第1話
文字数 3,353文字
奥の部屋から楽しそうな話し声がした。
学校から帰った一真は首を傾げた。母親は用事があるとかで出かけている。家には詩織だけしかいないはずだ。
(誰か来てんのか……?)
鞄を自室に置き、奥の詩織の部屋へ向かう。
やはり笑い声が聞こえる。今年に入ってから学校を休みがちになってしまった妹をクラスメイトが訪ねてきてくれたのかもしれない。
期待を抱きながら少し開いていたドアから部屋を覗き――、一真は硬直した。
夕陽が差し込む茜色の部屋の中で詩織が楽しそうに笑っていた。独りだけで。
パジャマ姿で床に座り込んだ妹の前に、十二支を象った十センチほどの金属製の動物達がずらりと並んでいる。
「あ、お兄ちゃん!おかえりなさい!」
入り口で立ち尽くす一真に気づき、妹は興奮気味に羊の置物を手に取った。
「この子達、詩織とお話ができるんだよ!」
一真がどれだけ目を凝らしてみてもただの合金の塊にしか見えないそれに詩織は子犬にするように頬を寄せた。
「この子がね、メリーさんっていって……」
「詩織っっ!」
思わず細い両肩を掴んだ。羊がカーペットに転がった。
「お兄ちゃん……?」
「それは置物だ!しゃべったりするわけねェ!!」
「え、そうなの……?でも……」
何か言い募ろうとする妹の大きな瞳を覗き込んだ。
「オレが遊んでやるから!話したいことがあるんなら聞いてやるから!いくら寂しいからって、そんなのと話してちゃダメだ!!いいな!?ダメだからな!?」
「う、うん……。わかった……」
両親から槻宮学園の受験を頼まれたのは、その一週間後の事だった。
やや黄ばんだ蛍光灯の光が目に飛び込んだ。
(眩しっ)
寝返りを打とうとして腹に痛みが走る。一気に意識が覚醒した。
「詩織は!?」
ズキズキとする腹を押さえて飛び起き、見慣れた自分の部屋を見回す。
Tシャツの隙間から腹に巻かれた包帯が見えた。
「一真君!よかったぁ……!」
布団の傍にヘタッと座り込み、光咲は涙ぐんだ。
「すっごい血が出てて、どうしようって思ったんだから……!」
「それより詩織は!?どうなったんだ!?」
「詩織ちゃんは……」
光咲の答えを待つのがもどかしくて部屋を見渡した。一真と光咲の他に誰もいない。
手の平に痛みが走った。両手に巻かれた包帯に白い刃と黄色く光る符が脳裏に蘇った。
「先輩は!?どこにいるんだ!?」
「ちょ、ちょっと落ち着いて!ね?」
「オレは落ち着いてる!」
「じゃあ、少しだけ待って!」
光咲は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。それでも足りなかったのか、ポケットから金平糖を取り出して口に含んだ。
「……詩織ちゃんは……、窓から外に飛び出していったの」
「じゃあ、先輩は!?追いかけて行ったのか!?」
「一真君の手当てして部屋に運んでくれて……、すぐに行っちゃった。起きたら、これを渡してって……」
差し出されたのは消しゴムほどの大きさの木の札だった。葉守神社の名と読み方の見当もつかないような文字が墨で書かれている。受け取った左手がチリチリと熱くなった。
「邪を退けてくれるお守り……。詩織ちゃんの覚醒に呼応して、一真君もいつ覚醒するかわからないから、これを持って家で大人しく寝ててって……。鎮守隊から松本医院に連絡を入れておくから、松本先生が来たら怪我を診てもらって、って言ってた……」
強烈な違和感が襲った。
まるで隠人や鎮守隊を知っているような口ぶりだ。
望が光咲に鎮守隊の事を説明できたはずがなければ、あんな突拍子もない話を光咲があっさりと受け入れられるとも思えない。
「もしかして知ってたのか?先輩が鎮守だって……。鎮守様がどういうものなのかってことも……」
光咲は観念したように頷いた。
「私……、隠人なんだって……」
「そっか……」
普通の声が出た。自分でも驚くほど頭は冷静だった。
「驚かないんだね……」
「いや、驚いてるけど……」
自分達の家系のことは望から聞いていたから、邪にとり憑かれたことも含めて詩織のことはどこかで受け入れている。
だが、光咲はそういうモノとは無関係だと思っていた。この町に住んでいる以上、彼女だって隠人である可能性は十分にあったのに。
