(三・二)祐天寺駅前2

文字数 4,586文字

 ところがである。哲雄に自身のアフリカ行きを伝えたあの夜から、実は彩子の気持ちに重大な変化が生じていたのである。あの時哲雄は「……後もう二ヶ月半ですか。……寂しくなりますね」と彩子に漏らした。確かにその通り、寂しくなる。だって後二ヶ月半、それでもう二度と哲雄とは会えなくなるのだから。恐らくは未来永劫、もうあの人と会うことはない、会うことは……。寂しい、いや、寂しいどころではない。「嫌」と彩子の心が彩子に向かって叫ぶ。「絶対嫌、哲雄さんと会えなくなるなんて、とても考えられない……」。そう思った瞬間彩子は、自分が哲雄に対して特別な感情詰まりは恋愛感情、恋心を抱いていることにはっきりと気付いたのである。
 その瞬間から彩子の胸に、恋の刃が突き刺さる。突き刺さり、その胸を引き裂き激しくえぐる。かと思えば半面甘い蜜の如く、哲雄へのときめき、切なさ、いとしさが、彩子の心を誘い捕らえて離さない。それを彩子は信仰の躓き、悪魔の誘惑と称し、或いは禁断の木の実に喩えながら、必死で抗い非難し拒絶する。けれど拒絶すればするほど、哲雄の面影は彩子の心を狂おしく弄んで止まないのである。
 こうして信仰と恋愛との狭間で、彩子の乙女心は激しく揺れ動く。忠実な神の僕であった筈の彩子の鉄のように強固な信仰心は根底から揺らぎ、それを何とか食い止めようともがく彩子。尤も哲雄が異教徒であること自体は、何ら問題はない。現にバルタン協会の信者の中には配偶者が無神論者や他教徒というケースは有り、自分の信仰を妨害する人でなければ一向に構わない。だから彩子とて決まった人さえいなければ、哲雄が相手であろうと何も苦しむことはなかったのである。しかし自分には決まった人がいる、自分は既にフィアンセの有る身なのだ。しかもブライダル布教という教団の否神様のお決めになられた相手ではないか。今更撤回など出来ないし、そんなことをしようなどとは気が狂っても思いはしない、そうではないのか。なのにおまえは神様を裏切るのか、命より大事な信仰を捨てるというのか。自らを厳しく罵り戒める彩子である。
 何とか一日の布教を終え渋谷の教団施設に帰り着くと、彩子はひとりチャペルに赴き、就寝前の礼拝の中で床にひれ伏しひたすらに祈る。
「どうぞ神様、わたくしの心に巣食ったこの邪悪なる魔物を、わたくしの心から去らせて下さい。すべては御心のままに、どうぞわたくしを人類救済の道具としてお使い下さり、何卒ブライダル布教へと旅立たせて下さい」
 同時に哲雄の幸いを祈ることも忘れない。
「わたくしが遠い地へと旅立つその前に、どうぞ三上哲雄がこの聖なる場所に許されますように。それがわたくしの日本での最後のおつとめとして果たせますよう、どうぞお導き下さい」
 一方哲雄もまた日々の参拝の中で、自らの神に祈る、合掌し深く目を閉じて。
「神様どうぞ、雪川彩子さんをお救い下さい。もしも彼女の前に災いが起こらんとしているのならば、どうぞ彼女をお守り下さい。その為に自分は毎日ここに参拝し祈り、可能な限り布教活動にも参加させて頂くことをお約束致します」
 そして閃く。そうだ、駄目元でブースカ仏会の教えを彼女に伝えてみよう。そしたら万にひとつの奇蹟が起こり彼女の心が変わって、アフリカ行きを止めてくれるかも知れないぞ。そもそもそういう人力を超えた奇蹟が起こらなければ、人が神を信仰している価値などない訳だし。
 こうして彩子と哲雄は相手に知られることなく、密かに互いのことを祈り合う。そして祐天寺駅前では、相手を救済せんという一途な願いを胸に秘めながら、例によって宗教談義を熱く交わし合うのである。
「最後の審判とは、詰まり何だと思いますか」
「それはユートピア到来の前に、人類が受けなければならない神のお裁きです」
