(五・二)祐天寺駅前3

文字数 4,839文字

 また別の夜、既に冬近い夜の寒さも忘れ、ふたりは熱く語り合う。
「そもそも救済とは何ですか、人を救うとは」
「人をその窮地、危機、苦悩、悲しみから解放し、楽にして上げる、幸福へと導く。そういうことですよね」
「確かにその通りです。でも本当に人を救済出来ますか。人が誰かを救うなんて、出来るのですか。少なくともぼくには、そんな力は有りません」
「仰る通りです、わたしにだって有りません。人が人を救うのではなく、神様が救って下さるのです。わたしたちはその僕として、誰かを神様の許へお連れするのみです。後は神様が決めて下さいます、その人を救って下さるかどうか。わたしたちは神様の無力な道具に過ぎません。ただひたすら神様の御計画、御理想実現の為に働くのみなのです」
「では例えば自分が救いたいと思う人を一生懸命教会にお連れしても、神様がうん、と言わなければ駄目なのですね」
「ええ、そうなります、残念ですが」唇を噛む彩子。
「それでは、ぼくたちの意志はどうなるのですか。人間たちの意志や祈り、願い、希望とは一体何なのですか。誰かを救いたい、ひとりぼっちで悩み苦しみ、困難を前に苦悶し絶望する、そんな人たちを助けたい、何とかして上げたい、救いの手を差し伸べたい、今もこの地球上で飢え渇き苦しみのたうちまわる人のことを思うと居ても立っても居られない。そんな止むに止まれぬ想いに突き動かされ、今夜も日本の何処かで、同世代の若者たちが遊び回り快楽に耽っているその時に、懸命に布教活動に明け暮れる青年たちの切なる願いとは、余りにも一途なそのひた向きさが、やがて本当に報われる時は来るのでしょうか」
「来ます、来ると信じています、少なくともわたしは」
 顔を上げ、じっと哲雄を見詰める彩子。その瞳が美しいと哲雄は思う。
「すいません、ちょっと興奮してしまったみたいで。でもどうして神様って、最後の審判なんて方法をお取りになるのだろう。どうして滅ぼすことばかりお考えになるのだろう。なぜ悪を、悪魔に取り憑かれ邪悪に走る人たちすらも回心させるような、完全で清く美しい教えによって、星が誕生して滅する程の永い永い年月を掛け、穏やかで自然な時の流れの中に、気付いたら人類全部が互いに互いを救済したいと願い合う、そんな世界を創り出すことは不可能なのだろうか。それこそが真の救済ではないのかと、自分なりには思うのですが」
「わたしもそうあれば、どんなにかいいだろうと願います。だからこそ、わたしたち想いを純粋な救済への祈りによって満たし、今精一杯わたしたちに出来ることとして、今夜こうしてここ祐天寺駅前で布教しているんじゃありませんか、そうでしょう。神様はわたしたちのそんなひた向きな想いに、必ずや応えて下さるものと信じています。だから先ずわたしたちが道具として手足となって、神様の許へひとりでも多くの人をお導きするのです」
「しかし、残された時間はもうあと僅か。ユートピアに残される人の数は少なく、最後の審判によって滅亡する人が殆どです」
「だからこそ今わたしたちが立ち上がり、ひとりでも多くの人を救うんじゃありませんか。その為に自分の人生も夢も楽しみ喜びも捨て、わたしたち、こうして頑張っているんじゃないですか」
「しかし」
「どうしたんですか、哲雄さんらしくない。頑張りましょうよ。わたしたち、人類救済の同志じゃありませんか。わたしたち同志でしょ、同志ですよね」
 彩子の手が、哲雄の手をぎゅっと握り締める。どきどき、どきどき……、哲雄の鼓動が高鳴る、胸が締め付けられてならない。彩子の、その手はか細く、寒さに冷たくなっているけれど、柔らかくかつ人の血の温もりが確かに脈々と波打っている。確かに彼女もひとりの人間として、ひとりの女性として生きているのだ。出来るなら、と哲雄は願う、否祈る、神に向かって。どうか、この人をお救い下さい。自分などどうなっても構いませんから。
「あっ、すいません、つい」
