そのあとのことは蛇足でしかない。

文字数 2,307文字

そのあとのことは蛇足でしかない。
ぼくにとってだけ重要で意味を持つ蛇足にすぎない。

臼井くんは転校した。何日も休みがつづき、ある日ふいに学校に置きっぱなしになっていた彼の上靴や重い英語の辞書などが消えうせ、そのあとで「臼井は転校が決まった」と担任が朝のホームルームで簡単に告げた。クラスメートたちはみんな一様にばつの悪そうな顔でそれを聞いていた。
それからしばらくのあいだは臼井くんの噂でもちきりだった。いわく、病院の精神科で治療をしているだの、実は厳しい家のおぼっちゃまだったので受験をしてもっといい中学に転校していっただの、殺した猫にとりつかれて奇病にかかってしまった、だの。ひとつひとつを聞いてもとんでもないけれど、それらを全部組みあわせると絶句するしかないような大量のしようのない噂がもの凄い勢いで広がって、消えていった。

屋上の鍵が破壊されていることが発覚して、ドアごと交換された。業者のトラックがやってきてたったの一日で元通りにしていった。
臼井くんのいなくなったあとで一回だけ動物の死骸がぼくたちの学校の校庭に投げ捨てられた。臼井くんが犯人ではなかったと認めた人間もいれば、それでもまだ臼井くん犯人説を意固地にいいつづける人間もいた。

けれども夏が過ぎ、秋がくるころには臼井くんの話題をあえてもちだすような人物はいなくなった。そんなものだ。彼は少しだけみんなよりも真面目すぎたし、目立たなすぎたし、そこが少しばかりうさんくさくて疎まれていたけれど、結局はたくさんの人たちに興味を抱かれるタイプではなかったのだから。それに彼に関する思い出は後味が悪く、だからみんなは口をつぐんだ。幸福な記憶ではなかったので。
ぼくの父と母のあいだでなにが話しあわれたのかは子どものぼくにはわからないが、どうやら両親は離婚はしないらしい。それがいいことなのか悪いことなのかは、これからゆっくりとみんなが理解していくことになるだろう。
離婚をやめた原因のひとつは「ぼく」のほぼ毎日の早朝の登校と臼井くんの転校だったのかもしれない。臼井くんの身の上に起きたことは、ぼくの身の上にも起こり得ることだった。
両親にやんわりと監視されている気がして居心地が悪く、ぼくはある日、母に
最近、お父さんとお母さんは、どうしたの? いままでと違う。
どうしてって。
とまどって困り果てた表情のなかに意味のわからない「なにか」をぼくは見つけた。母は情けない顔で笑った。
あまりにも情けない顔すぎて、どうしてかぼくも笑った。
もしかしたらそれが情愛というものなのかもしれない。

愛とはひょっとしたなら「かすがい」のように、両端を曲がりくねらせた複雑でいびつな形状を持っているものなのかもしれない。ぼくにはまだわからないけれど。美しくもなく、情けなく、弱々しくて、持っていると困るようなもの。危険物を手に持ちながら取り扱い注意のそれを決して手放せないのだと、心底、困惑してしまうような。

いろんな種類の愛情があるのだろう。
まっすぐで綺麗なだけのものではないのだ。
たぶん。きっと。
それからしばらくのあいだ、父は母とぼくとをあらゆる場所へとひきずりまわした。寂寞とした石の公園。ばらまかれたビーズの輝く星空。足もとにころがる流星のような夜景。夜の車がすい星のように尾を長くひいて地面を流れていた。
美しい景色も見た。寂しい、風だけが通り抜けるさびれた場所にも行った。騒音とネオンと排気ガスの充満した都会にも行った。一緒に食事をし、音楽を聴いた。話はたいしてしなかった。ぼくたちは無口な親子だった。

ぼくたちはそれぞれに自分の足にあわない靴を脱ぎ捨て、裸足で歩きはじめる準備をしているところなのかもしれない。もう靴は探さない。傷つきながらでも裸の足で草原も荒野も歩く。

臼井くんにだした手紙は転居先不明で戻ってきてしまった。
あやまればいいのか、なにを語ればいいのか、ためらいながら書いた数行の手紙をぼくはゴミ箱に捨てた。
 
臼井くんの行き先は調べればわかるだろう。だからぼくはまた手紙を書くつもりだ。
 
電話でもいいし、それともある雨の日に訪ねていくのでもいい。
ぼくは臼井くんが転校したと聞かされた日の昼休みのことを書くつもりだ。
             
             たいした話ではないのだけれど。

その昼休み、ぼくははじめて臼井くんと話をした、あの桜の大樹のある場所で空を仰いでいた。
風が吹いていて、枝がこすれあう音がしていた。
見上げるぼくの視野のなか、少し遠く、崖のほうの木の枝に鳥がとまっていた。
ぼくはその鳥の黒い影を見てカッコウだととっさに思った。ほんとうにそうだったのかはわからない。ぼくはカッコウがどんな羽根の色をして、どれぐらいの大きさなのかさえ知らないのだから。それでもぼくはその鳥がカッコウだと思った。
ぼくは身をかがめて足もとにあった石を拾ってカッコウに投げつけた。石は大きな弧を描いて飛んでいった。ぼくの投げた石はカッコウのとまっていた枝からはずれて、どこか別な場所に落ちたようだった。カッコウは物音に驚いたのか、羽根をひろげてとまっていた木の枝から飛びたった。
ぼくは飛ぶ鳥にむかって何個もつづけて石を投げた。どれひとつとして当たらなかった。カッコウはもう見えなくなっていた。それでもぼくは石を投げつづけた。
ぼくはその時、なにもできなかった自分より、去ってしまった臼井くんより、動物を殺しただれかより、臼井くんを追いつめたみんなより、ただひたすらにカッコウという鳥のことだけが憎かった。
ぼくはカッコウに石を投げつづける自分のことが哀しくて、数分間だけ、泣いた。
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登場人物紹介

臼井くん
うすい

ぼく
ちょろくて寒い

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