第4話

文字数 4,491文字

 夕闇が満ち始めた部屋の中にすすり泣く声が響いた。
「どうしよう……」
 詩織はパジャマの袖を捲り上げ、しゃっくりあげた。
 昨日の夜から表れた「これ」は消えるどころか、どんどん濃くなっていく。痣やホクロの類でないのは形と色から明らかだ。「紋様」、「文字」――、そんな言葉がぴったりするかもしれない。
「どうしよう……!気持ち悪いよぉ……!」
 紋様はドクドクと脈打ち、熱を帯びている。
 脈打つたびに、目に映る世界が変わっていく。
 自分が自分でなくなっていくような感覚にフルフルと頭を振った。
(お兄ちゃん……)
 今すぐにでも兄に相談したかった。
 だが、どうしても、この模様を見せる勇気が出ない。
 新しい学校に馴染めずに体調を崩した自分と違い、兄はすぐに新しい学校に慣れて、友達も沢山いた。高校だって、きっと行きたいところがあって、やりたいことがあったはずだ。
 それを自分が台無しにしてしまった。
 これ以上、迷惑をかければ嫌われてしまうような気がした。
「どうしよう……」
 光咲の顔が浮かんだ。
 光咲は、前から詩織が腕を気にしているのを知っていたから、この模様を見ても――、
 浮かんだ希望を打ち消した。
 あの時は、腕がムズムズするくらいで、こんなものは出ていなかった。
 ――どうしよう、どうしよう、どうしよう……!!
 頭を抱えるようにして枕に顔を埋めた。
‘なにを泣いておる……?’
 聞いたことのない女の人の声が聞こえた。
 自分しかいないはずの部屋で不意に聞こえた声を不気味だとは思わなかった。それほどまでに声は優しく、脳に染みた。
「う、腕に……、変な模様が……」
 口が勝手に動いていた。
 どうして、兄にも光咲にも話せないようなことを見ず知らずの相手に話してしまっているのか、わからない。だが、頭のどこかが警鐘を鳴らした。
‘それはかわいそうにのう……。どれ、妾が消してしんぜよう……’
 労わるような声音に不安が消えてゆく。
「本当……?消せるの……?」
 枕から顔を上げ、声の主を探した。
 薄暗い部屋の中には誰もいない。
‘ここじゃ……。この窓を開けてくれたら消してやれるぞ……’
「窓……」
 催眠術にかかったように立ち上がった。
(窓を開けたら……)
 ――お兄ちゃんや光咲お姉ちゃんにバレないで済む……!
 それだけが頭を支配した。
 カーテンを引くと、窓の向こうに「顔」があった。
 髪も目も鼻も口もなく、冷たく光る白い顔の真ん中には赤い石が光っている。
 体は――、夕闇に同化しているのか、元からないのかわからない。
 まさに「化け物」と呼べる風貌だが、心が麻痺したように恐怖はなかった。
 ベタリと窓ガラスに顔がくっついた。
‘おぉ、おぉ……’
 声に歓喜が滲んだ。
‘なんと高貴な狼の匂いじゃ……!やはり、この近くにおる……!人の中に堕ちた、一門に通じる霊筋の御子が、そなたの傍におるようじゃ……!さあ、早う開けておくれ……!そなたが知る狼の名を教えておくれ……!’
「ちょっと待ってね……」
 ここが二階で、窓の外に人がいるはずがない――、そんな疑問は露ほども浮かばず、詩織は窓のカギに手をかけた。少し錆びた錠を動かす。
「ん~~、んーーー……、あれ?」
 いつもは少し力を入れるだけで開くのに、今日に限って固い。
 両足を踏ん張って手に力を入れた。腕の模様が熱くなり、手に白い光が灯る。錆びた扉が開くような音がして、錠が半分ほど回った。
 部屋の外で軽い足音がした。
「詩織ちゃん?ココア持ってきたよ。起きられる?」
 ハッと我に返る。
 自分は今、何と話していたのだろう?
 何をしていたのだろう?
(あ、あれ……?)
