(三・一)祐天寺駅前2

文字数 6,262文字

「実はわたし、もう少ししたら、アフリカに行くんです」
 突然彩子が哲雄にそう打ち明けたのは、十月中旬の夜。「アフリカ、旅行ですか」と尋ねる哲雄にかぶりを振って「いいえ、永住、するんです」きっぱりと答える彩子。「えっ」永住、驚くばかりの哲雄。「それはまた遠い所へ……、もしかして」あれか、と哲雄は閃く。「はい」と微笑む彩子。
「むこうの人と、結婚するんです」
 結婚、やっぱり、そうか。
「相手の方は」
「ええ、バルタン協会の同志です」
 同志かあ、と溜め息の哲雄である。
「それは、おめでとうございます」先ずは何より祝福の挨拶。この時哲雄はまだ彩子に対して、男としての特別な感情を抱いている訳ではなかったから、その点でのショックは余りない。ただバルタン協会には『ブライダル布教』なる一種の布教活動があり、哲雄もそれは知っていたが、まさかその当事者が自分の目の前に現れるなど夢にも思っていなかったので、それなりの衝撃は禁じえない。矢張り、あの話は本当だったのか……。
 ブライダル布教。それはバルタン協会のひとつの大きな特徴であり、週刊誌やTVのワイドショーなどでも取り上げられ、一時世間の注目を集めたものである。尤も最初は布教とは何ら関係がなく、単なる教団内の信者同士の婚姻に過ぎなかった。しかし単なる、といっても特殊なことは特殊である。何しろ、如何なる選択基準によるかは定かではないが、バルタン協会内部の決定によって男女を組み合わせ、カップルを誕生させるのである。勿論信者なら誰でも良いという訳ではなく、対象となるのは本人が希望しかつ教団が適当な人材と認めた者に限られるのである。
 しかも現在までの所、誕生したカップルのすべてが、男性はアフリカ、アジア、南アメリカの貧困国の信者に限られ、片や女性は日本人のみである。なぜかというと世界中にいるとされているバルタン協会の女性信者の中でブライダル布教に志願するのが、唯一日本人女性ばかりだからであり、その結果としてすべて日本人女性による国際結婚となるのである。しかしそんな彼女らが実は、単なる国際結婚をブライダル布教という布教伝道活動へと飛躍させる原動力となったのである。なぜなら、あくまでもバルタン協会の発表によるのではあるが、花嫁としてひとりぼっちで見知らぬ遠い貧困国へと骨を埋める覚悟で赴いた女性信者たちがみな、逞しくもその各々の国に於いて貧しい人々の救済活動詰まりバルタン協会の布教を活発に展開するようになったからである。その為、いつしか教団内部に於いてブライダル布教などと呼ばれるようになったという。
 従って彩子にとっても同様で、単なる信者同士の国際結婚ではなく、遠いアフリカの地を救済しようという使命感、熱い想いが今まさに彩子の心の中で燃え滾っているのである。
「ええ確かに困難なことは十分に承知しています。それでも誰かがやらなければならないことですし、今現実にこの地球の何処かでそれを実践している同志、同性の先輩方がいらっしゃるのですから」
 そう静かに語る彩子の顔の表情は尊い信仰者の神々しさであり、その揺るぎない信仰と人類救済への一途なる想いには、異教徒とはいえ「流石ですね」と畏敬の念を抱かずにはいられない哲雄である。
 この時代日本のTVや新聞、雑誌を通じ、アフリカ各地の悪政、地域紛争、自然災害と、それによって起こる貧困、伝染病、飢餓に苦しむ人々の姿を報じない日はなかった。日本国内でボランティア活動や布教活動に従事する純真な日本の若者たちはその影響をもろに受け、彼らにとってアフリカという大地は、救済活動の場として最も遠く厳しく困難な地域であり、しかしそれ故に最大の憧れの地でもあったのである。
