第1話

文字数 4,290文字

「邪が包囲網を抜けた?」
 望は眉を顰めた。
 水晶には赤い五芒星が浮かび、黄色い光が点っている。
 橋で詩織の捜索をしている補佐に状況を確認すると言っていたが、あの様子では、たぶん何かが起きている。
「それで追跡を……。橋の包囲網ですか?少し待ってください。気になることが……」
 探るように橋を凝視する望につられるように一真も橋を見つめた。
 赤い光に阻まれてよくわからないが、橋の周りに薄気味悪い気配が漂っている。
 よく覚えていないが、部屋で詩織から出ていた気配に似ている気がした。
 ――なんだ……?
 橋の真ん中あたりがやけに気になり目を凝らす。
 何かが視えるわけでもないのに、心の底がざわざわと波立った。
 ――あそこに……、いる……
 何がいるのか。
 人なのか、邪なのかさえもわからない。
 なのに焦燥が沸き上がった。
 手の甲がじわりと熱くなり魂の奥で鼓動が跳ねた気がした。
「まさか幻術……?」
 硬い声に我に返る。
 手の熱が引き、妙な感覚も消えていく。
「邪はまだ包囲網の中にいます。それは囮でしょう。いえ、橋の手前で待機してください。包囲網は維持したままで……、橋の傍にいる人も一度離れてください」
 望は言葉を切った。
「十分後に斬り込みます。橋と周りの河原に結界を広げますから、皆は結界に重ねて包囲網を。できるだけ強力なのをお願いします。出入り口はいりません。鎮めている間、邪が逃げる隙間を作らないようにしてください」
 黄色い光が消えた。五芒星の赤が解け、元の水晶に戻っていく。
「……なんか、ヤバそうだったけど大丈夫なのか?」
「よくあるトラブルですよ。邪も必死ですからね」
 どこか胸騒ぎのする笑顔で望は印を切った。
 頭上で赤が瞬き、赤い光の幕が橋の向こうまで伸びてゆく。
「なんだ、あれ……?」
 巨大な布で橋をすっぽりと包むように、黄色い光の幕が覆っている。
「あれが補佐の皆が作ってくれた包囲網です。結界を橋の向こうまで広げたから、よく視えるようになったんですよ」
「めちゃくちゃ目立ってるけど……、あんな光ってたらマズいんじゃ……」
「同じ座標に作った結界の中だから見えてるけど、座標が違う場所からはほとんど知覚できません。車や人が普通に通りかかったくらいなら座標が交差することはありませんよ」
「よくわからねェけど……、普通は見えねェし、入れねェってことでいいんだよな?」
「ええ。今はその理解で十分です」
 違和感に一真は土手の上を見渡し、続いて橋を眺めた。
 どれだけ探しても、自分達の他に人がいる様子がない。人の霊気を探すのに慣れていないだけなのだろうか。
「補佐は?掩護する奴とかいるんだろ?」
「いいえ」
 含みのある声に咄嗟に距離を取った。
 背中にじわりと霊気が染みる。
 急激に体が重くなり睡魔が襲った。覚えのある感覚だった。
「……青龍っていう札か……!」
 足が体を支えられずに砂地に座り込んだ。川から上がっていてよかったと、頭のどこかがズレたことを考えた。
「ええ。少しの間、眠っていてください」
「最初から……、こうする気……だったのか……?」
 口を動かすのも億劫だった。眠りに落ちる一瞬前のように自分がまともに話しているのかもわからない。
「ついさっき、状況が変わったんですよ」
 望はもう一枚札を取り出した。緑の光が灯る。
「今夜の邪は少し手こずるかもしれません。一真君が乱入でもしたら、守りきれないかもしれない……。結界から出てもらっても、異変を感じ取って結界に入ろうとするでしょう……。補佐の力じゃ、今の一真君を止められませんから……」
「守ってもらおうなんて……、思ってねェけどな……」
 目が回ったように景色が一回転した。
 眠いなどという生温いものではない。
「どれだけ強くても、霊風を使えても……。隊に参加していない以上、守るべき一般人ですよ。鎮守役にとってはね」
 札を剥がそうと背中に手を伸ばすと、意識が遠のいた。
 頬に冷たい砂が触れる。
 起き上がろうとしても体が先に眠ったように動かない。せめて唇を動かした。
「アンタ……、独りで……、戦う……のか……?」
「邪を鎮める時は独りですよ。邪に対峙するのは鎮守役の役目ですから……」
 望は寂しそうに笑った。
「やっぱり一枚じゃ抑えられないみたいですね……。補佐の皆だったら、貼ったって気づく前に昏睡してくれるんだけどなあ……」
 首元に望の手が伸びた。視界の隅で光る緑色にもう一枚札を貼られたのだと気づく。
「妹さんは必ず助けます。何も心配しないで……」
 望の声がどんどん遠ざかっていく。
 睡魔というよりは意識が深みに引きずり込まれていくようだった。
 ――駄目だ……、あそこに……いるのは……
 深みから自分の声が聞こえたのを最後に、抗いきれない睡魔が意識を閉ざした。


