’染井吉野’ 

文字数 4,984文字

「ねぇ、知ってる?」

 痩せた川を繋ぐ短い橋へ、不意に立ち止まる。

「ソメイヨシノってクローンなんだよ。種からは生まれない。挿し木じゃないと増えていかないんだよ」

 頭上で咲いては散り、水へ浮かべては流れる。

「やけに詳しいんだな」

「本を読む時間だけはあるからね」

 静かに舞い上がるこの想い、比喩すればそれこそ春にあたるのだと思う。

 話はいつかの夜に遡る。真夜中の雑踏へ紛れるのが好きだった。誰もが僕を知らない人群は、僕を透明人間にして突き抜ける。無関心な他人でいれることが有難かった。

 陽が暮れると高校の学生寮を抜け出し、途方もなく長い夜を凌ぐ。無気力な夜はとにかく胸をからっぽにさせた。

 いつからだろう。宛先のない電話に話しかける癖がついたのは。電話ボックスへ入りデタラメにダイヤルを押し「この番号は現在使われておりません」の機械音声に話しかける。人目についても独り言とならず、声が漏れることもなく、誰の耳にも届かない。夜の街においてそんな条件を兼ね備えている唯一の場所と言って良かった。

 気がつけば無意識にダイヤルを押している。深く沈む小銭に、溢れ出すコール音、灯りを灯した数字の光がぼぉっと浮かぶ。その瞬間、なにかが始まる予感がした。



「もしもーし。どなたですかー? というかどなたにご用ですか? こんな夜中になにかありましたか?」

 その声に確かな体温と、呼吸の音が溢れ出した。からっぽの僕も生きていることに気づかされる。

「ただの間違い電話です。ごめんなさい」

「ちょっと待って。ちょっと……待ってくれませんか? 少しだけお話しませんか?」

 これがイニシャルも知らない君との出逢いだった。迷惑電話と間違え電話の狭間で戸惑う僕は空回る。全てを察したように先回る君に包まれる。

「ちょうど話し相手が欲しかったところなの。明日のこの時間、この電話で会おう」

 孤島から眺める水平線で小舟が放つモールス信号の光。君の声は、言葉は確かな光となり浮かび上がり、灯りとして温かく漂っていた。

「間違え電話なら、間違えじゃなくなるように番号教えておくね」

 夏の魔物のように膨らんでた、怪物みたいな孤独を呑んだ。自分という生き物は何者なのか、その存在すら説明できない。思春期なんて世紀末だ。青春なんて造花だ、テンプレだ。くだらないやと、この世界を憎む。ただ夜が降る度に、名も知らない君との電話だけを募らせた。

「なんか不思議だね。私達会ったことないなんて。ほんと変わってる、この関係。出逢いからなにまで。私が居る場所も、顔すらも知らない関係」

「君が居る場所からは、なにが見える?」

「そうだなー。えっとね、なんかの木に、坂道のカーブミラー、水平線の貨物船、それに眼鏡カエル」

「眼鏡カエルってなんだ?」

 サイダーの売り切れランプに、渡り廊下の空へ、宇宙ほど遠い君を描いてる。僕が生成色なら、君は色彩調和だから。

 君も見てるだろうか? 真新しい朝を。人波の中へ、電車のドアが開く、澄み切った朝を。

 きっと、全てを跨いだ朝を。

 よく言う赤い色した糸を手繰り寄せて、世界の端っこまで糸電話にして、僕等の声が繋がれば良いな。なぁ、話をしよう。小銭を投げ入れ、受話器を握り締める。

「まだ、私の名前を教えてなかったね。呼び合えないのも不便だから教えとくね。そうだな、アイって呼んで」

「アイ? か。アイはさ、子供の頃、七夕の笹どうしてた?」

「どうしてたって、どうもしてないかな。願い事のない子供だったから。短冊すら書いてない」

「なんだ、冷めてんだな。俺は親父に近所の海へ連れて行かれてさ、桟橋から笹を投げ入れるんだ。灯台の灯りをたよりに流れてゆくのを見送ってさ」

 小銭が溶けて、電話が切れて、世界に独りだけみたいな朝が降って。化け物みたいな入道雲の下で、防波堤へカルピス置いて、段ボールの中覗き込んだんだ。連れて帰った猫抱き上げて、似た物どうし寄り添って、得体の知れない透明な怪物を慰めた。舞い上がった想いはまた、電話ボックスに収まるんだ。

