(七・三)祐天寺駅前4

文字数 3,738文字

「行かないでほしい」
 哲雄の言葉が耳から離れない。祐天寺駅で哲雄と別れた後、ひとり渋谷のバルタン協会へと戻る彩子。まさかあの人からあんなことを告げられるなんて、どうしよう。アフリカ行きに迷いが生じ、今まさに激しく揺れ動く彩子の心。
 こんな時、今迄の彩子であるなら迷わずチャペルに足を運び、ひとり神に向かって切々と祈りを捧げる。そして自らに聴こえ来る神からの『祝福』を待ち、それに我が運命を任せていた筈である。しかし今宵の彩子はまだ気持ちの整理がつかない、今はまだすべてを神に委ねられる自信がないのである。
 混乱、動揺、躓き。何も手に付かず、どうしていいのか見当がつかない。出来るなら何処か遠くへゆき、ひとりになってゆっくりと考えたい。ああ、家に帰りたい。しかしもう既に時は真夜中。仕方なく他の布教者が眠る合宿部屋で、自らも布団を敷き横になる。けれど眠れない。悶々とした夜を過ごすばかり。
 そんな日が三日三晩と続き、布教にも身が入らない。ところが肝心の哲雄は、自分の言いたいことはもうすべて伝え切ったとでも思っているのか、あれから一向に彩子の前に姿を見せないでいる。ますます落ち着かず、気持ちはただひたすら哲雄を待ち侘びている彩子。
 そんな彩子の様子を心配した黒岩教師が見るに見かね、彩子に声を掛けたのが十二月二十三日である。
「どうかしましたか、雪川シスター。最近落ち着きのないように見受けられますが」
「あっ、いいえ。ご心配をお掛けして申し訳ありません」
「そろそろ出発も近付いていますから、誰しも平常心でいられないのは当然のことです。しかし今更焦っても仕方ありません。すべては神様の為さるままに、我々はただその後を付いてゆくのみ。宜しいですか、残された日本での僅かな日々を悔いなきように、精一杯過ごそうではありませんか」
「はい、有難うございます」
「ここだけの話、何か、心配事でも」
 やさしく問うて来る黒岩教師に、つい正直にブライダル布教への迷いを打ち明けてみようかとも一瞬思ったけれど、余計な心配を掛けてはならない。先生はお忙しい身なのだ、大事な救済活動を邪魔してはならない。それにやっぱり自分ひとりで決断すべきことなのだ。彩子は健気に微笑み返すのみである。
「いいえ、何も問題ありません」
 ところがその晩、渋谷のバルタン協会施設に一本の国際電話が掛かって来る。彩子のフィアンセ、ザビエル・ミカエル・カルマからである。取り次がれ電話に出る彩子。
「Hello...」
 聞き覚えのあるザビエルの声が、英語で語り掛ける。対して彩子は、片言の英語で必死の受け答え。何でも昨日チャペルの清掃奉仕中に、過って足を滑らせ屋根から転落し、足を大怪我してしまったと言うのである。幸い骨折までには至らなかったが、現在松葉杖で歩行に支障をきたしているとも。早くこっちに来て、自分をサポートしてほしいと、熱烈に懇願するザビエル。
「I love you,Ayako My Love.」
 年が明けたら自分が訪れることを信じて疑わず、陽気に別れを告げるザビエルの電話。受話器を置いた後、ガツンと頭を殴られたかの如く、しばし直立不動の彩子である。我に返るなり、その足でチャペルへとまっ直ぐに向かい、神様の御前に額ずく。額ずき涙ながらに神様へと訴え掛けるその言葉は、叫びにも似る。
「神様、彼ザビエルの怪我は、わたくしのせいなのですね。一瞬でもアフリカ行きを迷ったわたくしへの、神様、あなたに背こうとしたわたくしへの、これは罰なのですね。神様、申し訳ありません。どうかわたくしをお許し下さい。そしてもし許されるなら、どうぞわたくしの身も心も、わたくしのすべてを思う存分ブライダル布教にお使い下さい」
 瞳に溢れ来る涙は止め処なく頬を伝い、チャペルの床へと滴り落ちる。しばし無言のままに泣き崩れる彩子の耳に、そして『祝福』が届く。
『汝、悪魔の誘惑に屈することなかれ。悪魔は天地創造の昔より禁断の果実によりて、いつの世も忠実なる我が僕をばたぶらかすものなり』
 幾度となくその声に頷く彩子の、最早その心に迷いはなし。涙に濡れた瞳を閉じて、床にひれ伏すのみである。気付けば彩子は、チャペルの床にうずくまったまま一晩を明かす。
 そして十二月二十四日が訪れる。この日は日本に於ける彩子最後の布教日であり、彩子はいつもと変わりなく朝から祐天寺駅前にて布教に精を出す。最早ブライダル布教への迷いが去った彩子に恐れるものは何もなく、その心には清々しい気持ちと、日本を離れる感傷のみが有るばかり。