 彩子の手が離れる、まっ赤なその頬が下を向く。どきどき、どきどき……、けれど哲雄の鼓動の波は激しく高鳴り続ける。
「いいえ、こっちこそ。同志と思って下さって光栄です。では最後にもうひとつ、質問させて下さい」
「はい、何でしょう」顔を上げる彩子。
「あなたは、自分が救済されると思っていますか。若しくはそれを望んでいますか」
「えっ」
 見詰め合うふたり。
「勿論です、少なくとも望んでいます。でも哲雄さんは」
「ぼくですか」
「哲雄さんは、どうなんですか」
「正直なところ、ぼくは望んでいないんです」
「またっ、そんなことを」彩子の口から溜め息が漏れる。
「すいません。でもぼくはほんとに、自分以外の人が救われればそれでいいかなあなんて。結局世の中から悩み苦しむ人がひとりもいなくなれば、それで充分な人間ですから。なーんて恰好ばっか付けてますけど」
「でも、本当はわたしもそうなのかも知れません」
 そしてまた、祐天寺駅前での布教に励むふたりである。

 こうして哲雄の前では平静を装う彩子であるが、内心穏やかである筈はない。遠くの親戚より近くの他人という訳でもないが、日々顔を合わせ熱い信仰談義を繰り返していれば、哲雄への想いはますます激しく強くなる一方である。ただでさえバルタン協会が決めたということ以外、遠いアフリカの地にいるフィアンセに対し好意を抱く根拠のない彩子にしてみれば、哲雄に引かれゆくのは女として当然のこと。自らの中に生じた哲雄への恋心は今や否定するどころか完全に成熟し、今更ながら彩子を愕然とさせるばかりである。
 バルタン協会から渡されたフィアンセの写真は定期入れの中に収め、肌身離さず携帯してはいるものの、近頃では眺めることも語り掛けることもすっかり忘却している。このままではとてもアフリカへなど旅立てない、かといって延期や撤回など以ての外。それは何よりも神に背く重大な罪に当たるからであり、従ってただひたすら神に縋り、祈るしかない彩子である。
「どうぞ神様、わたくしの中に生じた、この布教を妨げる忌わしき雑念をお払い下さい。そしてお約束致しました通り、ブライダル布教へと旅立たせて頂き、あなたの僕としてどうぞわたくしをお使い下さい」
 それでも哲雄と会わずにいられず、ついまた祐天寺駅前へと足を向けてしまう彩子であった。
 一方哲雄の方はどうか。折りしもゼットンフォーラムによるブースカ仏会への嫌がらせ、布教妨害が激しさを増し、教団としてそろそろ何らかの手を打たねばと幹部連中が日夜緊急会議を開いていた時期である。その結果、ブースカ仏会としての新たな布教方針が打ち出されるに至るが、その内容は布教活動に熱心な都市部の青年信者たちにとって衝撃的なものであった。というのも一旦全国に於ける駅前、街頭での布教活動を一切休止し、すべて戸別訪問に切り替える、としたからである。地方なら兎も角、都市部での戸別訪問による布教はやり辛くかつ成績も芳しくないのは目に見えており、ブースカ仏会の布教能力の低下は避けられない。しかしゼットンフォーラムの妨害に屈せず布教活動を継続させるには、これ以外選択の余地がないのも事実であり、まさに苦肉の策と言わざるを得ない。
 これにより哲雄もまた祐天寺駅前での布教が行えなくなり、従って彩子と顔を合わせる機会をも失うのである。突然彩子と会う機会を喪失する、もう彩子と会えない。このことが哲雄に、今迄眠っていた自らの感情を呼び覚ます契機となる。彩子と会えなくなるなんて絶対に嫌だ、会いたい、彩子に会いたい。激しい衝動が哲雄を襲うその瞬間、哲雄は恋に落ちていたという訳である。そうか、自分は彼女が好きだったのか。けれどバルタン協会という異教徒の女性である故、そんな筈はないとつい思い込んでいたのだ……。
