(三・三)祐天寺駅前2

文字数 2,212文字

 今はすっかりバルタン協会の布教に専念する彩子も、以前は普通の会社員であった。高校卒業後地元横浜の大手電機会社に就職し順調と思えた二年目の二十歳、当時市立大学四年の兄保夫が自殺。それがきっかけで平凡だった筈の彩子の運命は大きく変化するのであった。
 海が見える市立大病院の最上階の窓から、丸で夏の海へとダイブするかのように飛び降りた保夫は即死。遺書はなく、自殺の動機は未だに不明。あんなに真面目でやさしかった兄さんが自殺するなんて。仲の良かったたったひとりの兄保夫の自殺は、彩子に大きなショックを与える。どうして死んじゃったの、兄さん。生まれてからずっと同じ家に住み毎日顔を合わせていながら、兄を助けられなかったと、後悔に苛まれ自責の念に駆られる彩子。
 同時に人の生命の儚さを初めて痛感し、人生というものに疑問を抱くようにもなる。生きることに空しさを覚え、自分は何の為に存在し毎日こうして生きているのだろう、自分には何ら生きる目的がないではないかと卑下して止まない。周囲を見回せば、遊ぶことのみに夢中な友人や同僚ばかりである。会社員を続けながらも、人生の意味と目的、どうして人は生まれ死ぬのか、死とは何か、どうしてこの世界は存在するのか等々、真実が知りたいと願い求めるようになる。
 そんな彩子が滅多に足を運ばない渋谷に、会社の取引先を訪ねる目的で出掛けたのが同じ年の十二月。社用を済ませ夕方ラッシュ時のJR渋谷駅前を歩いていたその時、バルタン協会の女性信者、田島京子から初めて声を掛けられる。バルタン協会の駅前布教に遭遇したという訳である。尤も宗教団体からの勧誘なら、会社員になってからというもの通勤帰りの横浜駅前で毎日のように受けており、すべて無視したり断っていた。にも関わらずこの日の彩子は声を掛けて来た同年代の田島京子に好感を抱き、また普段訪れない渋谷という場所柄も手伝ってか、何か運命的な出会いを感じた。少し話を聞くだけならいいかと、誘われるまま渋谷駅近くにあるバルタン協会の施設へと付いてゆく彩子であった。
 バルタン協会の門を潜るや、彩子は建物の中の狭い応接間に通される。そこには田島京子に加え、青年部リーダーの女性、渋谷地区のリーダーこれまた女性、後は彩子と同年代の若い女性信者数名が同席し、彩子を取り囲むように座った。しばし雑談の後、青年部リーダーによってバルタン協会の入門編とでもいうような講義が行われ、ビデオも見せられた。珈琲が出され一口啜ると妙に神経が高揚し興奮を覚えた為、それ以上は口にしなかった。入信後、何か特殊な薬物でも含まれているのかと田島に問うたことがあったが、バルタン協会独自で開発した魂を向上させる特別な薬であると教えられただけで、その正体が何であるかは今もって彩子には分からない。
 講義が終わると、既に彩子の腕時計、応接間に時計はなく、の針は二十時を回っていた。が彩子は帰宅を急ぐこともなく、時間を忘れ積極的に質問した。なぜなら講義で語られたことが、彩子の求めていたものを満たす内容だったからである。神様と悪魔について、現代社会が如何に悪魔によって支配され堕落しているか、しかしそれをどうやって神様が救って下さるか、最後の審判とユートピアの到来、その為にバルタン協会が行っている人類救済活動、人生の意味、目的と人間の死後について等々。
 自分の質問に真摯に答えてくれるバルタン協会のメンバーたちに心動かされ、彩子は不覚にも兄保夫の自殺の件を打ち明けてしまう。そのことで自分が如何に苦しんで来たか、兄を救えなかった空しさ、無力さを切々と訴えた。すると田島たちは皆、自分のことのように親身になって同情し慰め、勇気付けてくれる。わたしも友人が自殺しました、わたしも同じように悩んでました。でも今はこうやってバルタン協会の信仰によって立ち直っています。みんな同じですね、何かに傷つき、そして神様、バルタン協会と巡り会い、生きる希望を見出すのです。人生の逆境、艱難辛苦は実は神様と出会う絶好のチャンスなんですよ、雪川さんもその機会を是非掴んで下さい。わたしたち応援します、一緒に頑張りませんか。
 バルタン協会信者たちの励ましの中で、彩子は保夫の自殺以来ずっと重く沈んでいた心が軽くなってゆくのを感じ、前向きな自分に気付いてはっとする。ここの人たちって何ていい人ばかりなんだろう、この人たちとなら波長が合うというか、同じ世界観を共有出来そう。親近感を覚え、自分が既に彼女らの仲間のひとりであるかの如き錯覚にまで襲われてしまう彩子。そこへ来て田島京子からとどめの一言が発せられる。
「死んだお兄様のように密かにひとりぼっちで悩み苦しんでいる方が、この世の中には本当にたくさんいらっしゃるんですよ。わたしたちはそういう人たちを救う為に、活動しているんです」
 兄のように悩み苦しむ人たちを救う活動ですって、何て素晴らしい。これだ、っと閃く彩子。自分が求めていたものは、まさにこれなんだ。深い霧にも似た空しさに覆われていた彩子の心に、一筋の希望の光が差し込む。わたしの求めていたものが、ここにある……。こうなると彩子が田島京子たちの同志となるのは、最早時間の問題である。
 このようにしてバルタン協会への入信を決意した彩子は、家族の猛反対を押し切って年が明けると直ぐにバルタン協会に入信する。彩子二十歳のことである。
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