第1話:一攫千金の話と生い立ち

文字数 2,060文字

 以前、新横浜駅ができる事を知らないうちに誰も買わない農村地帯の横浜線の小机駅と菊名駅の中間の田んぼ、畑、雑草地、雑木林を東京オリンピックの前の年、1963年に立見氏が新横浜駅建設予定地を測量が始められる以前に知り、その周辺の地所を何万坪も買い占め、新横浜プリンスホテルやスケートリンクで大儲けしたことは、有名な話だ。

 蒔田亮三は、八王子の蒔田塗料店の社長、蒔田賢作の3男坊として1960年3月12日に生まれた。父の蒔田賢作は、賢く日本の最大政党J党の講演会の八王子支部長をしていた。それも新しい道や施設、駅、国、市町村の開発計画を誰よりも早く入手して安いうちに土地を買い占め儲けを狙っての事であった。まさに新横浜でT財閥が成功した様に大儲けしようと考えた。

そのため八王子周辺の一体で目を光らせていた。1958年、相模原市が首都圏整備法で「開発区域」の指定を受けたことで、同市とその周辺は急速に工業地域、新興住宅地に変貌していった。そのなかで、当時の稲城町、多摩町、町田市、八王子市、相模原市、城山町、津久井町は、「京王帝都新路線建設促進実行委員会」を結成した。

 そして、現在の相模原線の原型になるようなルートでの新線の建設を京王に強く働きかけた一方で京王でも当時多摩町で開発を進めていた「京王桜ケ丘住宅地」をさらに南側に拡大する形で新たな住宅地開発をするとともに、そこに新線を敷設する構想があった。「第二桜ケ丘団地」と呼称されるこの住宅地開発の構想は、現在の多摩ニュータウン区域内にあたりである。

 1963年に京王は、多摩川支線を延長する免許を申請した。それは京王多摩川駅から多摩川を渡り、概ね現在の多摩ニュータウン区域を東西に横断して、橋本駅で横浜線と交差したのち津久井湖の南側の相模中野に至るルートだった。この年には「多摩町で大規模な住宅団地」という見出しで、その後、多摩ニュータウン計画に組み込まれていった。

 その第一次入居が行われることになる諏訪団地・永山団地の開発計画が報道された。他社も京王の免許申請に呼応して同様のルートで小田急電鉄は喜多見駅から分岐、西武鉄道は多摩川線を延長する形で免許申請を行った。そして1965年、地方からの人口流入による東京の緊急的な住宅不足に対応するため、多摩ニュータウンが都市計画決定された。

 現在、多摩ニュータウンでは全面買収による新住宅市街地開発事業とともに従来からの地権者が換地を受ける土地区画整理事業が行われていた。しかし、この時点では、全面的に新住宅市街地開発事業による開発だけが行われることになっていた。このため、先述した京王の新しい住宅地開発の構想は、ここで諦めざるを得なくなった。

 京王電鉄は高尾線の建設と「めじろ台住宅地」の開発を進めることになった。京王と小田急が申請した免許は、現在の京王よみうりランド駅付近で両社の新線が入り混じるため、この区間の調整が問題になった。その後も企業と東京都も含め、問題が多く、水面下で交渉で、地元には、ほとんど正確な情報は入ってこなかった。

 しかし、東京ベッドタウン構想としての多摩ニュータウンの重要性は、その後も全く変わる事はなかった。この問題の解決により延伸計画は前進し1987年3月に橋本駅まで一気に開業する予定で計画が進められた。あまりにも時間がかかるので蒔田亮三は、この頃、投資をあきらめた。この頃、蒔田亮三は、八王子の小学校2年に上がった。

 しかし、蒔田賢作は、1950年代から株投資で財産を殖やして、1970年代に1千万円を超える資産を持っていた。その他、自分の事情からも毎年、1千万円以上の利益を出していた。蒔田亮三は、小学校で興味のある事には夢中になり一生懸命取り組む性格だった。計算が速く集中力もあった。しかし1つの事に集中する寝食を忘れて没頭するので失敗も多かった。

 例えば、パンツをはかずに直接ズボンをはいて学校に行ったりもした。そう言う経験を幼い頃からしていたので時間は短くなったり長くなったりするものだと思っていた。つまり興味のない話を聞くと時間の流れが遅くなり、興味深い事を考えているといつの間にか日が暮れていたと言う経験をしてきた。その反面、人の話は疑ってかかった。

 友だちとのつき合いも同じ様に好き嫌いが激しく、自分が知ってる事を他人に教えようとはしなかった。しかし、2人の友人、文学好きの山内武史と英語好きな日髙政則と馬が合い親しくなった。蒔田亮三は、理科、社会は、学年でもトップクラスの成績であった。英語も父が、幼い頃から多くの洋楽を聴かせてくれなじんでいた。

 そのため、英語を興味を持って聞いて持ち前の記憶力のせいで、英単語、文法を直ぐに覚えてしまった。知らない子が話しかけても、興味がないと、そっぽを向く子供だった。母は、仕方ないと思い、強い分野のソロバン、数学、理科、社会を伸ばしていった。1972年代の日本は、2月3日、札幌オリンピック開幕、2月13日まで熱戦が繰り広げられた。
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