 夕方ところがそんな彩子の前に、ひょっこりと哲雄が再び姿を現す。彩子に告白したあの夜以来のこと。相変わらずレコードショップでは大貫妙子の『クリシェ』が掛かっている。始めに口を開いた哲雄。
「ご無沙汰してしまいました。来なければとは思っていたのですが、ブースカ仏会の方の用事が忙しくて」
「そうでしたか、心配しておりました。お元気そうで何よりです。バルタン協会も今は大忙しですよ。でも本当に良かった、最後にお会い出来て」
 最後に、ということは……。彩子の言動と態度の中に、最早何か悟ったような潔さと自分の信仰以外は何ものも寄せ付けない強さとを感じる哲雄。ああ、もしかして、もう駄目なのかも。こちらももう諦めねばならないのかと、覚悟を決める哲雄である。
「三上さん、わたし」
「はい」
 朗らかに答えつつも、哲雄は耳を塞いでしまいたい。
「やっぱりわたし、アフリカへ出発することに致しました」
 ああ、やっぱり……、駄目か。
「そうでしたか、とても残念です。でもあなたが、あなた自身の意志で決められたことなのでしたら、仕方がありません。ぼくは、自分は、失恋ってことですかね。あーあ、恰好わりい」
 精一杯明るく振舞ってみせる哲雄である。
「そんな……。三上さん、ではいろいろとお世話になりました。本当に楽しかったです、有難うございました」
「いいえ、こちらこそ。いろいろと勉強にもなりましたし。本当に有難う」
 微笑み合うふたり。
「明日クリスマスの礼拝を終えたら、わたし出発準備の為、自宅に戻ります」
「明日」
「ええ。そのまま年が明けたら、出発です」
「そうなんですか」
「ですからもうこれで、今夜で最後になります」
 そうか、そりゃそうだ。ということは、もうこれで会えなくなる……。けれど今更何も出来はしない。最早彼女の心を変えることなど不可能なのだから。ならばこれ以上彼女の前にいても、自分が惨めになるだけだ。もうこの場所にいても、空しいだけ……。
「では、これで失礼します」
 別れの言葉を切り出す哲雄。
「そうですね。三上さんも日本で布教頑張って下さい」
「ええ、まあぼくなりに」
「わたしたち、同志ですよね」
「えっ」
「今でもわたしたち、同志だと信じています」
 哲雄を見詰める彩子。
「そう言って頂けると、嬉しいです。ではほんとにこれで」
 お辞儀をして立ち去ろうとする哲雄。
「本当にお世話になりました」
 深々とお辞儀を返す彩子。既にもう哲雄は背中向け、駅の改札へと歩き出している。別れゆくふたりの耳には、ふたりの祐天寺駅前にはやっぱり『風の道』の旋律が流れている。
 改札を抜け、一旦は帰宅のつもりで下りホームに足を向け掛けたけれど、気が変わり哲雄は上りのホームで出発間際の東横線に飛び乗る。ひとりぼっちでなどとてもいられない、このまま誰もいないマンションになど帰りたくない、そう思ったからである。
 窓に映る車内の景色をぼんやりと眺めながら、浮かぶのは彩子のことばかり。結局彼女を止めることは出来なかった。彼女はもう遠いアフリカの地へと行ってしまうのだ。これでもう永久に会うこともない。そう思うと胸が張り裂けそうで息が詰まり、電車からつい飛び出したくなる衝動を抑え難い。何とか渋谷に到着し電車を降り改札を出ても、行く宛てなどあろう筈もなく、ただぶらぶらと人込みに紛れながら渋谷の繁華街を彷徨い歩くのみである。
 クリスマスイヴの夜の渋谷はそれは華やかで、擦れ違うのはカップルや賑やかな若者たちばかり。彩子への失恋に沈む哲雄にはきらびやか過ぎて、場違いでならない。異教の行事とはいえ今夜は敬虔な夜である筈なのに、この国では聖なる夜を静かな祈りの中で過ごそうなどという習慣は身に付かないものなのか、などと溜め息の哲雄である。静かな祈り、敬虔な祈り、祈り……、そうだ。群衆の中で突然足を止める。せめて彼女の為に祈ろう、無事出発出来るよう、そして彼の地で布教が上手くいくように。そう思い立った哲雄は、一路ブースカ仏会の神殿へと急ぐ。
 宮益坂公園を通り抜ける途中、木枯らしが木々の枝を揺らし、凍り付くよな冷たい風が哲雄の頬に突き刺さるように吹き過ぎる。ふーっ、冷たい。公園の中で立ち止まる哲雄。風、風かあ……。気付いたら哲雄は歌を口遊んでいる。いつのまに覚えてしまったのか、曲は大貫妙子の『風の道』である。口遊みながら、哲雄の目には涙が滲んでいる。
 寒々とした夜気の中で見上げれば、空には冬の星座が瞬いている。涙を通してぼんやりと煌めく星々の光は、今にも哲雄の頭上に降り注いで来るかのようである。
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