「ねぇ、プラナリアって知ってる?」

「なんだよ、それ。花の名前か?」

「生き物だよ、ウズムシの。身体がみっつに切れても、頭から尻尾が生えて、尻尾からは頭が生えて、お腹からは頭と尻尾が生えるんだ?」

「どゆこと? 再生能力ってやつか?」

「それで三匹に増えるんだけど、増えた二匹は、元の一匹の記憶を受け継ぐの」

「そんな訳、ねーだろ? だって元の脳ミソはひとつだ」

「いや、細胞が覚えているっていう研究があるの」

 有刺鉄線の向こうへ。欠け始めた満月は水面に溶けて、水は張られたばかりで。真新しい真夜中のプールで、プールサイドに猫を待たせて、夏へ潜り込んだんだ。走り出したいくせに、留まり続けたいくせに、なにかが終わりそうな夏を見てる。溶けてゆくように電話の夜を重ねて。

「ねぇ、世界の終わり。最後の一日になにして過ごす?」

「なんだよ、急に。変わってるな、アイは」

「だって、今日がそうかもしれないじゃん。世界征服でもしてみる?」

「明日終わる世界を征服してどうすんだよ?」

「よし、決めた。それじゃあ世界最後の日に、世界最後の日なにをするか君と考える」

 その時、小銭は溶けて、機械音は生まれ、電話は切れたんだ。たよりなく点滅する常夜灯を滲ませていた。手のひらですくいあげた時は、指をすり抜けて零れてゆく。

 君の嘘は、ラムネの味がする。甘い香りがするけれど、何故か潔く。

 君のなつっこい声は、プールの匂いがした。どこか懐かしくそれでいて真新しい。

 白紙の空に残された、飛行機雲のように消えゆく夏の日。

 僕が一線を越えた時この世界は何色に染まるだろう。畦道のくだらない話は自転車の上で跳ねる。カゴには淋しささえも乗せてる。
   
 想像が追い越してしまうから、現実はついて行くのに精一杯だ。

 待ち合わせ場所も、約束もないままに待てるほど、未来の僕も強くない。

 言葉は明白だ、想いは透明だ。世界最後の日、悪い予感には気づかないふりをした。ダイヤルを押し込み、受話器を取る。胸騒ぎを閉じ込めて君の声を待った。

「はぁ? なんだ、うるせーな。この電話鳴ることあるんだな。こんな夜中に、驚かせるな。もう閉まってんだよ」

「あ、あの、アイさんは?」

「はあ? 誰だお前? だいたいこの電話にかけてくんのも、おかしいだろ。迷惑電話しやがって。二度とかけてくんな」

 この日以降、僕は電話ボックスに入ることも、電話をかけることもなくなった。名前も住所も知らない僕等を繋ぐ細い糸はあまりにももろかった。

 今更なこと悔やんでも仕方ないし、錆びた階段駆け上がった。かったるいよ、名曲なんて。白塗りの壁にもたれて君を探した。下暗し、なにも見えてなかった。夏の灯台だ。

 答えなんてはじめからない。白紙ほど真新しい君。入道雲の妄想、走り出した空想、木漏れ日に浮かぶ幻想。図書室の香りを嗅ぐだけで、風が吹くように舞い上がる。青嵐吹き荒れれば、言の葉が飛び交うよ。処女作が盗まれた。この世界を憎む。

 宛先も空白のままで、無意識のままで、メールを打っている。気がつけば心が形になっていて、送信もないままに下書き保存されている。消化不良のまま、下書きボックスに積み重なり、収まっていた。

 ボイジャーは太陽系外を越え、存在すら知られていない未知の探査を続けている。訪れた幾つもの惑星で、想像をはるかに超える姿を映し出しながら。 何億光年先を進む途方もない旅だ。音や温度すらもない孤独な旅だ。その先で一筋の光が走った。いつかどこかで見た、懐かしい光だった。優しい光だった。

 夢を見ていた。ひりひりと身体が熱くなっていた。胸がジーンと締め付けられ、鼓動が速い。薄らと額に汗が滲んでいた。閑散とした駅から漏れる真っ白な光を、終電の座席で浴びる。真夜中なはずなのに、その光はいつかの真新しい朝へ続いていた。



