第2話

文字数 5,124文字

 橋には、ただ金の邪気だけが漂っていた。
 車道を真ん中まで進み、望は立ち止まった。抜き身の刀が包囲網を形作る黄の光を弾く。
「いるんでしょう?」
 霊気を込めた呼びかけが浅瀬橋に広がっていく。
 車道と歩道を分けるガードレールの一角で白濁した霊気が立ち上り人の形に浮き上がった。
 家を飛び出した時と同じパジャマ姿の詩織が生気のない目でこちらを見た。手には額から顎までをすっぽり覆い隠せるような白い面を持っている。
(邪物か……)
 邪霊が霊体に巣食うのと違い、邪物は一時的に霊体に巣食った後、霊気を吸い上げて実体化した本体が怪異を引き起こす。人に巣食い続けたとしても、本体は霊体に潜り込むのではなく、多くの場合、肉体の外側に現れる。面の邪物だとすれば、顔に装着するタイプだろう。攻撃するにはデリケートな部分だが、他の邪物よりは引き剥がしやすい。だが――。
 何かが引っ掛かった。
 磨かれた鏡を思わせる鉄の面には目や口といった顔のパーツはない。顔の真ん中の、本来ならば鼻がある位置に瑪瑙のような赤い石が埋め込まれているのが特徴といえる。変わった作りだが、恨みの念が浮かんでいるわけでも、呪詛が彫られているわけでもない。
 ただ、ここまで変哲のない外観なのに、これほどまでにはっきりとした人格を持っているのが不気味だ。人の強い情念が宿っているのだろうが、その気配があまりにもない。
「随分と遅い到着だのう。せっかく邪魔者共を遠ざけてやったというのに」
 先ほど聞いたよりも澄んだ女の声が詩織の口から零れ、瑪瑙に赤い光が灯った。
(赤い瑪瑙がついた鉄の仮面に、冷たい女の人の声……。どこかで見たはずなのに……)
 何度か頭の中で繰り返し、スゥっと冷たいものが背筋を走った。
 つい最近、最優先対応邪物に指定された危険度トップクラスの邪物と怖いくらいに特徴が一致している。
「……まさか、この地に来ていたなんて……」
 邪物自身が否定してくれることを願いながら、その名を口にした。
「『鏡面』」
「妾は名乗っておらぬが……、あちらの鎮守どもがそのように呼んでおったかのう」
 冷たい女の声が肯定した。
 刀を持つ手に力が入る。
 葉守神社に匹敵する強固な陣が敷かれた斎木家に侵入したばかりか、撹乱に高度な幻術を使ってきたあたりから、大物だろうとは予想していた。だが、ここまでの大物だったなんて――。
「よもや、この地にまで届いておったとはな……」
「有名ですよ。あれだけ派手に鎮守役を襲って回ればね……」
 南組の担当地区で鎮守役のみを狙うという邪物だ。強力な金の邪気を持ち、出現してからの僅かひと月で数多くの鎮守役が襲われている。
 よく通る女の声で人語を話し、相手が鎮守役かどうかを確かめてから襲い掛かるが、その目的は一切不明。一方的に襲いかかり、興味を失くせば自ら退くというが、遭遇して無事で済んだ者はいない。武蔵国で最も多くの鎮守役を抱える南組でも手に負えず、この一か月で動ける鎮守役が半数にまで落ち込んだと聞いている。
 緊急事態と判断した霊山が宵闇の対応班を編成して出撃させたが空振りに終わり、現在捜索中と情報が回ってきたのが一昨日のことだ。
 討手の気配を感じ取り逃亡を企んだのだとしても、宵闇が目を光らせている以上は南組の担当地区から出られるはずがなく、数日のうちに片付くだろうという話だったが――。
(マズいな……)
 内心で自らの判断に舌打ちした。
 三百メートルほど離れた河原では一真が昏睡している。勾陣で隔離しているとはいえ、安全とは言い切れない。鎮守役でない彼が標的になることは本来ならばないはずだが、鏡面が人を襲う基準が曖昧な上に目的も不明な以上、楽観できない。
 ――なんとか、ここで止めないと……
 鏡面の様子を見る限り、逃走中という感じではない。
 運悪く、ちょうど南組の担当地区から移動した後に宵闇が出撃したということだろう。そうでもなければ、鎮守隊に自分の存在を知らしめるような真似をするはずがない。
「妾を知っておるならば、用件もわかっておろう?」
「僕を狩りに来た、とでも?」
「さよう……。逃げたくば逃げるがよい……。妾は退く者には興味はない」
「担当地区を荒らされて退くと思いますか?そちらこそ、その子を解放して退いてはどうです?」
 無表情な詩織の口から空虚な笑い声が起きた。
「それでよい……!それでこそ狼の霊筋よ……!妾が狩る価値があるというものじゃ……!」
 立ち上る邪気は普通の邪物とさほど変わらない。なのに、得体のしれない存在感がある。人格があるだけでなく、まるで、どこかに鏡面を操る「人」が潜んででもいるような――。
「解せないな……。あなたは鎮守役を襲っても霊気をほとんど喰わないんでしょう?いったい何が目的なんです?」
「そなたが知る必要はない……」
 詩織はそっと面をつけた。磨き上げられた表面が、その名のごとく鏡のように浅瀬橋と望の姿を映す。
「妾はただ、狩るのみ……」
 軽く振られた右腕の肘から下が硬化し、刀へと姿を変えた。
 ゆらりっと詩織の輪郭が陽炎のように揺れ、小さな体が軽々と跳躍した。
 空中から襲いかかる白刀を赤光を帯びた刀身が受け止める。
“炎よ!”
