(二・一)ゼットンフォーラム1

文字数 3,158文字

 ゼットンフォーラムという新興宗教団体がある。教団名に敢えてフォーラムなどという宗教団体名としては珍しい単語を用いているのは、そのものずばり、宗教臭い印象を持たれない為である。教団の創設はバルタン協会よりも新しく、それは当然のことである。なぜならゼットンフォーラムの教祖、佐谷主徒男(さたに すとお)なる男は、バルタン協会の元幹部だからである。従って、佐谷がバルタン協会の内部及び裏事情に詳しいのは当然のことであるが、それはひとまず置いといて……。
 佐谷がバルタン協会を円満に脱退した後、新たに設立したゼットンフォーラム。教義的にはバルタン協会と似通っており、従って系統的にもキリスト教系である。それでは単なるバルタン協会のクローンに過ぎないが、それは表の話に過ぎず、実はちゃんと裏の顔があるのである。裏の顔詰まりゼットンフォーラムの本性は、悪魔崇拝である。
 しかしそんなことを公けにしては、信者など集まらない。信者が集まらなければ、教団としての経営が成り立たない。宗教法人で一儲けしようと企んだ佐谷としては、それでは面白くない。よってあくまでも表の顔は平凡なる教団を装い、ゼットンフォーラムの教えに精進した者の中から信頼出来そうな、というか野心的な者にだけ教団の素顔を晒し、裏側の世界へと導くというか堕落させるのである。
 では裏側の世界の話については後に譲るとして、先ずは表向きのゼットンフォーラムの活動である。といって独自路線といったものは皆無であり、どれもこれもバルタン協会の真似事ばかり、特に目を見張るものがある訳ではない。基本的な教義は、ユートピアの到来と最後の審判、このふたつである。否このふたつだけといっても良い。人間善を行えばユートピアに住する資格を得、悪いことばかりやっていると、ってそれ佐谷さんあんたでしょ、その資格を喪失する。そうこうしているうち、或る日突然最後の審判が執行され、ユートピアに住する資格を有する者だけが残され救われるが、そうでない者は残念ながら永久に滅ぼされてしまう。後は残った者だけが永遠のユートピアの至福に与れる……。とまあ、何だか分かったような当たり前のような、取るに足らんどうでも良い教えなのである。
 という訳で、最後の審判が来たらさあ大変だあ、てめえら、なあ。このまんま愚図愚図してっと、諸君全員ひっとり残らず滅亡しちまうぞお、そいでもええのか。それが嫌だったら、心入れ替え、すっこしでもましな人間になるこった。ええか、その為に最も効率的な宗教ってえのが、言わずと知れた我がゼットンフォーラムって寸法だ。さあ、後悔したくなければ、急ぎゼットンフォーラムに入信なさい、こちらは拒むことなく門戸を開けてお待ちしてますぜ……。と説くのである。
 しかし説教だけでは何かと今ひとつ説得力に欠ける。そこでハリウッド映画張りのビデオを流し、おまけにお菓子と紅茶で接待し、五感に訴え口説き落とす。といってもこのビデオ作戦もバルタン協会のパクリであり、事実ゼットンフォーラムで使っているビデオも何のことはない、佐谷が脱退のご祝儀として頂いちゃえと古巣から勝手にダビングして来たものなのである。
 では肝心の最後の審判なるものがいつ来るのかと詰問されれば、流石の佐谷も下手な嘘は付けない。そこでちゃっかり流行のノストラダムスに乗っかって、やっぱここだけの話一九九九年七月辺りがやべんよ、なぞとほざいている。ま、それまでには俺様もたんまり儲けてっだろうし、それ以降のこた、その時また考えるべと、佐谷の旦那否教祖様もお気楽なものである。
