんでくれてたのしかたよ

ありがとうね

パパすきよ

ありがとうね

りようへい

その手紙には「また遊ぼうね」とは書かれていなかった。「ありがとうね」と二回繰り返したのはきっと手紙の最後に「さようなら」とは書けなかった為だ。
私はふと思う。今まで抱かれたどんな男より、この子は素敵なのではないかと。

「今日の晩御飯何がいい?」
「ベーコンアスパラ」
「ベーコンアスパラ? アスパラベーコンじゃなくて?」
「アスパラベーコン」
「いっつもベーコンアスパラばっかり。本当、好きなのね」
「アスパラベーコン!」
「そうだったね。逆だったね」
「お名前なんてどっちでも良いの」
「ねぇ、亮平、将来の夢あるの?」
「動物病院の先生」
「えっ?」
「動物のお医者さんだよ」
「そうなんだ。亮平は動物大好きなんだ」
「うん」
 知らなかった。
 気付けば、雨は上がっていた。帰り道、バス停のベンチ。
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