第1話

文字数 4,099文字

 微かな物音に一真は顔を上げた。
 周りは静かな住宅街である。人も車も特になく、音を立てるようなものは見当たらない。
 いつもならば気のせいにしてしまうところだが、妙に気になって耳を澄ました。
 小さな音がまたどこかから聞こえた。
(なんだ……、足音?)
 体育館で床を蹴るような――、それよりもずっと軽いような――。
「下から聞こえてる……?」
 空腹も疲労も忘れて、一真は音が聞こえてくる方向――、下を流れる川に目を凝らした。
 真っ黒な川には何も見えない。だが、音は止むこともなく、どんどん大きくなってくる。時折、水が跳ねたような音と金属がぶつかるような音が聞こえる。
(……そこ……、誰かいる……?)
 身を乗り出そうとすると、額に何かがぶつかった。
「痛て!?んだよ、まったく……?」
 自分がぶつかったものを確認しようとして、唖然とする。
 目の前にあるのは肩くらいまでの欄干だけだ。額がぶつかるような壁や柱はどこにもない。
(ここらへんだったよな……?)
 そろりそろりと何かがぶつかったあたりに手を伸ばしてみる。
 傍から見れば、不審者のような動きだが、好奇心のほうが勝った。
「……これ……か……?」
 手に硬質な感触が触れた。そこに巨大なガラスの板があるように手は何か硬い物に阻まれ、それ以上前へ伸ばせない。
 水が大きく跳ねる音と共に、足音が止んだ。
 妙な胸騒ぎに押されるように両手を突き出した。
「く……、の、ヤロ……!」
 両掌に渾身の力を込めた。
 理由はわからない。
 この先にあるものがどうしても見たかった。いや、見なければならないような気がした。
「開……け……!」
 右手の甲が熱くなり、両手を中心に波紋が広がった。
 暗いだけの空間が石を投げ込まれた水面のように揺れる。眼下に夜の川原が広がった。
 同じ景色の中に、ぼんやりとした赤が出現していた。
(人が……、光ってる?幽霊か??)
 赤い光の中に人がいて、あろうことか、その人物は平然と川の上に立っている。
(もしかして、オレ……、ヤバいのか……?)
 この疲労と空腹だ。幻覚を見ていても全然驚かない。
 だが、先ほどぶつけた額がジンジンと痛んで、目の前の出来事は現実だと告げてくる。
(……足はあるけど……)
 やはり幽霊なのだろうと結論付け、人影をしげしげと眺める。
 手には刀のようなものを握っている。背を向けているので顔はわからないが、赤い短髪と薄紫のパーカーにジーンズというラフな服装、体型から少年のようだ。何かを探しているのか、時折、川の中に刀を突き刺しては首を傾げている。
 いつの間にか、一真は食い入るようにその姿に見入っていた。
(誰だ……。あそこにいるの、誰なんだ……)
 懐かしい誰かのような気がする。全く知らない他人のような気がする。
 真逆の感覚がぶつかり合い、頭がおかしくなりそうだった。
 ふと、少年のすぐ背後の川面が盛り上がり、黒いものがヌッと突き出した。
 人かと思ったが、すぐに違うことに気づく。
 黒い物体は拳を開くように、巨大な手のようなものに音もなく姿を変えた。少年は気づいていないのか、すぐ前の川面に再び刀を突き刺した。
「後ろ!!」
 何かを思うよりも先に叫んでいた。弾かれたように彼は振り向き――、
 掌で火花が爆ぜた。
「痛っ!?」
 慌てて引っ込めた掌がうっすらと赤く腫れている。じわりと痛みが広がった。
「そ、そうだ!あいつ!どうなったんだ!?」
 橋の下を覗き込んでも、黒い水面に街灯が映っているだけだ。人っ子一人いない。掌を突き出してみても、スカスカと空気を押すだけで何かに触れることはない。
(ここって降りられたよな!?)