 アフリカかあ。出来ることなら自分も行ってみたいものだが……。「アフリカの何処の国ですか。差し支えなければ、参考までにお教え願えませんか」そう問う哲雄に、けれど俄かに顔を曇らす彩子。「申し訳ありません、それはちょっと……」
 ん、そうか、もしかして口止めされているのかも。「無理に言わなくても結構ですよ」気遣う哲雄。実はその通り、たとえ家族、友人といえども口外してはならぬと教団から厳しく言われており、彩子としては教えたくとも教えられないのである。
「旅立ちはいつですか」
「来年、一月一日、元旦です」
「そんなに早く。でもおめでたい、いい日旅立ちですね」
「ええ、本当は年内、クリスマスイヴ辺りが良かったんですけど。流石にその頃は教団も行事が忙しくて」
「そりゃそうでしょう。ということは、後もう二ヶ月半ですか。折角こうして話も出来るようになったのに、寂しくなりますね」
 確かに哲雄の言う通り、折角知り合えたのに、と思う気持ちは彩子も同感である。実は自身のブライダル布教自体についても、他人や外部の人間には口外してはならなかったのである。が、もし事情を知らせぬまま年が明け、この祐天寺駅前に突然自分が姿を現さなくなったとしたら、哲雄のこと恐らく心配するであろう。それでは大変申し訳ない。そんな気持ちから、彩子としてはどうしても哲雄にアフリカ行きを伝えておきたかったのである。

 しかし……。どうしてもすっきりしない哲雄は、東横線下り帰宅途中の電車の中である。彩子から聞かされた彼女のアフリカ行きのことが頭から離れず、哲雄の思考を絶えずそこへと連れ戻してしまう。どうしても何かが引っ掛かる。しかしそれが何か、まだ上手く言葉に出来ない。まさか、もしかして彼女に恋しているからではあるまいか。自分はまだそれに気付かなかったのだけれど、いざ彼女が遠くへ行ってしまうと知って初めて、つまり会えなくなる、それで自分の気持ちに気付いたということではあるまいか……。
 哲雄にはまだ恋人はなく、かつ現在の所職場にもブースカ仏会にも胸をときめかすような特別な存在はいない。ブースカ仏会はバルタン協会と違って、信者同士の縁結びをしてくれるような気の利いた団体ではなく、そんなの勝手にやってくれよというスタンスである。教義的にも、縁のある男女は放っといても勝手にくっ付くものであるし、かと思えば良縁に恵まれず一生を独身で通す者もいるが、それにはそれなりの訳、因縁というものがあるのである、と説いている。
 いや、それは違う、今自分が感じているのは少なくとも、そういうものではないのだ。恋愛感情、失恋のショックなどでは決してない、と自分に言い聞かせるように否定する哲雄。自由が丘のマンションに辿り着き誰もいない部屋に入ると、再び考え込む。祐天寺駅前のレコードショップで購入した大貫妙子の『クリシェ』を掛けながら、窓辺に佇み或いは床にしゃがみ頬杖を突いて。やがて哲雄の耳に、アルバム五曲目に収められた『風の道』が聴こえて来る。窓を開けると、もう肌寒い風が哲雄の頬を吹き過ぎてゆく。彩子は、レコードショップから流れ来るこの曲について哲雄と初めて語り合った時、「この曲、素敵ですね。わたし大好きなんです」と少女のようにきらきらと瞳を輝かせながら語ったものだが、その時彼女はまだ曲のタイトルも誰が歌っているのかも知らなかった。丸で世間知らずのお嬢様である。そこで哲雄が、教えて上げた。
 そうだ。窓を閉じながら、ふっと哲雄は悟る。それは何というか、どうしても拭い切れない疑念というか違和感というのか、或いは漠然とした不安、なのだ。浮かび来る疑問を自らに問い掛ける哲雄。
 先ず、どうして彩子のような若い女性が行かなければならぬのか。遠い異国で布教するのであれば、確かに若いに越したことはない。がもし布教者を海外に派遣するのであれば、男の方が良いに決まっている。
