(九)ゼットンフォーラム5

文字数 4,733文字

 時は一九八二年十二月二十五日土曜日、いよいよブースカ仏会最大の式典『弥勒祭』の日である。式典は午前の部と午後の部に分かれ、開式は午前の部が十時、午後の部が午後七時である。哲雄と三人組は午後の部に参拝することになっており、従って午前の部は何事もなく平穏無事に終了。天気は雪もなく雨もなくついでに雲ひとつない日本晴れ、まさに弥勒祭日和と来ている。
 土曜日とあって会社が休みの哲雄は、昨夜の彩子との決別による傷心にも関わらず、健気にも朝から本部に来て奉仕活動に参加。というかマンションの部屋にひとりでじっとしているよりはこの方が遥かに気が紛れて良く、午前の部では入場整理員の役すらこなしたのである。
 ランチの後、午後も引き続き奉仕活動で本部の周りを清掃奉仕していると、マリリンがやって来る。「退屈だから、冷やかしに来ちゃった」と言うが、いつになく元気がない。
「お昼もう食べたの。お腹減ってんなら、どっか食べに行こうか」と哲雄が誘うも、矢張りかぶりを振るばかり。あれっ、もしかして急用が出来て弥勒祭に参拝出来なくなったんだけど、言い出せずにいるのかも。心配した哲雄はマリリンに問う。
「今夜の参拝、大丈夫」
「うん、大丈夫大丈夫。ね、哲ちゃんはやっぱり今夜来るよね、弥勒祭」
「そりゃね、みんなも来るし。青木さん、林川さんは大丈夫」
「うん、ふたりとも来る来る」と答えつつも、相変わらず浮かない顔で溜め息を吐くマリリンである。
「どしたの、何か元気ないね、今日の森原さん。心配事でもあるんじゃないの」
 するとマリリン。
「うん、ちょっとね。なんか悪い予感がすんの」
「悪い予感」
「割りと当たんのよ、あたしの予感」
「そうなんだ。でも、どんな予感」
「うん。それが、今夜辺り、ここで何か起こりそうで」
「何かって、もしかして弥勒祭の時」
「ん、どうしても、そんな気すんの。だから哲ちゃん、来ない方がいいかもよ今夜」
「そんな訳いかないよ」と苦笑いの哲雄。
「そんな訳いくよ。ね、弥勒祭なんていいから、あたしとデートしようよ、クリスマスなんだし」
「だから、だーめ。弥勒祭優先」
「じゃいい。じゃね」
 じゃねって。さっさと歩き出すマリリン。
「ね、ほんと大丈夫、今夜」
「うん。ね、あたし正月田舎帰るから、しばらく来れないかも」
「田舎って。東京生まれの東京育ちだって言ってなかったっけ」
「そうだっけ。ははは、はは、ばれちゃった。旅行、しばらく旅行するから」
「分かった分かった。教えてくれて有難う。じゃ会えるのは来年になるかもね」
「うん」と頷いて、「じゃ、さよなら」と手を振りながら、哲雄の前を去ってゆくマリリン。しかし今にも泣きそうなマリリンの顔が、気になって仕方がない。
 清掃奉仕の区切りが付いたら、夕方の式典入場開始まで空き時間。時間を持て余した哲雄は単独で教団施設を出ると、宛てもなくぶらぶらと渋谷の繁華街を歩いていたつもりが、気が付けば祐天寺駅前へと向かっている。渋谷駅から東横線に揺られ、祐天寺駅で下車。けれど改札を抜けても、そこに彩子の姿はある筈もない。今は既にもう横浜の自宅に戻ってアフリカへの出発準備に追われているか、それとも最後の礼拝の為まだバルタン協会の施設内にいるのか。
 ふっと溜め息の哲雄。しかし別れの辛さにも増して、どうしてもマリリンの話が気になって仕方がない。アフリカに旅立った人がなぜまたロンドンになど……。けれど、再び溜め息である。今更もう自分にはどうすることも出来ないのだ、最早彼女の運命はまさに神のみぞ知る、なのだから。