 記憶を頼りに川原へ降りる階段を探し、駆け下りる。
 自分が行ったところで、何ができるというわけでもないかもしれないが、放っておくことなどできなかった。
「いない……」
 川原には誰の姿もなかった。
 川の中から突き出ていた黒いものもいなければ、刀の少年もいない。
 寒さの残る三月中旬の夜である。散歩をしている人もおらず、ただ静かなだけだ。
 サラサラと川が流れていく音がやけに大きく聞こえた。
「なんだったんだ……、さっきの……」
 川の上を通ってくる冷たい風を浴びていると、つい今しがた自分が見た景色が夢だったように思えてくる。
 だが、赤くなった両掌と擦り剝いたようなヒリヒリとする感覚は残っている。
(同じ年くらいだったよな……)
 振り向きざまに見えた横顔は中学生くらいだっただろうか。赤い髪に赤い眼をしていたので、日本人ではないかもしれない。
「あ~~、くそ、なんか後味悪い……!」
 最後に見たのは、少年の背後から覆いかぶさるように襲いかかる黒い手だった。少年が振り向いたのはわかったが、急激に人の身長の倍ほどに伸びた黒い手に隠されて、彼が難を逃れたのかどうかまではわからない。すぐにでも川原に下りてくればよかったと、今更ながら後悔が襲った。
「あのまま殺された、とかだけは勘弁してくれよ……、マジで……」
 川の真ん中に目を凝らしても足場になりそうなものはない。彼の足元では川が流れていたから、何かに乗っているという感じでもなかった。
「九時半か……」
 家で片づけを続行しながら待っている詩織のことを思うと、早く夕食を調達して帰ってやらなければと思うが、その場を動く気分になれなかった。
「……こっちにいる時って、夜九時過ぎて外出たことってなかったな……」
 四年前、家の門限は十八時だった。
 一真の家だけでなく、幼馴染の家も、他のクラスメイトも似たような時刻だったから、さして不思議に思わなかった。母に頼まれて夜にお使いに行ったり、塾に通うこともあったが、二十時半までには家に帰っていたように思う。
 一度、塾の帰りに友達と遊んでいて帰宅が二十一時を過ぎたことがあった。あの時ばかりは両親だけでなく、普段は何も言わない祖父母にもひどく叱られた。
「『夜九時からは鎮守(ちんじゅ)様の時間』……だっけか……」
 少し遅くなったくらいで、と唇を尖らせた一真に、両親だけでなく祖父母も口をそろえてそう言ったのだった。
 『夜九時からは鎮守様の時間。子供が外をうろついていたら、蛇に喰われる』
 「んなわけあるか。ガキ扱いしてんじゃねーよ」と思いはしたが、両親と祖父母は真剣そのもので、その迫力に負けて渋々頷いたのを覚えている。いつもは味方になってくれる祖母に叱られたのは、あの日が最初で最後だった。
 それくらい、あの時ばかりは家にいた大人が皆、同じことを言って目を吊り上げた。
 ただ、あれは浅城町限定の七不思議だったようで、大坂に引っ越してからは二十一時を過ぎて帰宅しようが、何も言われなくなった。
 結局、「鎮守様」が何だったのか。わからないままだが、あれ以来思い出すこともなく、今の今まで忘れていた。
「……帰ったら、ジイちゃんに聞いてみるか……。何か知ってるんだろーし……」
 四年前の小学生ならばともかく、一真も春からは高校生だ。二十一時を過ぎて外出していたところで怒られることもないだろう。今日に限れば、祖父の生活破綻が原因なのだから。
 あれこれと考えながら橋の上に戻ると、目の前の歩道でキキッというブレーキ音がした。赤いママチャリが止まる。
「一真君……?」
「へ?」
 いきなりの呼びかけに、一真は自転車に乗った人物をまじまじと見つめた。
(……め、めちゃくちゃ可愛い……!)
 一人の少女が不安と喜びが入り混じった表情でこちらを見つめていた。
 ふわりとした橙がかった髪を耳の後ろでツインテールに纏め、タートルネックのセーターにハーフパンツ、すらりとした脚にロングブーツを履き、コートを羽織っている。年は一真と同じくらいだろうか。
(だ、誰だ!?こんな可愛い子、オレの知り合いにいたっけか?)
 心当たりを探すが、思い当たる人物がいない。
 大きなセピアの瞳が不安げに瞬いた。
「あの、斎木一真君……だよね?四年前まで、この辺りに住んでた……」
「あ、いや、そうだけど……、その……」
 向こうは明らかに、こちらを知っている。
(わからん……!オレ、四年前は結構、目立ってたらしいからな……。学年違うヤツとかだったら、全然わからねェ……)
 「お兄ちゃん、『(のぶ)さん家の暴れ馬』って呼ばれてるの?」
 詩織がそんなことを聞いてきたのは、一真が四年生の時だっただろうか。
 昔から喧嘩が強かったせいか、腕に覚えのある連中から喧嘩を売られることが多かったので、来るもの拒まずで受けて立っていたというだけの話だが、いつの間にか、そういうあだ名がついていたらしい。勝利した相手に上級生もいたせいか、詩織によると、当時、小学校内で有名になっていたという。
(オレより年上って感じじゃねェから……、一ッコ下くらいかもしれねェな……)
 名を思い出すのを諦め、恐る恐る口を開いた。
「あ、あのさ……、誰だっけ……?」
「え……?」
 少女はサッと小さな顔を曇らせた。春の風に特徴的な癖毛がふよふよと揺れた。
(……あの癖毛……?)
 激しい既視感が襲った時には、少女は泣きそうな顔で自転車を発進させていた。
「ご、ごめんなさい!人違いでした……!!」
 顔を真っ赤にして少女が走り去るのとほぼ同時に、その名前を思い出していた。
「ま、待て!光咲!北嶺光咲(きたみね みさき)だよな!?」
 叫んだ時には、自転車は橋を過ぎてしまっていた。
(くおおおおおおっ、やっちまったあああああああああああああっっっ)
 まさか、小さな頃から毎日のように会っていた幼馴染の顔がわからなかったなんて――。
 たった四年であんなに雰囲気が変わっているなんて反則だという気がするが、これは明らかにマズい。弁解のしようもないほどに。
「すまん!オレが悪かった!頼むから止まってくれ、光咲ィーーーーーーーーー!!」
 知らない人が聞いたら痴話喧嘩中のカップルとしか思えないようなセリフを叫びながら、一真は必死に赤いママチャリを追いかけた。急に復活した空腹で、いつもの半分くらいしか声が出ない上に足が重い。
 傷心の光咲がようやく止まったのは、そこから二百メートルほど先の交差点だった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み