 それになぜ結婚。どうしてわざわざ国際結婚などさせる必要があるのだ。確かに地元の人と結婚し家族となり、その国の人間として布教した方が、信頼を得易いのは確かであろう。でもそれなら、それならばこそ、矢張り地元の女性信者と日本人男性信者とを結婚させた方が良いのではないか。やっぱりなぜ女の子なのかという疑問である。しかしこれは自分が男だからそう思うのかも知れぬと、苦笑いの哲雄である。
 そして最大の疑問、そもそも結婚とは他人が決めるものではない筈、これである。幾ら信仰する教団が決めたからとはいえ、たとえ教祖が選んだのだとしても、果たしてそれに従うべきものであろうか。恐らく付き合う期間もないままに、行き成り結婚させられるのであろうが、幾ら信仰とはいえ、それで本当に上手くいくのか。彼女は幸福になれるのか、後悔はしないのだろうか。
 考えれば考える程不思議、それを行うバルタン協会も、それを受け入れる若い女性信者の方も。何処か遠い国のおとぎ話のように思えてならない。しかし今現在この日本で行われている現実なのである。こんなことが許されて良いのだろうか。とはいっても例えば仮に彩子、彼女を説得し翻意させようとしても、何も詳しい事情を知らない第三者の自分が無責任に意見した所で、真剣に考え抜いて結論を出したであろう彼女が耳を傾ける筈がない。良し、ここは可能な限り情報収集を行い、理論武装すべきであると決意する哲雄。
 バルタン協会について、ブライダル布教について情報を集める。とはいっても時はまだインターネット普及前。よって手立ては、先ず出版物、それも第三者が客観的に著したものでなければ意味がない。次に雑誌、確か以前バルタン協会のスキャンダルについて、週刊誌が報じた記事が二、三あった筈である。そこで哲雄は大型書店の宗教コーナーと区立図書館を幾つか巡り、後はブースカ仏会の中でバルタン協会に詳しい人物を探し、話を聞いた。
 それらによって知り得たバルタン協会の評判は良いとも言い難く、しかし悪いとも言い切れない。スキャンダルについてはブライダル布教に関するものはなく、教団経営に関する委託コンサルタントとの金銭トラブルや、教団幹部が私生活で起こした不祥事で、関係者は処罰したり、該当幹部は教団から追放したりと既に解決済み。後は広域暴力団烏賊川組に教団の一部拠点の施設が乗っ取られそうになったのを信者一丸となって阻止したなど、どれもバルタン協会の評判を決定的に落とす程のものではない。また強引に入信させるなどの布教トラブルや多額の献金に関する信者、元信者からの訴訟の類もないようであるし、入信後の信者の定着率も悪くないようだ。布教と献金については幹部や専従者には厳しいノルマが課せられるそうであるが、普通の会社の営業ノルマのようなものだし、ブースカ仏会も含め他の教団も似たり寄ったりだから偉そうなことは言えない。本人さえ納得していれば良いことで、他人がとやかく言う筋合いのものではない。
 肝心のブライダル布教に関する情報であるが、ブースカ仏会信者との雑談で得られた噂レベルのものしかない。例えばブライダル布教で異国に旅立った日本人女性信者はみな、家族がバルタン協会の信仰に反対している者ばかりであり、それ故彼女らは家族とは縁を切る覚悟で旅立ち、嫁いだ後も家族に連絡することはないという。また心配した家族が我が娘の行く先や近況を教団に問い合わせても、本人が家族に知らせるのを嫌がっている、拒否しているからという理由で、教えてもらえないらしいとか。しかしあくまでも噂であるから、当てには出来ない。
 結局知り得たのはこの程度、残念ながらこれでは彩子を説得する材料とはなり得ない。矢張り彼女を翻意させるなんて無理なのかと、哲雄は落胆する。ところが再び保夫の夢を見る。これが二度目である。