 悪寒が走った。ガタガタと震えながら窓の外に目をやる。
「あ……、ああ、あ……!」
 そこには白く光る不気味なお面が浮かんでいた。
 半ば開いた錠がひとりでに回り、火花が飛んだ。
 錠を中心に窓ガラスに文字のようなものがうっすらと浮かんで消える。
 窓が少しずつ開いていく。
 詩織が開けているのではない。
 外にいる誰かが開けているのだ。
「い、嫌……!嫌ああああああああああっ!!」
 半狂乱になって窓を押さえたが、強い力がガラスをスライドさせていく。ねっとりとした風が部屋の中に吹き込んだ。
「詩織ちゃん?どうしたの!?入るよ!?」
「ダメェエ!入ってこないでェええええええええええええ!!」
 叫んだ時には窓は開ききり、のっぺらぼうが顔の前に迫っていた――。


 悲鳴と何かが倒れるけたたましい音がして屋敷が大きく揺れた。
「光咲!?どうした!?」
 階段を駆け上がり、一真は息を呑んだ。
 詩織の部屋の襖が全て外側に倒れ、向かいの壁際で光咲が青ざめた顔で座り込んでいる。
 傍にマグカップと盆が転がり、零れたココアが血のように廊下に広がっていた。
「大丈夫か!?頭打ってねェか!?」
「か、一真君……!あ、あれ……!」
 光咲は部屋の中を指差した。カタカタと手が震えている。
「詩織ちゃん……!詩織ちゃんが……!」
 白い繊細な指が指し示す先――、薄暗い部屋の中にパジャマ姿の詩織が幽霊のように立ち尽くしていた。
「詩織……?」
 片付いていたはずの部屋の中は暴風でも吹き込んだようにめちゃくちゃだ。
 それらが全て、詩織を中心に外側に倒れていることに一真は気づいた。まるで、詩織から爆風でも吹いたかのように――。
「おにい……ちゃん……」
 長い前髪の下から虚ろな目が覗いた。
「こないで……。見ないで……」
 詩織は右の二の腕を押さえ、訳のわからない呟きを繰り返すばかりだ。
 異様な光景に立ち竦んだのは一瞬だった。
「大丈夫だ、詩織」
 一真はいつもしているように妹に駆け寄った。
 棒立ちしている詩織の正面に片膝をつき、目の高さを合わせる。
「腕が痛いのか?笑ったりしねェから、見せてくれ。な?」
「おにい……ちゃん……」
「ん?」
 ドンッという衝撃が襲った。腹に熱いものが走る。
(なん……だ……?)
 ぐらりと視界が揺れた。
 世界が急に暗くなり、足元が崩れ落ちた。
 落下してゆく感覚に頭上を見上げた。
 そこにあったのは、何かを探すように見開かれた巨大な眼と、その視線から一真を隠すように広がってゆく黒い木々――、
「一真君っっっ!!」
 光咲の悲鳴が遠くで聞こえた。
 黒い森が消え、現実の景色が戻ってくる。
「え……?」
 白い――、刃が一真の腹を深々と貫いていた。
 呆然と視線を移すと、その刃は詩織の右手から伸びている。刃物を持っているのではない。右手が白く光り、包丁のような姿に変形している。あまりにも非現実的な光景に思考が停止する。
「こないでって……いったのに……」
 その眼には何の感情も浮かばず、口元だけが笑みを作った。
「一真君!逃げてぇっっ!!」
 マグカップが詩織の顔目掛けて飛来した。
 顔色一つ変えず、詩織は一真の腹を貫いている右腕を引き抜き、マグカップを切り裂いた。奇麗に両断されたマグカップが畳の上に転がる。
 頭はまだ事態を理解できないまま、半ば本能で腹を押さえて後ずさる。
「がっ……」
 喉の奥からこみ上げてくる熱い塊を耐え切れずに吐き出す。べしゃりと畳に赤が広がり、口の中に鉄の臭いが溢れた。腹を抑えた手を濡らしてゆく血は生温かった。
(嘘……だろ……?)