「さっきの詩織が強烈過ぎたっていうか……。光咲は、いつから知ってたんだ?」
「一年くらい前から……。兆が出て、葉守神社に相談したの……。私は潜在的な隠人で、兆が表れてるって……。その時は、まだ覚醒するかどうかわからなくて、霊薬で抑えてきたんだけどね……。もう効かなくなってきてるんだ……。この調子だと、あと三ヶ月……、夏までには覚醒しちゃうって……」
まるでこの世の終わりみたいな口調で光咲は俯いた。
「そんな深刻にならなくてもよくねェか?隠人って超能力者だろ?」
「違うよ……!隠人は、ただの超能力者じゃないの!」
いつになく激しい口調に呆気にとられる。
光咲がこんなに感情を露わにしたのは初めてかもしれない。
「隠人っていうのはね、霊獣の末裔……、霊獣の血を隠し持っている人のことなの!その血のおかげで超能力を使えるけど、覚醒しちゃうと……、力に呑まれちゃったり、さっきの詩織ちゃんみたいに邪を呼び寄せて巣食われちゃうんだって……!鎮守隊が毎晩、退治してる邪の中には巣食われた隠人もいるって……!」
光咲は両手で顔を覆った。肩が小刻みに震えている。
「私も、覚醒したらさっきの詩織ちゃんみたいになっちゃうのかな……?あんな気持ち悪い悪霊に憑りつかれて……。一真君やお母さんやお父さん、若菜のこともわからなくなって、皆を殺そうとして……、先輩達に退治されちゃうのかな……」
何かを言わなければと思った。
だが、何を言っても気休めにしかならないような気がした。
隠人のことは、自分よりも光咲のほうがきっと詳しいし、あの詩織を目にして落ち着いていろと言うほうが無理だ。一真だって、かなり堪えている。
脚に力を入れて立ち上がった。目を覚ました時ほどの痛みもダルさもない。
「動いたらダメだってば!!」
光咲が慌てて止めた。
「寝てないと!血は止まってるけど、絶対安静だって!邪にやられた怪我は霊気で手当しないといけないの!ちゃんと診てもらわないと……!」
「悪い、先生が来たら謝っといてくれ。それと、これ」
押し付けるようにしてお守りを渡すと光咲は戸惑ったように一真とお守りを見比べた。
「光咲が持ってろよ。オレは護られなくても大丈夫だからさ」
「それって……」
光咲は部屋の出入り口と一真の間に立ち塞がった。
「……詩織ちゃんを……、探しに行くつもり……?」
「ああ」
「だ、ダメだよ!そんなことしたら……!」
細い手が腕を掴み、大きなセピアの瞳が潤んだ。
「今度こそ、一真君、こ、殺されちゃうかもしれないよ!?」
「殺される」――、その言葉が重く響いた。
さっき望がいなければ、自分も光咲も殺されていただろう。
「ね?やめようよ!?お願いだから、ここにいて……!!」
「悪い、光咲。それはできねェよ」
怯えたように腕から手が離れた。
「怖く……ないの……?死んじゃうかも、しれないんだよ……?」
「そりゃ怖いけどさ……。オレは知らない場所で詩織が誰かを殺しちまうかもしれねェってことのほうが、よっぽど怖いから……。それにさ、」
言葉にすると、何かが吹っ切れた気がした。
「霊獣でも人間でも、関係ねェよ。光咲は光咲だし、詩織は詩織だろ?もちろん、」
先ほどから怪我もしていないのに熱くなっていく両の拳を握りしめる。これが「兆」なのかもしれない。
「オレはオレだ。これからどうなるのかわからねェけど……、覚醒したとこで何にも変わらねェし、んなもんで変わってたまるかってな……」
ジャケットを羽織り、光咲の横を通り過ぎる。
「家に帰っててくれよ。隠人の家って、邪が入ってこれねェようになってんだろ?」
光咲は振り向いたが、何も言わずお守りを握り締めているだけだった。
(遠い……)
初めて、光咲との間に距離を感じた。
彼女の瞳に浮かんでいたのは恐怖だった。
それは詩織に対するものなのか、彼女の中に潜む霊獣の血に対するものなのか、一真に対するものなのか――、わからない。
「……詩織を迎えに行ってくる……」
それだけを告げて襖を閉めた。
光咲は何も言わなかった。
学校から帰った一真は首を傾げた。母親は用事があるとかで出かけている。家には詩織だけしかいないはずだ。
(誰か来てんのか……?)