 前回の夢同様、悲痛な面持ちにて哲雄へと訴えて来る彩子の死んだ兄保夫。訴えも変わらず「彩子を救ってくれ」である。
 しかしそう言われても、何をどう救って上げれば良いというのか。現在彼女はバルタン協会という自分の望む宗教団体に所属し、毎日布教活動に励んでいるではないか。それは人間としてひとりの女性として、実に誇らしく幸福なことではないのか。なのに、なぜ。そんな哲雄の疑問に答えるように、更に訴える保夫。
「妹の身に、大変な危機が迫っているのです」
 何、大変な危機。それは一体何だ。しかし直ぐにピンと来る哲雄である。もしかしてブライダル布教、例のアフリカ行きのことだろうか。そこで哲雄は保夫に向かって問い掛ける。
「お兄さん、大変な危機とは一体どんな危機なのですか。もしかしてアフリカ……」
 ふっと、物音で目が覚める哲雄。外は土砂降り、雨が激しく窓を叩いて止まない。この音か、残念無念。夢の続きを見せてくれと歯軋りしても、それはもう叶わぬ夢、無情なる夜明け前の雨である。
 保夫の夢の中で大変な危機が何かという答えは得られなかったが、哲雄はそれがどうしてもブライダル布教に関係している気がしてならない。しかも夢とはいっても、これで二回目。単なる夢と片付けるには、余りにも重い夢ではあるまいか。ブースカ仏会は仏教系であるから、霊や死後の世界を説いているのは勿論である。よって、もしかして死んだ保夫の霊が、何か訳あって妹である彩子の危機を事前に察知し、それを自分に伝え何とか救ってもらいたいと必死に縋って来ているのではないか、彩子が救われなければ成仏出来ないのではあるまいか、そう哲雄が考えても無理はないのである。所謂予知夢の類であり、もしそうであるならば、保夫が夢で訴えた彩子の身に迫る大変な危機とは、真のこと……。自分が何か自己の力を超えた何者かに動かされているのではないか、ふとそんな気がして戦慄を覚える哲雄である。それでも彩子を窮地から救いたいという想いは変わらない。
 しかし果たしてその大変な危機とは一体何か。もしそれが本当だとして、自分に彼女を救えるのか。いずれにせよ残された時間は決して長くはない。兎に角今は出来る限り彩子と顔を合わせ、何かをつかまねばならない。ブライダル布教についてそれとなく話を持ち掛け、もう少し詳しい事情を知らねば。切迫した想いと緊張感、今度は武者震いの哲雄である。
 こうして以後、祐天寺駅前で彩子と顔を合わせ、ふたりで話す機会を得たならば、ブライダル布教について可能な限り聴き出そうとする哲雄。
「向こうにもチャペルはあるんですか。何人位信者さんはいるんですかね」、「向こうと連絡は取れるんですか」、「相手の方も熱心な信仰者ですか。どんな仕事をされているんですか」等々。
 しかし彩子のガードは堅く、「あると聞いています。規模まではまだ聞いていません」とか「勿論連絡は取れますよ。彼とは何度か国際電話で近況を伝え合っていますし」、「仕事のことはまだ詳しくは聞いていませんが、信仰的にはとても熱心だと聞いています。話していても熱意が伝わって来ますし、尊敬に値する人物だと感じています」などと当たり障りのない返答に終始。従って有益な情報は得られないまま。
 尤も彩子が哲雄に自分に不利な情報を提供したり、ブライダル布教について問題点や不満を漏らす筈もないし、何より彩子本人が希望していることなのだから、幾ら哲雄が勝手にひとりで彩子を救いたいなどと力んだ所ですべては徒労に過ぎないのである。まさに彩子からしたら、余計なお世話といったところ。保夫さんの霊には申し訳ないが、どうぞあなたの方から直接夢で彩子さん御本人に訴えてくれませんか、などと呟きながら、祐天寺駅前から見える星空を仰ぐ哲雄であった。
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