 その頃アーサーとチャーリーはゼットンフォーラムの敷地内にて、今夜ブースカ仏会の弥勒祭で使用する武器を受け取る。化学兵器ゼットンを詰め込んだ牛乳瓶程の大きさのガラス容器、これを格納した時限爆弾付きの四角い木箱である。これをそれぞれ一箱ずつ受け取り、自分の鞄の中に仕舞う。時限爆弾は今夜午後七時ジャスト詰まり弥勒祭のオープニングに合わせて爆発するようセットされており、カチカチ、カチカチッと丸で狂気と悪魔の鼓動の如く既に時を刻んでいる。指定時刻、時限爆弾が爆発するとガラス容器が割れ中の神経ガス即ち化学兵器ゼットンが周囲に散布されるという仕組みである。ゼットンフォーラムのチャペルにて破壊活動の成功を祈念した後、各々の鞄を下げ、いざ敵地ブースカ仏会本部へと出発するふたり。
 午後五時、弥勒祭、夜の部の神殿入場開始時刻であり、いよいよアーサーとチャーリーふたりのハルマゲドンの開始でもある。ふたりが神殿の入り口前に到着した時には既に多くの熱心な信者たちが列を成し待っており、入場開始のアナウンスと共にぞくぞくと入場。ふたりも何食わぬ顔で神殿へと入ってゆく。鞄の中のカチカチ音は周囲のざわめきに掻き消され、まだ気にする程のノイズではない。ふたりのゲットした参拝席は、二階の丁度中央。化学兵器ゼットンを撒き散らすにはこれ以上ない最高のポジションである。着席し待つことしばし、というか午後七時まではまだまだ先。ここは辛抱強く待つふたりである。
 午後六時、式典一時間前にも関わらず神殿は一階も二階も既に超満員。しかしその中に哲雄の姿は見当たらない。まだ周囲には信者たちの雑談があり、アーサーとチャーリーの鞄から漏れ聴こえ来るカチカチ音は何とか気付かれずにいる。しかし雑談が沈黙に帰する時、このカチカチ音がどの程度ノイズと化すかを想像すると、背筋も凍るふたりである。
 午後六時四十分、遂に行動開始。まずアーサーが近くの整理員に「トイレに行かせて」と声を掛け、席を立つ。その際直ぐに戻って来るからと、鞄は席に残したまま。神殿のトイレは一階にしかなく、従ってアーサーは階段で一階に下りる。ところが一階に下りたアーサーはトイレには入らず、神殿からこっそりと外に出てしまう。外に出たら後はもう一気、猛ダッシュで走り出し、逃げるようにブースカ仏会の敷地から飛び出すのである。外はもうすっかり日が沈み、辺りはまっ暗。走り続けながらアーサーはポケットに携帯していた小型の懐中電灯を取り出すと点灯し、その光で空中に大きく丸を描く。OKの合図である。その合図を待っていたのが誰あろう、我らがマリリン。マリリンは宮益坂公園入り口横にある公衆電話ボックスの中に潜んでいて、アーサーの合図を見届けるとそのまま時間調整の為待機。アーサーはアーサーでマリリンの横を通り過ぎると、何処へとも知れず去ってゆくのである。
 午後六時四十五分、次にチャーリーが「連れを捜して来る」と近くの整理員に声を掛け、これまた席に鞄を置いたまま離席し一階に向かう。しかしチャーリーもアーサー同様、神殿を飛び出し、そのまま逃走する。
 午後六時五十分、弥勒祭十分前。しかしアーサーとチャーリーは共に席に戻らず、彼らの残した鞄だけが各々パイプ椅子の上に置かれたまま。栄えある弥勒祭に際し、神殿に空席などあってはならない。それは神様への無礼に当たるからである。慌てた整理員たちは無線でやり取りし、一階の整理員が男子トイレをチェックするも、そこに人影はなし。おかしいなあ。慌てた整理員は幹部に指示を仰ぎ、神殿に入れず道場で参拝していた信者二名を急遽呼び寄せ、代わりに空席に着座させる。その際これまた道場にいたアーサーとチャーリーの世話係である哲雄を呼び出し、ふたりの残した鞄を「取り合えず、預かっといて」と手渡すのである。
 午後六時五十五分、弥勒祭開始五分前である。仕方なさそうにアーサーとチャーリーの鞄を抱え、道場に引き返す哲雄。
 その時刻、宮益坂公園入り口横の公衆電話ボックス内に待機していたマリリンは、満を持して受話器を上げる。番号は110番。警察が出ると、あらかじめ用意しておいた男性の音声による録音テープを受話器から流す。