「裁き。でも本当に二十世紀末に来ますかね」
「来るかどうか断言は出来ませんが、少なくともわたしたちバルタン協会の信者は来ると信じています。だからこそ今こうして布教を急いでいるのです。でもその時期を後に延ばすことは、十分可能だと思います」
「それはどうやって」
「わたしたちの布教活動によってですよ」
「ぼくたちの」
「ええ、それにより、ひとりでも多くの人が救われる可能性が出てくれば、神様は猶予期間として先に延ばして下さるでしょう」
「成る程。で最後の審判即ち神の裁きが行われると、一体世界はどうなりますか」
「今の所殆どの人類が、その罪の裁きを受け滅亡すると言われています。ですが以前も申し上げましたように、それで世界が終わってしまうのではなく、僅かに残った人類によってユートピアが営まれるのです」
「僅かに残された人類にとっては、最後の審判とは世界の終わりではなく、むしろユートピア詰まり新世界幕開けの序曲とでも言える訳ですね。けれど滅びゆく殆どの人類にとっては矢張り、最後の審判が世界の終わりであることに変わりはない。だってその人たちの世界は、それで完全に潰えてしまう、無に帰してしまうのですから」
「ええ、ですからこそ、わたしたちがひとりでも多くの人々を救わなければならないのですよ」
「御尤もです。ではぼくたちは責任重大という訳ですね。でも、いいですか、そもそもどうして神は人類を裁くのですか。なぜ裁かねばならないのか……、ぼくはいつもここで躓いてしまう。わざわざ裁かなくても、みんな残せばいいんじゃないでしょうか。全知全能、この宇宙の創造主であられる神様ならば、宇宙に於いては僅かひとつの惑星に過ぎないこの地球の上に存在する、僅かひと種類の生きものに過ぎない人類のすべてを、ひとり残らず回心させること位朝飯前、簡単なことなのではないんですかね。それをせずして、ただ裁きの名の下にユートピアに暮らす資格を有する、何てちっぽけな資格でしょう、僅かな者だけを残そうなんて、何てけち臭い。だったら最初っから宇宙創造の始めより、地球上にユートピアを創造し、その中に神様お気に入りの僅かな人類を住まわせれば良かったんじゃないですか」
「でも、そんなこと言ったら、今迄の人類の歴史はすべて無駄になってしまいます」
「そう、そうなんですよ。仰る通り、わざわざ滅ぼすというか神様の側からしたら創ったものを潰す壊す、そんなことをする位だったら最初からこんな世界なんて創造しなければ良かったんです、まさに大いなる無駄です。こんな不完全で未熟で醜く堕落腐敗した世の中など要らないじゃないですか。いずれは滅びてしまうんですから、そもそも意味もへったくれもありません。さんざ苦労して勉強して働いてお金を貯めて結婚して子どもを産んで家を建てたって、結局滅びて地位も名誉も財産も家族もみんな失ってしまうのだったら、まったく骨折り損の草臥れ儲けじゃありませんか」
「それは確かにそうです。滅びゆく人にとってはそうかもしれません。でも残される者にとって、やがて滅び去るこの世界や今迄の歴史、そして世紀末、最後の審判を迎えんとしている今の時代は、決して無駄ではない筈です」
「無駄ではない、じゃ何か意味があると言うのですか。やがて滅び潰えるこの世界に」
「ええ勿論」
「どんな」
「例えば、魂の、或いは愛の修行」
「愛の修行、ですか」
 黙り込む哲雄。
「この世界の人それぞれに与えられた人生、環境は、それ即ちその人にとっての修行の場なのです。神様はわたしたちに一体何を学ばせようとしてわたしたちを創ったか。それは、愛です。わたしたちは愛を通じてのみ、神様を知ることが出来るのです。ですから愛を学ぶということ、それは大変厳しい血の滲むような修行になるのです。同時に、それが神様のメンタルテストでもあります」
