その日、家に帰ると、

文字数 1,873文字

その日、家に帰ると、母の妹が来ていた。

呼ばれたのよ。姉さんに。話があるって。
うん。
叔母はぼくの両親の離婚のゴタゴタの原因だった。ぼくの父がどうやら彼女と浮気をしたらしい。まったく、よりにもよって、妻の妹とってさ。
みんなしてぼくに気づかってくれているらしいが、ぼくはとっくに知っていた。
ぼくにだって目もあるし、耳もあるし、考えるだけの頭もある。
なにも気づかないままでいられるほどに鈍感ではない。
で、母さんは?
ちょっと。
ちょっと?
いないわね。いまは。
自分の家なのに?
わけがわからない。
説明したくないだろう。どうでもいい。

ぼく、すぐに出かける。塾だし。
美希叔母さんはオブジェみたいにしてぼくの家の居間に座っている。
美人。長い髪。ぼんやりとした顔。

見たくなくても見るしかなくて。
間違い探しを提案したくなる。このなかに間違いがあります。それはなんでしょう。美希さんのすんなりとのびた足のさき。ハイヒールを履いていなかった。それがミステイクのように感じられる。
ぼくの家の室内スリッパは彼女の足には似合わなかった。
美希さん、スリッパが似合わない。
そう? スリッパに似合うとか、似合わないなんて、あるの?
あるよ。
それ以上、なにも言葉が出ない。

なんでここにいるの。ここはぼくの家なのに。
ぼくの家でもないのかな。親の家であってぼくのものじゃないのかも。

ずっと考えてる。最近、ものすごく、息がつまってるみたいな感じで苦しいんだ。怖いこととか、苦しいことを考える。どうしてか痛いこととか考えて、想像して、そのあとで我にかえって少しだけ安心する。アレよりはマシって。耳を裂かれたウサギみたいな死に方より、とりあえず生きてる自分がマシとか。でもいっそ死んだほうがましかもとか。

言わない。
なにも言わないで、ただ心のなかで思うだけ。
ぼくは居間の時計の、カチ、カチ、という音がさも重要なものであるようにして耳をすます。
美樹さんは左肘をソファの肘かけにおいて、爪をくちびるにそっとあてて考えこむようにしてうつむいている。
右手はやわらかくまげられて膝のうえにのびている。柔らかそう。そしてぼくとは無関係な生き物。切り裂いたら血が流れる。柔らかそう。血管はどこをどう通っているの。柔らかそう。喉を締め付けたらどうなるの。強く、柔らかく。
斜めに体重をかけた美希さんの姿勢はぼくを窮屈な気分にさせた。
下腹がもぞもぞする。
で、母さんは?
ああ……ちょっと、いないんだったっけ……。
彼女は立ちあがり、まっすぐで綺麗な足を惜しげなくぼくの視線にさらして家を出ていった。
ぼくは美希さんを玄関さきまで見送って、それから慌てて塾に行く用意をした。
思いだしたことが、ひとつ。
幼いぼくの手を握って町を歩いていた母親の記憶。
アンケートと称して唐突に目のまえにふってわいた若者に、

あなたはいましあわせですか?
しあわせです。

胸をはって答えていたのはぼくの母だ。
毅然とした態度というものをすぐそばて見た。
インプットされている。
宗教の勧誘をあっけなく撃退した無敵の幸福な母の姿。
子ども心に「お母さんはしあわせなんだなぁ」とぼんやりと思ったものだ。
だから子どものぼくもしあわせだなぁ、と。

でも──―ほんとうに見るからに幸福そうで、しあわせがこぼれおちてくるような人間相手にはたぶん「あなたはいましあわせですか」という言葉はかけられないだろう。
真実、しあわせな相手には、きっとたずねたりしないだろう。

育ってしまったいまのぼくに、わかること。
あのころからずっと、いまも、ぼくの母は幸福なんかじゃあない。
そういう日々。

月日はぼくのなかに沈殿する。
育ってゆくという爽快さもなく、ぼくはただ時間を消化させていた。
暗く沈むでもなく、明るくはしゃぐでもなく、決められていることだから、ぼくはしかたなく育つ。
生まれてしまった以上、成長するしかしょうがないというあきらめの心境で成育する。
13才にして、ぼくの心は、老いていた。
それとも子どもと老人というのは似ているのかもしれない。
本質的に。

子は、かすがい。
破綻した結婚生活を眺めぼくはその言葉を知った。
ぼくは辞書で「かすがい」の形について調べた。
両端が曲がっている棒で、ふたつのものをつなげる役目をもつものなのだそうだ。
がっかりした。
ぼくの中心はまっすぐで、けれど両端は「かすがい」となるためにねじけて曲がってしまっているのか。
演じなければならない役割を押しつけられるのが生きてゆく術だとしても、演技から逃れられないとしても、ぼくはもうちょっとマシにものになりたい。べつな役目をもちたい。
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登場人物紹介

臼井くん
うすい

ぼく
ちょろくて寒い

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