雨の声、駅の色

文字数 1,926文字

「まもなく電車が出発します。この電車は八本松駅を出発して……。」 
 悲鳴の様な地鳴りを響かせ、電車が僕の心臓を突き抜ける。その後に残された一瞬の静寂は訳などないがいつも胸を締めつけた。
 改札口には独特の匂いと、足元からの生温い風が流れていた。通りすぎる足取りは早く、誰もが急いでいた。
 畳まれた傘は雫を垂らし濡れている。こんな朝は駅に人が多い。外で降り続く雨を思うと憂鬱になった。
  両替機にお札を何度も入れるが、機械音と共に吐き出される。両替が出来ないその背中を、ただぼんやりと見ていた。あの制服は僕と同じ高校の生徒だ。
「あっ」
 僕は君の背中から取り出した千円札を突っ込む。足元で小銭が零れ落ちる乾いた音がした。振り返る驚いた君の瞳。
「ありがとう……。」
「あぁ」
 これが君との出逢いだった。
「私の千円札シワがついてて。それじゃあこの小銭は貰うね。代わりにこの千円札を」
 窓の外で高さを変え流れる電線。雨の世界は夢から目醒め、街は少しずつ廻り始めていた。真新しい朝が降る。
 窮屈に感じる座席で膝に乗せたノートが揺れている。堪えるように指を唇に当て、君は小さく笑った。そこには線を跨ぐ優しい丸文字が、遠慮がちに咲くように溢れる。騒がしい車内、僕等はいつも筆談で会話を交わした。耳を済ませる頼りない糸電話みたいで、ありふれた会話も僕等だけの言葉に思えた。シャーペンが走る感触を隣で感じていた。
 雨の日に君は自転車通学でなく、電車通学を選ぶ。気が付けば僕は毎朝天気予報を確認するくらいに雨が好きになっていた。君を連れて来る恵の雨だった。
 その日も雨だった。吊革を持つ人もよろけるくらい、電車は大袈裟に揺れた。筆箱から溢れ出したペンが幾つも床に零れ落ちた。
「すみません」
 ノートを君に預け、僕は慌てて拾い集める。落ち着いたところで筆箱を眺めた。
「チャックが壊れたみたいだ」
「これでシャーペンまとめて」
 細い手首から青いヘアゴムを抜き取り僕へ差し出す。電車から降りればいつも、君はその長い髪を後ろでひとつに結えていた。
「あ、ありがと……。」
 そのヘアゴムを遠慮がちに握り締めたところで、扉が開き人が流れ始める。けたたましく軋む車輪の声を残し、僕等を置き去りに電車が突き抜けた。
 改札を潜ればそこには君の声を掻き消す雨の駅前が用意されていて、夢から醒めるようにビニール傘を差す。
 翌日、授業を抜け出し渡り廊下を跨く。滅多に来ない隣の校舎を歩いていた。チャイムと同時に騒がしくなる教室へと入る。
 周りを見渡すが当然のように知らない顔ばかりだ。窓際で机に座り雑談をする生徒に声を掛けた。
「ごめん。四組の水島あおいさん居る?」
「はっ、水島? アイツなら当分学校に来てないぞ」
「えっ?」
「もしかして水島に惚れてんのか? アイツならやめとけ。援交してるらしいぞ」
「おじさん相手にお金を稼いでるの。気持ち悪いよね。あの子、先輩にも色目使ってるんだから」
 唖然とする生徒達を尻目に、僕は走り出していた。結局、今も尚心に雨が降り続いている。
「どうしてここが分かったの?」
「保健室の先生に聞いたんだ。ここに閉じ籠って時間潰してるって。きっと、保健室登校してるんじゃないかと思ったからさ」
「お喋りなんだから。きっと君だからここに居ることを教えたのね」
 そこは宿直室として使われていた部屋で、今は倉庫となっている。埃を被った段ボール箱に埋もれる君が居た。天体望遠鏡が雨の流星を観測していた。
「今日は行けるんじゃないか。毎朝そう思う。でもね学校に近づく程弱気になるんだ。私ね、変な噂が広まって陰で悪口言われてるの。だからね、ずっとあなたにすがってた。なにも知らないあなたが私の気持ちを守っててくれたんだ」
 窓の外で萎んだゴムボールが地面にへばりついている。季節外れの桜の木に光の粒が跳ねていた。グランドの片隅にある足洗い場では、空を向いた蛇口から水が噴き出ている。この狭く薄暗い部屋とはまるで別世界に思えた。
「行こう」
「えっ?」
 僕は君の腕を掴みこの部屋を飛び出した。驚く君を連れて階段を駆け下りる。商店街を駆け抜けて、アーケードを越えて雨を浴びに行く。
「この電車、帰り道とは逆の便だよ?」
「あぁ、知ってる」
 そして、辿り着いた駅。
「どこ行くの?」
「誰も僕等を知らない場所」
「どうしてそんなに優しくしてくれるの?」
「あのさ……。」
 彼女は言った。いつも何かが壊れてしまう予感があると。僕は考えていた。どれくらいの強さで、温度で、君の手を握ろうかと。
 僕はノートへたった三文字を書く為にシャーペンを走らせた。この世界で生まれ変われるように。
「えっ?」
 君の濡れた髪を青いヘアゴムで結える。
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