「メンタルテスト」
「そうです。この世界と自らの人生を通して、ちゃんと愛を学ぶことが出来たかどうか。これこそが最後の審判になるのです。厳しい修行を積み、愛の意味を悟り神様を心から信じられた魂だけが、ユートピアに於いて神様と共に永久の栄えに至る資格を得られるのです。なぜならユートピアとは愛の世界であり、愛がなければ存在出来ない場所なのですから。愛がなければ生きられない世界。ですから愛を学ばなかった者をユートピアに残すことは、神様でも出来ないのです。でも神様だって本当はすべての人類をお残しになりたい。それが神様の切なる願いであり、それを実現させるのが布教活動であり、その為に御使い頂く道具としてのわたしたちなのです」
「成る程、分かりました。ではその、最後の審判の裁きの判断材料となる個人の中の愛の有無、あの人には愛が有り、この人には愛はないというのは、どうやって見分けるのですか。何か基準でも有るんですか」
「いいえ、すべて神様がお決めになられるのだと思います」
「そうですか。では、その愛とは、一体どんな愛ですか。否そもそも、愛とは何ですか」
 彩子を見詰めながら、真顔で問う哲雄。
「難しいご質問ですね」
 頬を赤らめ、俯きがちに哲雄を見詰め返す彩子。
「すいません」照れ臭そうに、哲雄も足元に目を落とす。愛とは何か、哲雄自身もまた考える。神様の御眼鏡に適う愛とは、ユートピアに残される唯一の条件としての、ユートピアで生きてゆく為に必要な愛とは……。
「それは」と彩子が答える。
「それは犠牲或いは献身の心、ではないでしょうか。自らの生命さえも投げ打って顧みず、人を救いたいと願う、そんな心だと信じています」
 それはまた何と信仰的な、きみって人は。再び彩子を見詰める哲雄である。
「ぼくも同感です」
 哲雄の言葉に、ほっと溜め息を吐く彩子。
「でもぼくの場合、もっとシンプルです。もし自分が神様だったとして、何を基準に裁くか。何だと思います」
「さあ」
「やさしさ」
「やさしさ」
「そうです。ただそれだけで充分だと思いませんか。すべての人がやさしい心を持つ。やさしい心でこの世界を生きてゆく。すべての人がそうなっただけで、ただそれだけで、もうこの世界は充分に天国否失礼、ユートピアだと思いませんか」
「そうですね、確かにそう」頷く彩子。その顔に笑みが零れる、丸で少女のそれである。哲雄はそんな彩子の顔を美しいと思う。
「そして許す心」
「許す心、それも同感です。流石ですね」
「尤もこっちは最後の審判、神様が裁かれるという行為と矛盾しますけどね」
「あっ、そうですね。確かにそうです」考え込む彩子。
「おっと、すいません。生意気なこと言ってしまって」頭を掻く哲雄。
「いいえ、こちらこそまだまだ未熟なもので、ちゃんとご質問に答えられたかどうか」
「いえ、充分な回答を頂きました。とても楽しかったです」
 笑い合うふたり。しばし沈黙の後、彩子が問う。
「でもわたしたち違う教団にいても、同志ですよね」
「同志、そうですね」
「ずっと人類救済の同志として、共に励んでゆけたらいいなあって思います」
 微笑む彩子に、答えて哲雄。
「はい、後二ヶ月とちょっとですけどね」
 その言葉に、彩子の顔からさっと笑顔が失われる。強張った顔で夜空を見上げれば、遠いアフリカの地までも続くような星々、銀河の瞬きである。
「いいえ、たとえ遠い場所にいても、やっぱりわたしたちは、いつまでも同志ですよ」
「そうですね、失礼しました」
 気付けばもう二十二時過ぎ。こうして時を忘れ語り合うふたりだった。
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