 何もかもが信じられなかった。じわじわとトレーナーを染めていく血と痛みで、かろうじてこれは「現実」なのだと頭のどこかでわかっている自分がいる。
「お兄ちゃん……、今までありがとう……。もう楽になって……」
「しおり……?」
 ひたひたと歩く姿は存在感がなく、幽霊が近づいてくるようだ。目の前で止まった詩織は蹲ったままの一真を見下ろした。その眼には何の感情も浮かんでいない。
「おやすみなさい……」
 静かに伸ばした腕がビキッと音を立てて変形した。
 手だけではなく腕までもが平たくなり、人の腕の形を失い――、刀のように長い刃に変わっていく。
 本能が「逃げろ」と告げているが、体は重くて動かない。
 血まみれの刃が振り下ろされるのがスローモーションのように見えた。
 暗い部屋の中で黄色い火花が散った。一瞬、目が眩む。
 チカチカする視界の中、詩織と一真の間に七夕の短冊ほどの大きさの紙が一枚、浮かんでいた。詩織の右腕は符に触れる寸前で止まっている。
 黄色い光を放って宙に浮かぶ符から右腕を退き、詩織は一真の後ろを睨んだ。
「……そなた……、この地の鎮守か……?」
 妹の口から出たのは、よく通る冷たい女の声だった。
「ええ。僕のいる場所で巣食うなんて……、随分と自信があるようですね」
 背後で挑発するような声がした。
「先ぱ……」
 振り向き、言葉を失う。
 刀を手にした望の輪郭が赤く光を放っていた。あの夜、五色橋で見た少年と同じように。
「下がっていてください」
 赤く染まった瞳が詩織を見据えた。その表情は硬い。
「丙の穣か……。さすが匠の霊筋だな……」
 鯉口を切る音と同時に赤い光が横を通り過ぎた。
 金属同士がぶつかり合う音が部屋に響く。
「ウソ……だろ……?」
 日本刀を手にした望と、右腕を刀のように変形させた詩織と。遠い世界の出来事のように、刃を打ち合う二人を呆然と眺めた。
 振り下ろされた刃を受け止め、望が低く呟いた。
“炎よ……!”
 赤い火が刀に変形した腕を伝わり、パジャマの袖を燃やしながら肩口にまで届く。甲高い奇声と共に跳び退き、詩織は自らの右腕でくすぶる赤に左手で触れた。
「この霊気……!そなた……?」
 肩まで焦げ落ちた右袖の下――、二の腕でVのような模様が濁った白光を放つ。
 鼓動を打つ心臓のように明滅を繰り返す模様は生きているようにも見えた。
 望が床を蹴り、突きを放つ。詩織も右腕を構えるが、望のほうが速い。
 刀へと変化した右腕を望の刀が貫いた。赤い光が詩織の右腕を這う。
「きゃああああああああああああああああっ」
 口から飛び出した声は詩織のものだった。
「助けてっっ!お兄ちゃんっっ!痛い!痛いよっ!」
 咄嗟に体が動いた。
 気づけば詩織を突き飛ばしていた。
「一真君!?」
 詩織を後ろに庇い、思わず怒鳴った。
「やめてくれ!何やってんだ、アンタ……!」
 背後から忍び笑いが聞こえた。
「つくづく、人間は愚かよのう……。これしきの声真似でほだされるとは……」
 薄気味悪い声に振り向くと、妹は虚ろな目で一真を眺めていた。
 ウサギ柄のパジャマの胸元に腕と同じ色の光が雨雲のように集まり、人の顔を形作った。
 しかし、顔には目と鼻がなく、口だけがニュウッと開いた。
「ありがとうね、お兄ちゃん。もう死んじゃっていいよ」
 開いた化け物の口から詩織の声と、詩織の口調が滑り出した。
 ゾッとするのを抑え、手を伸ばした。
 何故、そんなことをしたのかわからない。
 一真を振り払うように詩織の右手が大きく横に薙いだ。
“十二天が一、勾陣(こうじん)!”
 黄に光る幕が白い刃を弾いた。
「まだ馴染まぬか……!」
 忌々し気に顔を歪めた詩織が窓の外へ飛び出していくのが暗くなっていく視界に映る。
(何が……、どうなってんだ……?)
 遠のいていく意識の中で碧の染みが生まれた。
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