鞄を自室に置き、奥の詩織の部屋へ向かう。
やはり笑い声が聞こえる。今年に入ってから学校を休みがちになってしまった妹をクラスメイトが訪ねてきてくれたのかもしれない。
期待を抱きながら少し開いていたドアから部屋を覗き――、一真は硬直した。
夕陽が差し込む茜色の部屋の中で詩織が楽しそうに笑っていた。独りだけで。
パジャマ姿で床に座り込んだ妹の前に、十二支を象った十センチほどの金属製の動物達がずらりと並んでいる。
「あ、お兄ちゃん!おかえりなさい!」
入り口で立ち尽くす一真に気づき、妹は興奮気味に羊の置物を手に取った。
「この子達、詩織とお話ができるんだよ!」
一真がどれだけ目を凝らしてみてもただの合金の塊にしか見えないそれに詩織は子犬にするように頬を寄せた。
「この子がね、メリーさんっていって……」
「詩織っっ!」
思わず細い両肩を掴んだ。羊がカーペットに転がった。
「お兄ちゃん……?」
「それは置物だ!しゃべったりするわけねェ!!」
「え、そうなの……?でも……」
何か言い募ろうとする妹の大きな瞳を覗き込んだ。
「オレが遊んでやるから!話したいことがあるんなら聞いてやるから!いくら寂しいからって、そんなのと話してちゃダメだ!!いいな!?ダメだからな!?」
「う、うん……。わかった……」
両親から槻宮学園の受験を頼まれたのは、その一週間後の事だった。
やや黄ばんだ蛍光灯の光が目に飛び込んだ。
(眩しっ)
寝返りを打とうとして腹に痛みが走る。一気に意識が覚醒した。
「詩織は!?」
ズキズキとする腹を押さえて飛び起き、見慣れた自分の部屋を見回す。
Tシャツの隙間から腹に巻かれた包帯が見えた。
「一真君!よかったぁ……!」
布団の傍にヘタッと座り込み、光咲は涙ぐんだ。
「すっごい血が出てて、どうしようって思ったんだから……!」
「それより詩織は!?どうなったんだ!?」
「詩織ちゃんは……」
光咲の答えを待つのがもどかしくて部屋を見渡した。一真と光咲の他に誰もいない。
手の平に痛みが走った。両手に巻かれた包帯に白い刃と黄色く光る符が脳裏に蘇った。
「先輩は!?どこにいるんだ!?」
「ちょ、ちょっと落ち着いて!ね?」
「オレは落ち着いてる!」
「じゃあ、少しだけ待って!」
光咲は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。それでも足りなかったのか、ポケットから金平糖を取り出して口に含んだ。
「……詩織ちゃんは……、窓から外に飛び出していったの」
「じゃあ、先輩は!?追いかけて行ったのか!?」
「一真君の手当てして部屋に運んでくれて……、すぐに行っちゃった。起きたら、これを渡してって……」
差し出されたのは消しゴムほどの大きさの木の札だった。葉守神社の名と読み方の見当もつかないような文字が墨で書かれている。受け取った左手がチリチリと熱くなった。
「邪を退けてくれるお守り……。詩織ちゃんの覚醒に呼応して、一真君もいつ覚醒するかわからないから、これを持って家で大人しく寝ててって……。鎮守隊から松本医院に連絡を入れておくから、松本先生が来たら怪我を診てもらって、って言ってた……」
強烈な違和感が襲った。
まるで隠人や鎮守隊を知っているような口ぶりだ。
望が光咲に鎮守隊の事を説明できたはずがなければ、あんな突拍子もない話を光咲があっさりと受け入れられるとも思えない。
「もしかして知ってたのか?先輩が鎮守だって……。鎮守様がどういうものなのかってことも……」
光咲は観念したように頷いた。
「私……、隠人なんだって……」
「そっか……」
普通の声が出た。自分でも驚くほど頭は冷静だった。
「驚かないんだね……」
「いや、驚いてるけど……」
自分達の家系のことは望から聞いていたから、邪にとり憑かれたことも含めて詩織のことはどこかで受け入れている。
だが、光咲はそういうモノとは無関係だと思っていた。この町に住んでいる以上、彼女だって隠人である可能性は十分にあったのに。
