ホテルサーヴァント 家出少女

文字数 4,564文字

 私の人生、どこで間違えたのだろうか? やっぱり十六の秋だろうか? それとも八歳の頃か? いや、たった今、十八歳なのか?
 私の人生、何処まで堕ちていくのだろうか? ここは底なのだろうか? もっと深くまで続いているのだろうか? 上がり方すら分からなくなってる。
 私の人生、やり直すのならどこから? きっと生まれた時点から。ただ、やり直したとしたって同じこと。どうせ此処へ辿り着くだろう。
 メイン通りからひとつ離れた、ドブ川沿いの古びたホテル。天井にはプラネタリウムの安い演出。作り物の空に、偽物の星。壁の鏡に映った知らない顔、これが私。
 コンビニ飯って、確かに美味しい。そりゃそうだ、商品戦略の賜物。きっと簡単に買えて、簡単に満足出来る様に作られている。だけど、なんだろう? 温度がないというのか食べ終えた後、一瞬、虚しさが吹き抜けるのは。それでも抜け出せないのは、やっぱり美味しいから。それにコンビニ飯しか思いつかないからだ。
 ここは眠らない街。それぞれの思惑と欲望が渦巻く、人間交差点。今夜だけを生きる歓楽街で。
 今日もいつもの様にコンビニで夕食を買った。街の片隅に座り込み、食べていたところ、あの人に声を掛けられ、そのままふたりでホテルへ。
 イニシャルすら知らないあの人の、背広は壁に掛けられてある。シャツやネクタイは床に転がっている。
 いったい彼はどんな経緯でこの通りへ? きっと大した考えもなく、軽い気持ちで遊びに来たという類。この街にどっぷり足を突っ込んだ私とは大きな違い。
 淡い桃色のライトがほんのり照らす浴槽で、ふたりして向かい合わせで湯に浸かればやけに静かで、一時の安らぎを手に入れたみたいだ。毎度繰り返される生々しい現実は遠い向こうへ、そんな感じ。
 浴槽のふちに置かれたミネラルウォーターを含んで、彼に擦り寄りその口へ移した。私の口元からは一筋の水が零れだしていた。
 すると彼は、驚くでもなくただ、にやりとひとつ笑っていた。私が口移しで含ませた水は、彼の喉を通っていくのが見て分かった。 
 壁についた水滴を私は眺めた。なんだか無心になって見てられるこの風景。現実離れした場所をいつでも探して、さ迷っているだけのこの脳には意思がないみたいだ。
 私は一八、いわゆる未成年。よって夜の仕事は出来ない年頃。それでもこの街には、私みたいな若い娘の需要がある。
 この通りをひとりで歩いていると、決まって誰かに声を掛けられる。その知らない誰かに宿や食事、時にはお金を頂戴して、その日、その日をやり過ごすような生活を重ねている。
 それと引き換えに私は何かを失っていく。それは眼では減り具合が確認出来ない物。それはきっと同い年の誰かさんなら必ず持っている物で、大事にしている物。寂しくないようやり過ごす為に、今日も少しだけ失っていく。
「お前未成年だよな? こんなことしてて良いのか? まあ、俺もたった今いけないことしてんだけどね。もったいないだろ? お前にあって、俺にない唯一の物。それは若さだ。その若さを無駄にしてるだなんて、要らないんだったら俺にくれよ」
「......。」
「まあその若さ、どう使って良いのか分からないって顔してるな。こう使うしか思いつかないんだろ? 使ってるだけまだマシだな」
「ねぇ、殺してよ」
「はぁ? 何言ってんだお前」
「だから、殺してよ」
「嫌に決まってんだろ? 何でお前の為に一生刑務所で過ごさねぇといけないんだよ」
「だって、どっちみち、あなた今いけないことしてるじゃん」
「馬鹿言うんじゃねぇよ。それと殺人じゃあ、罪の重さが違いすぎる。それにな、人を殺したら必ず捕まる」
「つまらない」
「つまらないよ」
「え?」