 それでも教団の方針に逆らう訳にもいかず、哲雄は彩子に会えない切なさ、寂しさを引き摺ったまま、同志と共に戸別訪問に取り組むことに。とはいっても幾ら何でも今時夜間の戸別訪問など、悪質な押し売りでもやらない。従って参加出来るのは、休日である土日の昼間だけ。布教チームに加わりリーダーの指示の下、二人一組でひたすらせっせと一軒一軒回ってゆくのである。
 予想通り、東京での新興宗教の戸別訪問は困難を極める。アパート、マンションが多い為回る効率は良いが、利点はそれ位である。留守が多く、居てもインターホン越しの応対だったり、たまに玄関に出て来ても大概反応は冷たい。宗教と聴くや、ころりと態度が変わる。冷たくあしらわれ、批判されたり、ばかにされたり、大声で怒鳴られたり。果ては包丁を向けられたり、無理矢理部屋に引き摺り込まれそうになるなど、常に危険と隣り合わせでもある。その癖良い成果は得られず、専従者が一週間せっせと回って、やっとひとりかふたり教団に案内出来れば良い方であるという。こうしてブースカ仏会は街頭、駅前布教の頃に比べ、布教成績は著しく低下し、新しい信者の獲得数は激減するのである。
 そして哲雄が教団の方針に従い祐天寺駅に行かなくなって十日目である。それまで平日の夜は参拝を終え、土日も戸別訪問が終わる夕方にはそのまま渋谷駅から自由が丘までまっ直ぐに帰宅していたのだが、彩子会いたさの想いは募り、とうとう我慢出来なくなった哲雄はその夜東横線を途中下車、遂に祐天寺駅へと降り立つのである。布教をしなければ、ブースカ仏会の信者としてでなければ、個人的にひとりの人間として何処へゆこうとそれは人の勝手ではないか、そんな屁理屈を自分に言い聞かせながら。
 ホームを下り、改札へと向かう。どきどき、どきどき……、けれど悪戯に高鳴る鼓動を抑え切れない。以前あんなに毎晩訪れていた場所であるのに、そして相手は毎晩顔を合わせていた彩子なのに。と思った緊張と不安も束の間、目の前に祐天寺駅前の景色が広がるや、ほっと落ち着く哲雄である。ああ、ここは何も変わっていない。しかも直ぐに布教する彩子の姿が目に飛び込んで来る。良かった、彼女は何も変わらず、ずっとここに居てくれたのだ。懐かしさと切なさとが込み上げ、哲雄の中で絡み合う。
 彩子の方も直ぐに、駅の改札に現れた哲雄に気付く。はっと息を呑んだ後、彼女の表情が綻ぶ。駅前でふたりは立ち止まり、無言のうちにしばし見詰め合う。
「ご無沙汰してました」哲雄が笑い掛ける。
「どうしていらしたんですか。でも、良かった」溜め息混じりの彩子である。
「実は……」と他言しないことを約束に、ブースカ仏会の布教方針を差し支えない程度に話す哲雄。勿論理由がゼットンフォーラムに妨害されてなどとは漏らさない。
「戸別訪問ですか、それは大変ですね」
「はい、でも仕方ありません。どうですか、ここは。以前と変わりありませんか」
「ええ、だってまだ十日経っただけですから」
「あっ、そうか」頭掻き掻き苦笑いの哲雄。
 こうしてまた以前と変わらず、哲雄は祐天寺駅前へと足を運び、ふたりは熱く宗教談義を交わし合うようになる。以前と変わったのは、哲雄の彩子への想いだけである。単なる彩子の救済という気持ちからばかりでなく、男としての恋愛感情が加わったことで、彩子のアフリカ行きを何とか止めさせたいという願いは、更に強く切実さを増すに至る。
 加えて再び保夫の夢を見る哲雄。これで三度目、三度目の正直という訳である。
「後生ですから、何卒彩子を助けて下さい」
 そう懇願されなくとも、哲雄だって助けたいのは山々。
「どうすればいいのですか、お兄さん。自分に一体何が出来るというのですか。お願いですから、教えて下さい」
 夢の中で哲雄は懸命に問い続ける。しかし相手もまた「助けてくれ、助けてくれ」と繰り返すばかりで、さっぱり埒が明かない。
 はっと目が覚めると、もう真冬かと思う程に厳しい夜明け前の底冷えである。残された時間の少なさを、弥が上にも哲雄へと知らしめるかのように。
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