そういえば、たまたま、父とふたりきりになることがあった。

文字数 558文字

そういえば、たまたま、父とふたりきりになることがあった。
めったにない機会だった。
ぼくたちは家の居間でテレビを見ていた。
名画劇場。

父と母のことについて考える。
好意は時間の経過とともに蒸発する揮発性の物質なのだろうか。
父と母の事情をぼくは想像してみる。
わからない。
テレビの画面のなかで映画の主人公が道路に靴を投げ捨てている。
歩きすぎてボロボロのくたびれた靴だ。
靴の底がべろりとはがれている。
だらしなくのびた靴底は、まるで「あかんべ」をする長い舌のようだ。
父とぼくのあいだには会話はない。なにもない。父にはいつも薄い膜が張っている。
父は手にしていたビールのアルミ缶を握りつぶした。
ペコリ、というマヌケな音がした。
気づくと、父は、けっこうな量を酒を飲んでいるようだった。
帰宅したときからたぶんシラフではなかったはずだ。

膜がある。

映画のなかの中年のくたびれた男にはボロボロの革靴。
中年の男はボロボロの革靴を脱ぎ捨てて、愛しい娘にオルゴールの宝物を届けようとしているだけなのに、さんざんな目にあっている。
どうしてかなあ。
お姫さまにはガラスの靴なのに。
姫君はガラスの靴を脱ぎ捨てて、王子にその靴を届けてもらって、幸福になるのに。

未来はなんだか遠くて漠然と不幸に満ちて見える。少なくともぼくのまわりの大人たちはしあわせそうではない。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

臼井くん
うすい

ぼく
ちょろくて寒い

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色