「大人なんてつまらない生き物なんだよ。俺とお前じゃ背負っている物が違いすぎる。失う物がないお前とは訳が違うんだ。だから俺なんてつまらないんだよ。だからこうして遊んでんだろ?」
「怖いんでしょ? 人を殺すのが」
「怖くないのか? 殺されるのが」
「怖くないよ、命なんて要らないから」
「お前って、とことん暗い奴だな」
 ここ最近、上手に自分の感情をコントロール出来なくなっている。さっきまで、とてつもなく癒されていたと思ったら、今度はたちまちこの世界に絶望してしまったりして。なんだか私の中に、私がもうひとり居るみたいだ。
 こんな時、本当にどうでも良いようなことを考え込んでしまう。例えば、この部屋に私が入るひとつ前、どんな人が泊まっていたのだろうかって。誰と誰が、どんな経緯で、どんな言葉を交わしていたのか。どんな物語があったのだろうかなんて。
 私がこの部屋に入った時点で、他の客が使っていた形跡、気配は一切消されている。そこには一切の余韻がない。もしかしたら、三十分前まで、誰かが居たかもしれないのに。
 何日も同じ服を着ていることに慣れてしまった私が怖い。まるで排水溝に溜まった髪の毛みたいだ。溜まってしまっても困らないから、掃除なんてしない。そんな日々を積み重ねて。
 こんなはずじゃなかった私。小学生の頃はごく普通の女の子だったはず。特技は縄跳び。好きな食べ物は黄粉餅。目立つタイプではなかったけど、友達もそれなりに居て、人望もあったはず。
 でもこの頃からだったはず。姉との格差を感じる様になったのは。姉はとびっきり美人って訳でもないし、勉強がクラスで一番だった訳でもない。私と出来はほとんど変わらないはずなのに、両親が愛したのは姉だけだった。
 姉の誕生日には親から水玉模様の自転車が贈られた。私の誕生日には裸の現金五千円。私が公園で遊んでいるのを見計らって、父と母、姉の三人で外食へ出かけていた。
 姉が持たされる弁当は卵焼きにウインナー、ブロッコリー、黄色のふりかけ。絵に描いたような愛情たっぷりの弁当。私が持たされる弁当は昨日の夕食の残り、揚げ過ぎた失敗作のから揚げ。
 次第に家族の会話も父と母と姉で廻るようになり、私が家で言葉を発することはなくなってしまった。
 挙句の果てには年賀状も父の名前の横に母と姉の名前。私の名前は書かずに送っていた。
 中学になると、母親は三人分のみ夕食を作る様になった。私はというと玄関先に毎日置かれている千円札を使い、コンビニで夕食を買う日々。
 私が家へ帰り、リビングへ入ると、あれだけ盛り上がっていた食卓は静まり帰る。私に視線を合わさぬ様にうつむいている。だから私は玄関先の千円を握り締めて家を出て、ひとり公園で時間を潰し、家族皆が寝静まるのを見計らって帰る様になった。
 久々に見かけたひとつ上の姉が着ていた真っ赤なコートがなんだか無償に羨ましく思えたのを今でも憶えている。何故、あんなにも輝いて見えたのだろうか。
 高校の進学希望届けも、保護者の名前欄を自分で書いた。少し字を変えてこっそり引っ張り出した判子で印を押した。お金の掛からない公立の学校を選んで、バイトで誤魔化し、誤魔化ししのいでいた。
 その日、何年かぶりに意を決して両親へ声を掛けた。
「教材費と、体験学習の宿泊費なんだけど」
 最大限の勇気を振り絞り、そう小さい声で言った。
「......。」
 私の声が聞こえているにも関わらず反応がない父。
「それでさ、昨日のことなんだけど」
 構わず話を続ける母。
「透明人間が喋るな」
 背中を向けて姉がそう言った。
 私は、急いで階段を駆け上がり、自分の部屋へ非難した。
 心臓の方で、何かがぷつぷつと弾けているのが分かった、それは血の様にぽとぽとと零れ落ち、水溜りを作っていく。
 いったい、私と姉は何が違うのか? 何もかも似たような物なはず。何故姉だけが愛されているのか? 何故だ? 何故だ? 何故だ?
