口内炎

文字数 850文字

家を出たあの日。父は仕事だった。母は玄関先で見送ってくれた。笑顔で手を振る母。照れにも似た座り心地の悪い心のまま、大袈裟な荷物をぶら下げた私は、曲がり角を曲がる。

私を見送った後、母はおそらく誰も居ない家の中へ入り、薄暗い台所で皿でも洗っていたのでしょう。傘電球の下で、一番はじめに生まれた感情は何色だったのか?

都心にあるこの大学へ通うべき、ひとり暮らしをはじめ、なんとなく『大人』というやつに手をかけて、その感触を指で確かめています。

電気もつけないまま、畳の上に寝転がり丸くなり。散らかった部屋に嫌気がさし、メイクも服も手を抜き始めた自分を嫌いになりそうになり。

窓の外は雨が降っており、余計にこの部屋を薄暗くさせる。やけに静かなこの部屋に舞い込んでくるのは、表通りを走る車の音。

父が言った気がする、もっと慎重にって。母が言った気がする、もっと大胆にって。君が言ったきがする、もっと普通にって。くまのぬいぐるみが言った気がする、結局、中途半端だって。

口の奥で口内炎が痛む。舌で触れば沁みるくせに、また気になって触ってしまう。
ごはんを食べようとしたら口の奥で痛いくせに、それでもお腹がすいてしまう。
病院でもらった塗り薬は、口の中で溶けてしまった。

お節介すぎる母と、無口すぎる父に挟まれ、ぶきっちょすぎる私が育った。心配性すぎる君を好きになって、ジグザグして、デコボコした関係を築いて。

君と話をしたのは何日前の出来事だろうか? ひとりで勝手に一喜一憂して、この地球は一ミリも動いていないのに。
それでもこの部屋から何かを放とうとしています。それはおそらく言葉で。それはおそらく行動で。それはおそらく形ないもので。それはおそらく地図であり、未来図であり。でも、それが何かは分かっていない。

バンドでベースをしている君を真似てギターでもしてみようかと、ぶきっちょな手を見た。深爪しすぎた爪を見た。雨はやみそうもないな。それでもレトルト食品でお腹を満たそう。

今、私は、口内炎みたいな恋をしています。
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