 次にゼットンフォーラムの布教活動である。ゼットンフォーラムの末端信者たちは日々熱心に布教を行っている。なぜそんなに熱心であるかというと、そうするように洗脳否指導されているからである。前述の如く教祖佐谷の口車に乗せられ、最後の審判に残されるべくゼットンフォーラムに入信した純真なる信者たち。しかし彼らに対し、ただ入信しただけでなんにもしないんじゃ意味ねんだよと説く。じゃどうすれば……。そうさな、先ず教団への献金、それから奉仕、これで五十パーセントは救われる。じゃ残り半分は……。ん、あとは布教だな、これで万全。布教ですか……。そうだよ、考えてみな、てめえが救われたいんだろ、だったら他人を道連れじゃねえ救っちまえばいいんだよ、な、簡単な理屈だろ。はあ、そんなもんすかね……。そんなもんよ、世の中なんて。
 しかし生まれてこの方、布教など未経験の新人信者たち。家族や知り合いに対してすら、まだ宗教やってるなんてとても恥ずかしくて言えたもんじゃない。それが新興宗教のゼットンフォーラムなら尚更のこと。じゃどうすんですか……。だから街頭布教、駅前布教なんでしょうが、あんたたち。あんたらも渋谷とか新宿とか、そこいら辺の繁華街で声掛けられて、ふらーっと付いて来たんでないの。な、知り合いに知られずこっそりと、トラブっても後腐れなし、見知らぬ不特定多数の獲物じゃない迷える子羊を救う、それが街頭布教の醍醐味ちゃうか、ええ。いいから遠慮せんとやってみ、一度やったら病み付きなるで。尚、地方やったら戸別訪問の方がお奨めやな。はあ、そんなもんすか……。そんなもんすよ。ちゃんちゃん。
 何だかんだと説得され、渋谷駅前で試しにちょっと参加してみる。最初は恐る恐る、どきどきしながら、お声掛け。でも慣れて来ると、これが結構面白くってはまっちゃう。渋谷なんて都会じゃ、目の前をかわいい子やら綺麗なお姉さん、カッコいいお兄さんがしょっちゅう通り過ぎる。けどこっちはナンパじゃない、歴とした布教、人類救済活動なんだから、遠慮せず堂々と声掛けりゃいい。それに流石ストレスやら人間関係、孤独に悩む現代人だけあって、見た目じゃ分からない。意外とみんな何かしら悩みを抱えているようで、よっぽど変なのに当たらない限りっても殆どしかとばっかだけど、たっまーに返って来る反応は、決して悪いもんでもないんだな、これが。うんうん。それに、それに自分でも気付いてなかったんだけど、俺って意外に博愛主義者。見ず知らずの他人の悩みなんか聞いてると、ついつい親身になってそうだよねとか頷いたり、こうしてみたらなんてアドバイスしたりしちゃってんの。自分もなんか力になって上げたい、なんて本気で心配してさ、この俺がよ。我ながら吃驚ってやつ。
 それにひとりぼっちじゃなくて、声掛けんのはひとりだけど、チーム作ってみんなで同じ場所で活動してっから、布教仲間のこと、同志とか呼び合って。みんないい人ばっかりだし、失敗しても励まし合ったり、同志が声掛けた人が悩んでる人だったらみんなで囲んでチャペルに行くよう説得したり。なんか熱いんだよね、情熱っていうの、布教前にImagineとかAmazing Graceなんか一緒に歌ったりしてさ。チームとして個人としても今日は何人の人に声掛けて、何人をチャペルに導くぞって目標立てるからやり甲斐もあるし、達成出来たらみんなで褒め称え喜び合うけど、駄目でも絶対叱責しないで、また次頑張ろうねなんてやさしく声を掛けてくれる。それに金とか自分の為じゃなくて困ってる人の為にやるんだって、うん何だろ使命感みたいなもんかな、義務感じゃなくて、そういうのに突き動かされてやってっから俺ら、気持ちも充実感も全然違うし、実際やってて楽しいですよ。同志とは日夜苦楽を共にしてるから、仕事とか学校とか普通の人間関係とは違う、そんなんじゃ絶対味わえない喜び、一体感っていうの、得られるしね。ああ俺今青春しちゃってんじゃんみたいな感じですか。兎に角熱いの、日々感動に出会えるし、新しい自分を発見出来るし……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み