とうとう私の何かが爆発した。これほどまでの衝撃が私を動かした。姉の部屋へ入ると、姉の洋服とメイク道具を入る限り鞄へ詰め込んだ。最後にあの赤いコートを羽織った。そして走り出した。玄関のドアを蹴り開けて。
 公衆トイレで制服を脱ぎ捨て、姉の服を身に纏った。そのままトイレの鏡で見よう見真似、初めての化粧。あの薄汚れた場所で私は魔法に掛けられた。
 抑制されていた私が手に入れた自由。その反動に身を任せ、踏み入れた歓楽街。その夜にたまたま声を掛けてきた知らないおじさんが初めての人。あまりの衝撃に吐き気がした。
 しかし、与えてくれた食事やホテルお金、それにダイエット効果があるというお香。現実が霞んで、遠い彼方へ消えて行く様だった。
 その瞬間、知ることのなかった世界に片足を踏み入れて、そのまま浸かってしまうだろうと予感した。私は不登校、退学と歩を進め、見事、家出非行少女の出来上がり。
 そんな生活が気付かぬうちに蝕んだ身体と心。気付かないふりをして汚れていった、十八歳の現実、知らない男とホテルの浴槽。
 そんな私の汚れた身体を、頭からつま先までバスタオルで拭き取る彼。そのまま担がれ、ベットまで運ばれた私。もう一度彼と交わった。
 彼との一時は夢物語、メルヘンチックな絵本の世界。まるで幼い頃、ただ一度だけ両親に連れて行ってもらったことのあるシロクマパークを思い出す。
 あの薄暗い世界を照らし出した回転木馬と同じ感覚で、彼に抱かれている。観覧車から見下ろした光を浮かべていた。
 ことが終わると、二人並んで天井を見上げ、彼が煙草の煙をプラネタリウムの星を目掛けて吹きかける。星には届かず、宙に浮かんで消えていくだけだった。
「お前、本当に馬鹿なんだな。いつだって抜け出せるんだよ、今の現実から。方法なんてな、実はいくらでもあるんだ。何故気付かない?」
「だから、言ったでしょ? もう生きること自体に興味が無いんだって。だから抜け出すだとか、そんなこと自体どうでも良いことなんだ」
「なんで、私だけこうなの? 他の誰かと何が違うの? なんて思ってんだろ? 確かに違うな、お前は明確に他の誰かと違う」
「だったら、殺してよ」
「お前はな、なんで私だけ運悪く愛されないの? じゃなくて、本当はこんな私なんかどうせ駄目だろうって決めつけて生きてきたんだろ?」
 彼は起き上がって、シャツやネクタイを拾い始める。
「他の娘と、本当はさほど差はないのに、こんな私なんか、どうせ駄目だろうって思ってるから、駄目になってしまったんだ」
「殺して、もういい、死ぬから、殺して、殺して」
 ネクタイを締めて、最後に背広を羽織った。
「俺、帰るわ。今日さガキの参観日なんだ。金は置いていく」
「私、死ぬから今から」
「あっ、そうそう、言い忘れてた。お前の望み通り、死ねるかもよ。良かったな。だって俺、エイズだから」
「えっ?」
「お前ってさ、死ぬのが怖いんじゃなくて、生きるのが怖いんだろ。俺と同じだな、じゃあな」
 そう言って扉を閉めた。
 気がつけばもうすぐ朝で、窓の外は明るくなりつつあった。
 魔法は解けた。
テーブルの上に置かれたメモ用紙の一番上に認めた殴り書きの言葉。もしかしたら、これは遺書になるかもしれないと一番上だけ破り、丸めて捨てた。
ペン先が残した筆圧で二枚目にも文字が写っている。透明の文字が刻まれた、透明人間の遺書。きっと、清掃のおばちゃんが見つけて二枚目もちぎって捨てられるだけ。



私、生きたい。
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