 とにかくからっぽだった。いつの間にか三十を越え、老いてゆく自分を想うとからっぽになる。どうでもいいや。なんでもないさ。あの日の想いは冷めきっていた。疲労困憊した身体はおそらく限界だった。取り憑かれたように仕事へ明け暮れた。なにかを追い越すために。いや、なにかから逃げるように。気がついた時には抜け殻だった。妻は愛想尽かして家を出た。鏡に映る男の顔は酷いもんだった。真夜中に彷徨う僕は不眠症。侮辱や軽蔑に何も感じれない無痛症。

 散々な日々を照らし出す、燦然と輝き続ける。ネオンに見下されて、紛れも混ざりも出来ず夜に沈んでゆく。代わり代わり語りかける、浄化されない光達よ。大衆へ呑み込まれてゆく感情で、代償だけが擦り抜けていった。ただ、溶けてゆく。

 先日は乾いた風を呑み込んで、なんだか吸い込まれたんだ、寒色の街で。輸血を待つ誰かの血液バンクだって。針を刺した途端、管に赤い血が昇る。そういえば僕は生きていたんだと確かめるように、なんだか鼓動の音へ耳をすませた。何故に生きてるんだっけ? 何故に生きられないんだっけ?

 そんなこと思い出してたら無性に街を見渡したくなって、駆け上がったんだ、廃虚ビルの屋上へ。金網の向こうへ、街に星を沈めたように光が敷き詰められている。汚れもするくせに、哀しいほど綺麗だ。

 いつぶりかすら思い出せないほどだけど、ようやく僕は泪を流せた。それこそ何億光年の深い眠りから静かに目覚めた気がした。

「気づかれましたか? い、意識を取り戻しました。分かりますか?」

 真っ白な天井を仰向けのまま仰ぐ。

「覚えてないのですか? ビルへ忍び込んで、屋上から飛び降りたんですよ。何日も意識を失っていましたが、奇跡的に助かったんです」

 重苦しい身体を引きずり病室を抜け出し、翳った廊下へ出たんだ。床に陽が零れる窓辺から見上げれば、風に乗せて桃色の空が散らしていた。季節外れの海は光を粒にして浮かべている。蛇のように痩せた坂道が花に埋もれてゆく。滑らかなカーブの先でカーブミラーが映し出していた。

 この光景、見た事がある。いや、聞いた事がある。遥か遠い記憶が、今、鮮明に蘇ってゆく。売店に置かれているカエルの置物は色褪せていた。眼鏡をかけたままで。

 いつかの数字が浮かび上がり、羅列されてゆく。手元で形にすると、君の鼓動を確かめるように耳へあてる。途端にけたたましいベルが鳴り響く。
 あまり知られていないが、病院などに置かれている公衆電話はそれぞれに番号が割り振られており、かけようと思えば電話をかけられるようになっている。ベルの音を聞きつけて駆け寄る看護師さんは、携帯電話を耳にあてる僕を見つけて立ち止まる。想いに耽るように、呆れるように言った。

「もう十年以上前になるかな。夜になるとね、その公衆電話に電話がかかるの。この廊下で待ち構えて、その電話を取っていた子が居てね」

「その子は?」

「当時はうちに入院してたんだけどね、病院を移っちゃって」

 記憶は新たな産声を聞き、動き始めた。



 どうして季節外れの海だったのだろう?

 どうしてイニシャルも知らない君だったのだろう?

 今、鍵盤を弾くように、あの日の岸辺へ駆けてゆく。

「私が居る場所も名前だって知られちゃいけなかった。だって明日、この世界から私は居なくなってるかもしれなかったから」

「世界最後の日か。アイっていうのも偽名か?」

「うん。アイってのも愛じゃなくて、英語のeyeからきてる」

 海原を越える渡り鳥を追う、その瞳は優しかった。

「病室に隔離されてたからさ、外の世界を知らなくて。君と唯一繋がってた。ずっとすがってたの。君は光の形をしてた」

 送ることも出来ず下書きボックスへ募らせた。宛名のないメールも短冊としてぶら下げ、天の川もかかってはいない空の下で渚に託すよ。

「まさかこうしてここへ辿り着けるなんて、思ってなかったの。適合する輸血を待ってた」

 微力であるが、無力でない。終わり続けることで産み落とされる。舞い上がった想い、桃色の破片へ、ただ風を待った。青い時代の先で、白い砂の上へ、だた降れ。翼なんていらない。不遇さえも輝き、追憶すらも瞬き、もう、離さない。ソメイヨシノ。

「誰かの想いを、記憶を、流れる血液の細胞が覚えてるよ」

「えっ?」

 君の心はクローンとなって、僕のもとへ伝染して咲く。
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