 攻撃性を帯びた霊気が刀身を伝い、刀に炎が宿る。
 炎が這うように詩織の腕を巻き込み――、大きく離れたのは望のほうだった。
「ほう、避けたか……」
 淡々とした声が僅かに驚嘆を帯びる。
 パーカーの裾がざっくりと三つに裂けている。退くのがあと少し遅れていたら、腹と胸を抉られていただろう。
「侮っていましたよ。左手も武器化できるなんてね……」
 横手から襲ってきたもの――、詩織の左手を睨む。
 数秒前は確かに人の手の形だった左手が鳥の足のように変形し、猛獣の爪を伸ばしたような鉤爪が生えている。
(さすが南組を追い込んだだけのことはあるな……)
 通常、邪物は撹乱や潜伏を得意とするが、戦闘は苦手だ。人に巣食ったところで、せいぜい、その場にある刃物を振り回したり、逃走する範囲が広がる程度。体の武器化ばかりか、鎮守役と互角に戦えるほど戦闘力を発揮するものは、ごく稀だ。
 ――だったら……
 鏡面の霊気は金属性、望は火属性だ。木属性の一真が金属性を苦手とするように、鏡面は望の霊気を苦手とする。
(一気にカタをつけるしかない……!)
 アスファルトを蹴ると同時に刀を繰り出す。
 真っ直ぐに突き出された刀が深紅の炎を帯び、鏡面へと伸びる。
「地の門の動きじゃと……!?」
 驚愕の声を上げ、鏡面は後ろに跳んだ。
 切っ先から伸びた赤い閃光が夜の空気を焼くも、僅かに鏡面に届かない。
 嘲笑と共に鏡面が右手の刃を振り上げ――、赤い蒸気と共に苦痛の叫びが橋を揺らした。シュウシュウと蒸気が上がる右の刃は三分の一ほどが蒸発していた。
 刀身から伸びた赤光が仮面を赤く染めた。
「させぬわ……!!」
 赤い光が仮面を貫く手前で止まる。刀が貫通した左手の鉤爪がドロリと溶け、赤くなった爪が抜け落ちた。
「閃紅牙を止められたのは初めてですよ……」
 感情のこもらない声で呟き、さらに霊気を込める。
 刃を中心に炎が渦巻き、鉤爪が蝋のように溶けて流れてゆく。
 霊力が満ち霊刀と化した刀は霊体だけを斬り、巣食われた者の肉体を傷つけることはない。今、炎が焼いているのは鏡面そのものだ。
「この力……、そなた……、まことに鎮守か……?」
「ええ。見ての通り、ただの鎮守役ですよ」
「……わが身を焼くこの炎……、現の者が宿すべきものではない……。この匂い……貴き狼のもの……」
 淡々と告げる声に違和感が募った。
 右手の刀は先端が蒸発したまま再生せず、刀が貫いたままの左手の鉤爪は溶け続け、原形を留めていない。あれほど強烈だった邪気は弱まり、詩織の体を支配できなくなるのも時間の問題のはずだ。なのに――、鏡面の声には全くといっていいほど苦痛も焦りもない。
 足元で妙な気配がした。
 咄嗟に刀を引き身を捻る。熱いものがわき腹を掠め、熱と激痛が走った。
 大きく飛び退き、腹を押さえ霊力を集中させる。
 すぐ傍のアスファルトに血の付いた金属片がのめり込んでいた。熱で変形しているが見覚えのある形状だ。
(左手の爪……!?)