 
 誰かが「化け物」と言った。
 否定したくて、ただ修行に励んだ。
 自分が化け物ではないと証明したかった。
 皆と同じ、隠人なのだと。
 力を制御できるようになれば、きっと認めてもらえると思っていた。
 だけど――、修行すればするほど霊気は強くなって、風も強くなった。まるで、霊山の戦闘衆・宵闇のように。
 力が強くなるのに比例して周りの目は一層冷たくなっていった。
 だから――、きっと自分は天狗で、天狗としての自分を待ってくれている仲間が霊山にいて、いつか迎えに来てくれる――、そう、信じた。
 なのに、どれだけ待っても前世の夢は見れなかった。仲間も迎えに来なかった。
 霊体を調べてくれた信濃の霊山の天狗は困り果てたようにかぶりを振った。
 その時、思った。
 ああ、自分は「化け物」だったんだ、と。
 どれだけ願っても、努力しても、周りが受け入れてくれることなどなかったのだ、と。
 その日から、誰かを頼るのをやめた。期待するのをやめた。
 ただ、蝕という名の「終わり」が来ることだけを願った。
 人の世から逃げたかった。
 蝕を迎えれば、晴れて天狗の仲間入りをできる。
 やっと受け入れてくれる場所ができるはずだ。
 そう願ってから十年近くが過ぎたが、まだ蝕は訪れていない。
(初めて僕以外の化け物に会ったな……)
 同じように反則のような霊格で、霊風を使って――、
 霊紋も開いていないらしい覚醒して間もない隠人に、怪我は言い訳にならない。
 片腕だけでも軽く御せるだけの力量差があるのが普通なのだから。
 左手を握り締めた。
 霊風を撃つ姿を他人に見せる日が来るなんて思わなかった。
 自分を隠さなくてもいいことが、あんなに気持ちがいいことだなんて知らなかった。
 一生縁がないと思っていたが、「友達と遊ぶ」という感覚はああいうものなのかもしれない。
(すごく楽しかったな……)
 弾んだ気持ちに呼応するように左肩の痛みが引いていく。
 霊力は魂の力だ。肉体の疲労ではなく、精神の疲労に左右される。諦めの入った塞ぎ込んだ気持ちでは霊力も弱まっていくだけだ。
「早く妹さんを助けてあげなくちゃ……」
 包囲網が封鎖した橋を見上げた。
 巣食った邪は迂闊に斬りかかれないし、依り代となった隠人を傷つけないように細心の注意を払わなければならない。ひたすら不利な戦いだ。
 それさえも大したことに思えないほど、心が軽かった。



 黄昏が夜の闇に変わってゆく。
 船が通れるほど深い河は黒く沈んでいて底も見えない。
 周りを囲む暖かい風を眺め、彼は笑った。
「僕の風に碧風を重ねてください。できるだけ静かな感じで、内側に」
 何の為に?と聞くと、少年は楽しそうに笑った。
「もちろん、」
 少し嫌な予感がした。
 この手の顔をする時は、たいてい悪戯を仕掛ける時で、古参の高官が犠牲になる。
「二人で隠れる為ですよ。ちょっと行方不明になって若家老を驚かせてやろうかなって。家出したと思って真っ青になりますよ、彼」
 出かける前の小言の意趣返しをしたいのだろう。
 若家老が少し気の毒な気がしたが、いちいち煩いのも確かだ。気紛れな命令一つで家臣の運命を左右できるほどの権力者が、こんな可愛い悪戯で気が済むのなら平和だろう。
「悪戯仲間がいるっていいなあ。一人でやってもつまらないもの」
 呼び寄せた碧風を眺める顔は本当に楽しそうだった。
 魂の奥で鼓動が跳ねた。
「…………様……」
 ポツリと呟き、「一真」は眼を開けた。
 昏睡した時と異なり仰向けに寝転んでいる。望が体の向きを変えたのだろうが、その張本人の姿はない。
 小さなドーム状の黄色い光が手を伸ばせば届くほどの低い位置で揺れている。
 無造作に腕を伸ばすと肘のあたりで火花が散った。ひらりと緑に光る霊符が剥がれ落ちる。
 構わず、指先に触れた黄の光を軽く押し上げた。パキリとガラスが砕けるような音がして呆気なく砕け散っていく。
「この霊気……。間違いなさそうだな……」
 パラパラと舞い落ちてくる黄色い破片に目を細め、身を起こした。背中と首元、肩口からバチバチと火花が散った。火花が大きく弾けるごとに意識がはっきりとして目が覚めてゆく。
 ぼうっとしたまま一真は周りを見渡した。
 静かな河原と頭上を覆う赤い光は最後に見た景色と同じだ。
 背中で大きく火花が弾ける音に完全に目が覚めた。
「あれ……?どうなったんだ……?」
 不意打ちを食らったところまでは覚えている。
 望の姿が見えないということは、橋へ向かったのだろう。
「……なんか……、夢みたいなもん見てた気がするな……」
 どんな夢だったのか全く思い出せないが、やたらと懐かしい気分が残っている。
 四年前の夢でも見たのかもしれない。
(なんで……、札が焦げてんだ……?)
 周りに散乱している霊符に眉を顰める。どれも半分ほどが焼け焦げて、花火の残りかすのようになっている。
 背中や首元に手をやってみても霊符はない。どういうわけか、寝ている間に燃えて剥がれ落ちたらしい。
 橋に目を凝らすと包囲網の近くに赤い光が揺れている。望だろう。
(……霊気が静かってことは、まだ戦ってねェってことだよな……)
 十分後に斬り込むと言っていた。
 まだ戦いを始めていないということは、寝ていたのはほんの数分ほどだったということになる。あれだけの睡魔が襲ったにしては効き目が悪すぎる気がした。
「……この札……、湿ってたのか……?あ、でも、焦げてるしな……」
 釈然としない気分だが、戦いが始まる前に目が覚めたので良しとしておく。
 無意識に地面に散らばった枚数を数え、憮然とする。
「……六枚って……、オレをなんだと思ってんだよ……」
 放っておくのも気が引けたので、しぶしぶ札を拾い集めた。
 橋を覆う黄の光が大きく震えた。
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