野良猫の煙草と、またたびと、金木犀

文字数 1,853文字

鼻にまとわりつく風を裂いて、
拍子抜けの速度で坂を下る。
アイツのくれた錆び付いた自転車にまたがり、海沿いの駅へと続く枝分かれした細い坂を。

暇を持て余し、時間を無駄に食べ、夢は書きかけのまま部屋に転がっている。

なんの為に生きているのか? 疑問を持つ頭もないまま今日も一日が暮れる。

火伏せの観音から港を見下ろして、煙草を吹かした。

猫の細道は今日も野良猫達のたまり場となる。三毛猫は欠伸をして、白猫は顔を洗う。人間慣れした野良猫の日常はやけに生温い。

野良猫の中に、生意気で可愛気のない見慣れた毛並みを捜す。「今日は顔を出さないか。気まぐれな奴だな」なんて立ち去ろうとした時やって来た。

あの猫に『鯖』という名前をつけている。名前通り毛柄が鯖の背中に似ているからだ。
澄ました顔でこちらを眺め、お上品に口を開け、微かな声でひとつ鳴く。日の光に映える黒白の毛をなびかせて。

奴は群れない。独りを愛する猫。面倒な友達付き合いを切り捨てて生きてきたのか? それとも友達が居ないだけなのか? どこか影があり、無機質な表情には悲しみを見つけ。

独りを愛する猫。いや、違う。独りに愛された猫。まったく。僕と似た猫だ。

「やるよ。食え」

駅前で買った揚げたてのコロッケをひとかけらアスファルトに落とす。そっぽを向き、目を閉じて、民家の隙間に消えて行った。

「可愛くねぇな、ほんと。気まぐれな奴だ」

そんな所も僕と似ている。
多分、僕は野良猫だ。
駅に程近い商店街にある大衆食堂でアイツは働いている。歳は三十を回り、僕より十以上年上だ。『酸い』から『甘い』まで、『痛々しい失敗』までも一通り経験して、やけに落ち着いている女。

彼女はダンボールの中で昼寝していた捨て猫みたいな僕を拾って飼うことにした。僕は大学にもロクに通わず、彼女の家で暮らしている。

縁側には金木犀の香りと、煙草の煙。この空間は僕のお気に入り。台所では包丁の鈍い音を立てる彼女の背中。

「食べるでしょ? すもも」 
「まあね」
「まあねってどっち?」

丸くてツルツルしたお盆に乗せ、すももが縁側へと運ばれてきた。僕は寝転がったまま甘酸っぱいすももを頬張った。

「お風呂入るでしょ? 沸かしてあるから」
「気が向いたら」

彼女はそう言う僕の前髪を掻き分け、冷たい手で撫でた。
「いっしょに入る?」

 彼女の指先は甘いすももの匂いがした。

「大学行かなくて良いの?」
「別に、行かない」

ふたりで浸かるには狭く感じる湯船の中で彼女が僕に話し掛ける。僕は曖昧な言葉だけを返しては上の空。
「せめてさ、小説書いたら?」
「そんな気分じゃない」

浴槽の上にある電気はお月様に見える。
僕は気がつけば大学四年生。卒業を間近に控えていた。作家になるという夢を捨てきれず、就職活動もしないまま。野良猫みたく気ままに生きているフリをして。

彼女の錆び付いた自転車にまたがっていた。鯖に会いに行くためだ。猫の群れに鯖は居ない。少し距離を取った場所。寒すぎず、暖かすぎず、生温い場所。

久しぶりに見たアイツは独りじゃなかった。

「お前、女が出来たのか?」

綺麗な顔をした黒猫に寄り添う鯖の姿があった。僕の顔を眺め、別れの言葉を告げるかの様に細く長く鳴き、黒猫と共に港へ向けて歩き出した。

鯖の瞳は澄んでいた。「百年生きた末路、ようやく居場所を見つけた」そう言った。

僕は縁側に飽きてしまった。金木犀の香りも、煙草の煙も、僕を癒すことは出来なくなったみたいだ。

エンジン音と共に庭先に軽トラを止め、運転席の窓を開ける彼女。

「ちょっと運ぶの手伝って」

荷台には色褪せた風呂敷に包まれた大きな荷物。

「なんだよこれ?」

持ち上げるにも力がいるその荷物を持ち上げ玄関をまたぐ。

「ミシン」
「ミシン、なんでまた?」
「おばあちゃんから譲り受けてきたの、趣味にしようと思って、とりあえず廊下に置いといて」

やっとの思いで廊下まで運び終えると、縁側に寝そべり煙草に火をつけた。

「それにしてもこんな大きなミシンどこに置くつもりだよ?」
「あなたの部屋よ」
「えっ?」
「あなたもずっとここに居る訳じゃないでしょ? この家出てったらあなたの部屋すっからかん、なにより時間持て余しちゃうでしょ? 趣味でも作らなきゃ」

ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。寂しげな背中へ呪文の様になんども唱えた。

所詮、野良猫は野良猫。飼い猫にはならない。気まぐれな猫は旅に出ることにした。寒すぎず、暖かすぎない、生温い場所を探して。

金木犀の花弁は風に散り行き、地面に敷かれていた。
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