「さっきの詩織が強烈過ぎたっていうか……。光咲は、いつから知ってたんだ?」
「一年くらい前から……。兆が出て、葉守神社に相談したの……。私は潜在的な隠人で、兆が表れてるって……。その時は、まだ覚醒するかどうかわからなくて、霊薬で抑えてきたんだけどね……。もう効かなくなってきてるんだ……。この調子だと、あと三ヶ月……、夏までには覚醒しちゃうって……」
まるでこの世の終わりみたいな口調で光咲は俯いた。
「そんな深刻にならなくてもよくねェか?隠人って超能力者だろ?」
「違うよ……!隠人は、ただの超能力者じゃないの!」
いつになく激しい口調に呆気にとられる。
光咲がこんなに感情を露わにしたのは初めてかもしれない。
「隠人っていうのはね、霊獣の末裔……、霊獣の血を隠し持っている人のことなの!その血のおかげで超能力を使えるけど、覚醒しちゃうと……、力に呑まれちゃったり、さっきの詩織ちゃんみたいに邪を呼び寄せて巣食われちゃうんだって……!鎮守隊が毎晩、退治してる邪の中には巣食われた隠人もいるって……!」
光咲は両手で顔を覆った。肩が小刻みに震えている。
「私も、覚醒したらさっきの詩織ちゃんみたいになっちゃうのかな……?あんな気持ち悪い悪霊に憑りつかれて……。一真君やお母さんやお父さん、若菜のこともわからなくなって、皆を殺そうとして……、先輩達に退治されちゃうのかな……」
何かを言わなければと思った。
だが、何を言っても気休めにしかならないような気がした。
隠人のことは、自分よりも光咲のほうがきっと詳しいし、あの詩織を目にして落ち着いていろと言うほうが無理だ。一真だって、かなり堪えている。
脚に力を入れて立ち上がった。目を覚ました時ほどの痛みもダルさもない。
「動いたらダメだってば!!」
光咲が慌てて止めた。
「寝てないと!血は止まってるけど、絶対安静だって!邪にやられた怪我は霊気で手当しないといけないの!ちゃんと診てもらわないと……!」
「悪い、先生が来たら謝っといてくれ。それと、これ」
押し付けるようにしてお守りを渡すと光咲は戸惑ったように一真とお守りを見比べた。
「光咲が持ってろよ。オレは護られなくても大丈夫だからさ」
「それって……」
光咲は部屋の出入り口と一真の間に立ち塞がった。
「……詩織ちゃんを……、探しに行くつもり……?」
「ああ」
「だ、ダメだよ!そんなことしたら……!」
細い手が腕を掴み、大きなセピアの瞳が潤んだ。
「今度こそ、一真君、こ、殺されちゃうかもしれないよ!?」
「殺される」――、その言葉が重く響いた。
さっき望がいなければ、自分も光咲も殺されていただろう。
「ね?やめようよ!?お願いだから、ここにいて……!!」
「悪い、光咲。それはできねェよ」
怯えたように腕から手が離れた。
「怖く……ないの……?死んじゃうかも、しれないんだよ……?」
「そりゃ怖いけどさ……。オレは知らない場所で詩織が誰かを殺しちまうかもしれねェってことのほうが、よっぽど怖いから……。それにさ、」
言葉にすると、何かが吹っ切れた気がした。
「霊獣でも人間でも、関係ねェよ。光咲は光咲だし、詩織は詩織だろ?もちろん、」
先ほどから怪我もしていないのに熱くなっていく両の拳を握りしめる。これが「兆」なのかもしれない。
「オレはオレだ。これからどうなるのかわからねェけど……、覚醒したとこで何にも変わらねェし、んなもんで変わってたまるかってな……」
ジャケットを羽織り、光咲の横を通り過ぎる。
「家に帰っててくれよ。隠人の家って、邪が入ってこれねェようになってんだろ?」
光咲は振り向いたが、何も言わずお守りを握り締めているだけだった。
(遠い……)
初めて、光咲との間に距離を感じた。
彼女の瞳に浮かんでいたのは恐怖だった。
それは詩織に対するものなのか、彼女の中に潜む霊獣の血に対するものなのか、一真に対するものなのか――、わからない。
「……詩織を迎えに行ってくる……」
それだけを告げて襖を閉めた。
光咲は何も言わなかった。