(五・一)祐天寺駅前3

文字数 2,863文字

 月が替わり、十一月。表面上彩子と哲雄の関係に変化はない。相変わらず宗教談義を繰り返し、互いの意見と信仰とを熱くぶつけ合うふたりである。
「では、そのユートピアとは一体どんな世界ですか」
「また難問ですね」
「確かにそうだなあ。では、それは今迄の世界の延長だと思いますか、それとも何もかも異なる別世界、新世界ですか」
「バルタン協会では、具体的な説明は有りません。なぜならそれは神様の為さることですから、被創造物であるわたしたち人間には想像もつかないし、また人間に分かるようなレベルであっては神様の力も大したことないな、となりますよね」
「確かにそうですね。では雪川さんは、個人的にはどんな世界であってほしいと願いますか」
「はい、そうですねえ……。正直そこまで考えたことは今迄有りませんでした。何しろ布教活動、目の前の人を救わなければという想いで、いつも頭の中がいっぱいなもので。でも、そうですねえ……」
「例えば人間はどうなっていますか。今の人間とは違う、超人のようになっていたり」
「まあ」
「それこそ空を飛べたり、物を食べなくても太陽の光だけで生きられたり。だからトイレも不要、年を取らなかったり、病気もしない、とか」
「あら、面白そうですね。でもあんまり、そんなふうにはなって欲しくないかなあ。だって、人間としての生活の喜びがなくなってしまいそうで」
「じゃ雪川さんは、人間は今のままであるべきだと」
 哲雄の言葉に頷く彩子。
「では環境が変わる訳ですね。世の中の仕組みとか、衣食住……」
「そうですね、その方が」
「じゃ突然ですが、煙草は在りますか」
「えっ、煙草ですか」
「はい、ユートピアに煙草、在ると思います」子どもっぽく笑う哲雄。
「あ、考えたこともなかったです」
「でも人によっては、結構深刻な問題でしょ」
「ですね。でもそもそも喫煙する人が最後の審判に残れるかどうか……、バルタン協会は禁煙なんです」
「えっ、そうなんですか。知らなかった、ぼくは吸いませんがブースカ仏会はその辺は自由です。灰皿も置いてありますし」
「へえ。あっ、わたしの父も吸いました。どうしよう困ったな」
「ま、煙草は冗談ですけど。じゃお金はどうですか」
「お金ですか」
「ユートピアにお金です、必要ですかね。お金というか、銀行とか給料とか、ショッピング、クレジットカード……」
「ええっ、でも仕事はないと世の中どうなるんだろう。ああ、ひと言でユートピアと言っても、なかなか具体的イメージが浮かんで来ないものですね。駄目だな、わたし。もっとしっかり考えておかないと」
 自分の頭をこつんと叩いて微笑む彩子。そんな仕草をかわいいと思う哲雄、なぜか胸が切なくてならない。
「そうなんですよ、ユートピアとか天国とか言っても、じゃ具体的にどんな世界なんだとなるとみんな漠然としている。残るとなったら、実際そこで毎日生活していかなきゃならないのにね。でも、そもそもユートピアって何ですか」
「えっ」
「神様が創られる理想世界だというのは勿論分かります。そこに神様のお眼鏡に適った人間だけが住めるというのも、成る程尤もな話です。でもぼくがどうしても疑問に思うのは、なぜユートピアは必要なのかということなのです」
「はい」
「あ、ちょっとぼくの言ってること、分かり難いかも知れませんが。例えば、もし仮にユートピアでは永遠の命、不老不死が約束され、永久の幸いの中で人々が生き続けたとしてですね、それが何なんでしょうか」
「はっ」矢張り哲雄の言わんとするところが理解出来ず戸惑う彩子。哲雄自身とて、充分にそれを語れているかは疑問である。
「一体何の意味があるというのですか、その永遠とか幸いに……」
「哲雄さんは」
 哲雄さん、今迄彩子が自分に向かってそんな呼び方をしたことがあったろうか、ふと気になって哲雄は思い返してみる。
「哲雄さんは、意味などないと思うのですか」哲雄を見詰める彩子。
「いえ、人々が生きることが無意味だとは言いません。ただ、だったらわざわざユートピアではなくとも、今あるこの世界のままでも充分なのではないかと。なぜ今のままでは駄目なのでしょうか」
「ですから今のままではまだ余りにすべてが未熟で、世界は暴力と憎しみ、罪悪とに満ち溢れ、人々は苦悩と悲劇とに苛まれているからなのです」
 だからそんなことは分かっている、自分が言いたいのはそんなことじゃない。内心苛々しながらも続ける哲雄。
「それらも、それら一切をも含めて、神様が創られた結果として今のこの世界が在る訳ですよね」
「ええ勿論」
「だったら、今のこの世界のあるがままを受け止めるのが、それこそが創造主である万能の神の責任というか義務、勤めなのではないでしょうか」
「ええ、でも」
「それを今更この世界は失敗だった、だからさっさと壊して、また別のユートピアなる新世界を創ればいいやっていうのは、ちょっと虫が良過ぎませんか」
「でも。では、どうすれば良いと」
「だから今の世界がそのままユートピアになればいいんです。最後の審判などと言わず、どれだけ長い時間を費やしても構わないから、すべての人が救われるまで辛抱強く待って頂くのです」
「ええ仰る通り、確かにそれが理想かも知れません。でも時間がないのです、世紀末はもうそこまで迫っているのですから」
「だからなぜ、そんなに急ぐ必要があるんだろう。どうしてすべての人が悔い改めるまで、待っては下さらないのだろう」
「それは。それは悪を、いつまでも許しておく訳にはいかないからです」
 悪を、毅然と答える彩子に圧倒される哲雄。
「悪ですか、成る程そうですね、仰る通り。そこまで考えなかったなあ、これは失礼」
 なぜ神は悪を許すのか、これが常日頃から抱いている哲雄にとって最大の疑問であった。ここで彩子にそれを問うてみようかとも思ったが、理屈っぽく古臭い話になりそうな気もして質問を差し控えた。創造主であり全知全能の神ならば、悪など許さずとっとと滅ぼしてしまえばいいものを。しかしそれが最後の審判ということなのか。
「分かりました。ユートピアについて、いろいろと話して来ましたが、では雪川さんにお伺いします」
「何でしょう」
「あなたはユートピアに残りたいと、お思いですか」
 えっ、と哲雄の顔を見詰める彩子。
「勿論です。あなたは、哲雄さんは」
「はい実は正直、自分は余り興味がないんですね」
「興味がない」そんな。戸惑いを隠せない彩子。
「ええ、自分がユートピアに残るかどうかなんて。実際ちっともイメージ湧かないんですよ、ユートピアでみんなと仲良く暮らしている自分なんて」
「でも、それでしたら、どうしてブースカ仏会に入られて、こういう布教活動などなさっているのですか」
「うん、確かに変ですよね。実は、自分でも良く分からないんです。何て言うか、世の中で苦しんでいる人を見ると、辛いんです。でも何もして上げられない。だからその辛さから逃れる為、自分はやれるだけのことはやっているんだって、まあ一種の自己満足ですかね」
 頭掻き掻き、苦笑いの哲雄である。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み