猫の死体が発見されたのはぼくたちが屋上にあがった朝から一週間後のことだった。

文字数 2,379文字

猫の死体が発見されたのはぼくたちが屋上にあがった朝から一週間後のことだった。

春に生まれたばかりの小さな子猫だった。腹を裂かれ、耳が半分ちぎられていた。カチカチに固くなって血と泥のあとを身体のあちこちにつけた子猫の口から桃色の舌がのぞいていた。
朝、ぼくがいつもより少しだけ遅れて学校についた。
それでもほとんどの生徒たちよりずっとはやい。
校庭のまんなかで部活の朝練組みの連中が何人も輪になって、なにかを囲んでいた。ぼくは無視して通りすぎようとした。ぼくには関係ないことだろうから。それでもぼくは目があったクラスメートと挨拶し、
おはよう。なにやってんの?
おい。見てみろよ。ひでーんだから。
なにが?
猫の死体。ぐっちゃぐちゃ。子猫。
猫?
猫は「死体」というのか「死骸」というのか。どっちだって同じだろうか。なんていうことをとっさに思った。
足を止めて輪のなかに加わりみんなと一緒に猫の死体を鑑賞する。

大人になりかけの小さな猫だった。

まだジャレつくことがやめられないけれど、その動作のひとつひとつが本気の狩りへのステップだと気づきはじめる頃合いの子猫だった。牛のような模様の、白と黒がまだらになった毛並み。白くてとがった歯が口からのぞく。桃色の舌は花びらみたいな形をしている。目を苦しそうにカッと見開いていた。ガラス玉の目。

三角の耳の片方は半分までちぎられていた。耳のなかにはえているふわふわとした白い毛に血がこびりついている。切り口はきれいな直線ではじまり、最後のほうはギサギサと波になって止まっていた。
完璧に死んでいた。
ガラスの目にも、やわらかくはない身体にも、生きているものの持つ温かみが失われていた。液晶デジタルのペットが生存していないのと同じぐらいに。生きていたはずの子猫は、生命をなくして横たわっている。力なく。
ただ足の裏の肉球だけがまだ生きているようにも見えた。ピンクで、すべすべとして、ゴム鞠のようにはずみながら蝶を追いかけていたころの勢いのようなものを残していた。その前足で動いてまわる木の葉にじゃれついたのだ。蝶にむかってジャンプし、つかまえようとふたつの前足をあわせて風をたたいたのだ。
内臓がはみでた腹は、幼い子が紙をはさみで切った断面のように、不器用にぎさぎざと曲がりくねっていた。曲がっては修正しなおして切る、はさみを使用することを覚えたての子供の仕事のようなたどたどしい直線だった。
ぼくは猫の死体から目が離せなかった。怖かった。子猫の苦痛を思って哀しくなった。けれど激しく魅了された。完璧に死んでいる。
痛みと恐怖とともにぼくは、ナイフをひらめかせ、やわらかな生命を切り裂く快感を感じていた。その思考はぼくの心臓をわしづかみにした。
うえ~。
その声がぼくを我に返らせた。

そしてぼくはまわりを見回した。顔、顔、顔──―ぼくはみんなのなかにぼくが感じていたのと同じ感情をみつけだした。同情と哀しみ。痛み。慈しみ。残虐さ。血の匂いに反応し、それを美しい赤い液体だと認識する狂気。理性。たくさんの感情がうずまき、感覚が螺旋になって立ちあがる。

相反する感情。理性と狂気。聖性と悪意。期待と哀しみ。

ぼくは瞬間、ぼくとぼくのまわりにいる人びとのなかにまざりあい、愛しみあいながら共存している天使と悪魔の姿を見た。ぼくたちはごくふつうの中学生だったけれど、ぼくたちのなかには濃縮された天国と地獄の絵図が埋めこまれていた。恨みがましいめつきで空を見上げている子猫の死骸に誘発されて現出する。
ぼくはおもわず身体を震わせた。そうしてその震えの内にもなにがしかの甘さがまじっているのを感じていた。
子猫を切り裂いたのがだれかをぼくは知らなかった。けれどぼくは、ぼくもまた、子猫をいつの日か切り裂くかもしれない両手を持っていることを知っていた。たぶんぼくのまわりにいただれもが、その甘美な恐怖をあじわっていた。

いつかぼくはそうするかもしれない。それともしないままで過ぎてゆくかもしれない。それはわからない。
 
ナイフを持たないことがぼくをとどめているのではない。理性がとどめているのでもない。言葉とか、そんなあやふやなものではない。ぼくが「それ」をしないのは、ぼくの内部にあるもっと曖昧ななにかのせいだ。美しい小説のなかの雄弁な行間のように、確かに存在するぼくの心のなかの空白がぼくを押しとどめているのだ。
その空白にゆっくりと満ちてくるものがあった。哀しみに似て、愛しさに似た、ぼくの持つ言葉では表現できない温かい涙に似たものだった。理性と狂気。マザー・テレサにも。アドルフ・ヒトラーにも。ぼくたちはとても美しいものと、とても醜いものを併せ持っている。そのふたつはいつでもゆっくりと反転し、美しい感情は醜悪な思いへと変化し、醜さもまた美へと変じ、ひとりの人間の内部で発酵し、共存し、栄えるのだろう。
 
子猫を切り裂く腕を持つぼくは、決して子猫を切り裂けないやわらかい心を持つ。
 
正反対の方向性を持つふたつの種子をぼくはひとつの器に閉じこめている。
ぼくという植木鉢のなかに盛られた土。そこにまかれた様々な種子。それらは唐突に発芽するわけでもなく、成育するわけでもないのだ。
あたりまえにゆっくりと芽をのばし、そしてある朝、花を咲かせる。
どの種が育つかを決定するのは植木鉢には無理なことだ。
水を与え、日なたに置き、種にあった栄養を与える手は「だれ」のものだろう。
 
ぼくは冷たく固くなった子猫が、そのまえはどんなふうに温かく、やわらかかったかを想像してみた。けれどもう子猫は戻らない。
 
そして──―子猫の死体はぼくになまぬるい液体を運びいれたのと同時に、たくさんの噂と憶測、実はいままでにいくつか発見されていた動物の死骸たちとその亡霊、教師と教育委員会、PTA役員たちの大騒ぎを運んできた。
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登場人物紹介

臼井くん
うすい

ぼく
ちょろくて寒い

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