「こちらはブースカ仏会である。我々はJR渋谷駅構内に強力なる猛毒ガスを仕掛けた。午後七時それは爆発し、帰宅ラッシュの大群衆は一瞬にして恐怖の大惨事に巻き込まれ、渋谷駅周辺は地獄と化すであろう。しかしこれは我々が計画する最後の審判のプロローグに過ぎないことを、ここに宣言する。以上」ガチャン。
 再び、ブースカ仏会である。厳粛なる弥勒祭の開始時刻を前にして、参拝者の雑談はとうに静まり信者は心静かに式典の幕が開くのを今か今かと待っている。従って敷地内の参拝場所は、神殿も道場もしーんと静寂の中……。と思いきや、道場の片隅で何やらカチカチ、カチカチッと、しかも二重奏で音がしているではないか。誰だ、おい、こんな時に。静かにしろ、と周囲の目が一点集中するその先にいるのは、我らが哲雄。
 哲雄とて、さっきからずっと気になって仕方がない。預かったアーサーとチャーリーの、その両方の鞄から発するノイズである。何だろう、この音は、まさか時計でもあるまいに。しかし他人の鞄故、開けて見る訳にもいかない、さてどうしよう。膝の上に載せたふたつの鞄をじっと見詰める哲雄である。カチカチ、カチカチッ……。
 しかし、このまま式典を迎える訳にもいかない。みんなの視線が痛い程に注がれる。それに、それにやっぱり気になるこの音、矢張り時計などである筈はなかろう、では、もしかして……。まさかそんな、どうしてあのふたりが。時限爆弾であるなどとは思いたくもないが、もし万が一そうであったなら大変なことに。
 カチカチ、カチカチッ……。でももう時間がない、式典開始時刻は刻一刻と迫っている。もう駄目だ、兎に角急がねば。弥勒祭に出れないのは残念だが、今年は諦めよう。そう思うが早いか哲雄はふたつの鞄を腕に抱えたまま立ち上がり、走り出す。「すいません、失礼しまーす」
 そこに居合わせた信者一同の視線と心配とを一身に浴びながら道場を退出し、建物である事務棟からも出ると、哲雄は両方の腕それぞれに鞄を下げ尚も走り続ける、ただ一心不乱に。しかし何処へ。それにもし本当に時限爆弾であるなら、こうして持ち続けている自分の身も危ない筈なのだが……。
 カチカチ、カチカチッ……。式典開始はもう直ぐ。哲雄は今、ブースカ仏会敷地内の庭のまん中。周りに人影はない。ならば良し、えいっと力の限りふたつの鞄を放り投げ、自分は地面にうずくまる。どきどき、どきどき……、高鳴る鼓動の中でその時哲雄の脳裏に浮かんだのは、彩子。彩子、おれ、もう駄目かも。有難う、きみと会えて良かった……。
 午後七時、弥勒祭の始まりである。と同時にドッカーン、ドッカーン。厳粛、静寂なる瞬間を打ち破って、庭の方角からふたつの爆発音が生じ、信者全員の耳に響き渡る。神殿、事務棟にいた信者たちは何事かと一斉に窓を開け、庭を見詰める。そこには破裂し飛び散ったふたつの鞄の残骸と、そして爆発の衝撃を受け血だらけで横たわる哲雄の姿が。
 ウーウー、ウーウー……と唸り声を上げるサイレンはパトカーのそれ。予告電話を受け、ブースカ仏会本部へと参上した警視庁である。調べによると、時限爆弾の爆発と有毒ガスによる被害者は、哲雄のみ。式典直前の為付近に人がいなかったことと、猛毒ガスと予告された筈の有毒ガスが意外にもしょぼかったお陰で、大惨事には至らずに済んだという。その哲雄はピーポーピーポー……と駆け付けた救急車で搬送され、今は既に救急病院のベッドの上。
 弥勒祭は即座に中止。現場検証の為、参拝者全員がひとり残らずその場に待機させられる。時と共に騒動は大きくなり、マスコミや野次馬が押し寄せる。ブースカ仏会施設と付近一帯は警視庁と機動隊による厳戒態勢が敷かれ、騒然とした雰囲気と緊迫した空気に包まれるのである。
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