 邪物が自らの切り離された一部を操作するのは理論上、不可能ではない。だが、そこまでの力を持つ邪物は鎮守役が鎮められる範疇を大きく超え、宵闇が出撃するべき邪変に分類される。目の前にいる邪物のように。
 少しの笑みが浮かんだ。
(宵闇か……)
 天狗の中でも霊格が高く、戦闘力に特化した宵闇は強力な邪や妖獣を専門に鎮める戦闘衆だが、その人数は霊山でも少ない。武蔵国と協力体制にある信濃の霊山では片手で足りるほどしかおらず、その大半が今夜は南組に出向いている。この場の異変に気付いた彼らが駆けつけてくることは、ほぼ期待できない。どうあっても独りで切り抜けるしかないのだ。
(隠人が天狗に届くわけないけれど……)
 主座として戦っているうちに、いつしか現衆の中での評価は「化け物」から「宵闇匹敵」へと変わり始めた。そんな大それた自覚はないし、正直なところ、鬱陶しく思っていたが、今ばかりは自分の力が彼らの域に届いていることを願った。
「確かめねば……。そなたの霊筋……、現の者であるはずがない……。確かめねば……」
 呪詛のように呟き、鏡面がアスファルトを蹴った。
(……え?)
 自分が感じ取っている邪気を一瞬、疑う。
 歪に溶けていた左右の手で刃が再生し、鋭さを増した。
 先ほどよりも速くなった両手の連撃に塞がりかけた腹の傷が呆気なく開く。
 ――邪気が増大した!?
 消耗しているのは間違いないはずだ。
 詩織から霊気を吸い上げているとしても、覚醒して間もない隠人の霊気は不安定でさほど使い物にならないはず。邪気が倍近くまで増すことなどありえない。
 これはまるで――。
「そなたの霊筋を見せい……!早う……!早うううううううううう!」
 狂ったように打ち付けた鏡面の右手の刃が砕けた。
 間髪入れずに突いた刀を左手が握り締める。鋭い鉄の爪に刀身が悲鳴を上げる。
「そなたの霊筋は……、いずれの門じゃ……?」
 左肩に鋭い痛みが走った。
 砕けたはずの右腕が短刀ほどの刃を再生させていた。
 刃が貫通した左肩でじわじわと生温いものが広がっていく。肩に感じる邪気は、先ほどまでと質が変わっているような気がした。
「おお、おおお……、感じる……!感じるぞおおおおおおおおおおおお!高貴なる狼の血じゃ!」
 女の声が急に熱を帯びた。
「一門の者じゃ……!見つけた!見つけたぞぉオオ!」
 至近距離から浴びせられる狂ったような笑い声に、肩よりも耳が痛くなる。
 白いのっぺらぼうが眼前に迫った。眼がないはずなのに、ぎょろりと目玉が動いた気がした。
「あの太刀筋……、そなた……、地の者か……?」
「地……?」
 何を言っているのかまるでわからなかった。
 この武蔵国一帯は狼の霊筋が多く、町内の隠人はほぼ狼だ。だが、「地の者」という呼称は聞いたことがない。なのに、頭の中に何かが浮き上がってきそうで気分が悪い。
「貴き御門は三つ……、天の者か、地の者か、それとも幻の者か……。あの御方が探されている者は、さて、どの門であったかのう……」
 鏡のような面の向こうで何かが蠢いた気がした。
 頭の中で警鐘が鳴り響く。
「離せ……!」
 炎を増した刀身を鏡面はあろうことか強く握りしめた。まるで、どこかから供給されてでもいるように邪気がさらに強まり、溶けた左手が再生されてゆく。
「さあ……、見せておくれ……。その器の奥に潜む真の姿を……」
 子守唄でも歌っているような優しげな声が脳に染みた。鏡面の声で、別の誰かが話しているような気がした。
 白い面が黒く染まり、瑪瑙の奥でチリチリと火が揺らめいた。
 ドクリッと心臓が跳ねる。
 ――あれは……何……?
 ――いや、知っている……。
 正反対の感情がぶつかり合い、ひどく混乱する。
 黒く染まった面の中央で瑪瑙を中心に光が生まれ、人影が映った。
 包囲網が大きく揺れた。
 大砲でもぶつかったような衝撃と共に黄色い光に亀裂が走り、粉々に砕け散ってゆく。吹き抜けた碧の風が面に浮かんでいた人影を消し去った。
 鏡面が何かに気づいたように望の背後に意識を向けた。
 刀を力任せに引き抜き、大きく飛び退く。
 大量の汗がこめかみを伝い、左肩から血が流れ落ちる。
 人の手が握っていたように亀裂が走った自らの刀にゾッとする。
 背後で立ち上る木の霊気に肩越しに振り向いた。
「一真君……」
 橋の入り口に碧の光を灯した左拳を握り締めた一真が立っていた。
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