じゅうきゅう
文字数 2,217文字
気付けば俺は走っていた。人混みを縫った分だけ汗が舞った。
ミホさんが良かった。
いや、ミホさんである必要なんて無い。
いや、ミホさんが良いに決まっている。
「いらっしゃいませー」
現れたのは、有崎さんだった。現実に戻り、膝に手を付いて呼吸をした。人目も憚る余裕なんて無かった。
「だ、大丈夫ですか!?」
俺は親指と人差し指で丸を作った。有崎さんは俺の息が整うのを待ってくれていた。いつもと変わらぬ柔和な表情だった。
「あ、今日もカーディガンはお似合いですね」
そんなことを言ってくれるのは、有崎さんくらいしかいないだろう。鰐渕なんて全く逆のことしか言ってこない。俺の目には自然と涙が溢れてきた。
同時に、もう一つの別の感情も一気に溢れ流れてきた。
・・・適当なことを言うんじゃねえ。
有崎さんもどうせ、俺以外にも同じことを言っているんだろう?
有崎さんもどうせ、俺にしか見せない笑顔に見せて、本当は何とも思ってもいないのだろう?
ミホさんもどうせ・・・
「・・・鰐渕さんは」
「鰐渕がどうかされましたか?」
「・・・鰐渕さんいますか?」
「鰐渕ならおりますが・・・よろしければ私が対応しますよ!」
「鰐渕さんを呼んでもらえませんか!!」
「か、かしこまりました」
有崎さんは困惑していた。クレームなのか、熱望なのか、表裏一体に見えただろう。どちらのベクトルにせよ、絶対値の高い感情だということは伝わっているはずだ。その力が有崎さんの足を鰐渕の元に向かわせた。
「いらっしゃいませぇえ〜」
奥の方から、鰐渕が襟元を正しながら歩いてきた。俺とは対照的に相変わらず冷静な表情をしている。
「鰐渕さんっ!!」
「はい。今日は何をお探しですか?」
敢えてそうしているのだろうか。あくまで普段通りのテンションを貫いている。
「赤いカーディガンを着たいんです!」
「今、着てるじゃないですか」
「違うんです。服を着ているんじゃなくて、服に着られているんです」
「急にどうしたんですか?」
「僕は中身が伴ってないのに、見た目だけ取り繕おうとしていたんです」
鰐渕の質問には答えず、一方的に自分の想いを吐き出した。見てくれだけ整えて、それっぽい言葉を吐いて、自分を良く見せて、少し褒められるだけで満足していた。少しお金を掛けさえすれば自分の価値が上がると錯覚していた。そんなことを思うのは、上辺だけの人間だということも本当は心のどこかで分かっていたのかもしれない。
しかし、ついさっき、赤いカーディガンの男を目の前にして気付いた。
人間の魅力は、内から滲み出てくるものだということを。
「言いたいことは分かりました。で、お客様はどうなりたいんですか?」
「変わりたいんです!」
気付けば涙が滝のように頬を伝っていた。
嗚咽を押さえながら、片袖ずつで交互に涙を拭いた。
鰐渕は号泣している俺に困惑することなく、言葉を掛けてきた。
「あなたの気持ち分かりますよ。僕もこのブランドに出逢ったことで人生が変わったんです。だから、皆さんにもこのブランドを着る喜びを心から感じて欲しいと思っているんです」
「・・・」
俺は黙って聞いていた。相槌すら打つのが難しいくらい泣いていた。
鰐渕は構わずに続けた。
「年を重ねるにつれ、『このブランドに見合っている人に着て欲しい』という思いが強くなりました。だからあなたにも排他的な態度を取ってしまった。しかし、本当はお客様のような方にこそ、このブランドを着て欲しいんです」
俺は黙って一度だけ頷いた。
「ちなみに、『Step.2』は、どんな意味が込められていると思いますか?」
「・・・身だしなみを整えることがステップ1、その上でこのブランドがステップ2だと思います」
俺は鼻水を啜りながらゆっくりと答えた。
「惜しいですが、違いますね。身だしなみを整えるのは当たり前。ステップゼロです」
鰐渕は大きく息を吸った後、優しい口調で続けた。
「ステップ1は、自分を磨くこと。その上で、この『Step.2』を着てさらに魅力的になって欲しいという願いが込められているんです」
「・・・」
「お客様、まず自分を磨いてください。そうすれば、本当の意味で『Step.2』を着こなすことができますよ。どんな色だったって良い!あなたの好きな色でも何でも!!」
「・・・はいぃ!」
「この後のステップ3は僕個人の想いですが、夢を叶えたり、好きな人と上手くいったり、その後の人生を素敵なものにしていただきたいんです」
俺は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭いた。
多分、今までで一番この赤いカーディガンが似合っていないだろう。
「もしあなたにとってこの赤いカーディガンを本当の意味で着れると思ったときにまた来てください。僕はいつでもお待ちしていますよ」
言葉の一つも出なかった。俺は何度も頷いて、店を後にした。ミホさんへの恋は実らなかったが、それで良かったのかもしれない。俺は一ミリもミホさんに見合う男ではないからだ。
ゆくゆくは自分でカフェを経営したいという夢に向かって走るミホさんが、他の誰よりもキラキラして見えた。手の届きそうな存在と勝手に思っていたが、全くそんなことは無かった。
しかしもう二度と、こんな悔しい思いをしたくない。
俺は歩きながら涙を拭ったが、それでも溢れる涙で前が良く見えなかった。
それでも、進むべき俺のステップ1の道しるべは足元にしっかりと示されていた。
ミホさんが良かった。
いや、ミホさんである必要なんて無い。
いや、ミホさんが良いに決まっている。
「いらっしゃいませー」
現れたのは、有崎さんだった。現実に戻り、膝に手を付いて呼吸をした。人目も憚る余裕なんて無かった。
「だ、大丈夫ですか!?」
俺は親指と人差し指で丸を作った。有崎さんは俺の息が整うのを待ってくれていた。いつもと変わらぬ柔和な表情だった。
「あ、今日もカーディガンはお似合いですね」
そんなことを言ってくれるのは、有崎さんくらいしかいないだろう。鰐渕なんて全く逆のことしか言ってこない。俺の目には自然と涙が溢れてきた。
同時に、もう一つの別の感情も一気に溢れ流れてきた。
・・・適当なことを言うんじゃねえ。
有崎さんもどうせ、俺以外にも同じことを言っているんだろう?
有崎さんもどうせ、俺にしか見せない笑顔に見せて、本当は何とも思ってもいないのだろう?
ミホさんもどうせ・・・
「・・・鰐渕さんは」
「鰐渕がどうかされましたか?」
「・・・鰐渕さんいますか?」
「鰐渕ならおりますが・・・よろしければ私が対応しますよ!」
「鰐渕さんを呼んでもらえませんか!!」
「か、かしこまりました」
有崎さんは困惑していた。クレームなのか、熱望なのか、表裏一体に見えただろう。どちらのベクトルにせよ、絶対値の高い感情だということは伝わっているはずだ。その力が有崎さんの足を鰐渕の元に向かわせた。
「いらっしゃいませぇえ〜」
奥の方から、鰐渕が襟元を正しながら歩いてきた。俺とは対照的に相変わらず冷静な表情をしている。
「鰐渕さんっ!!」
「はい。今日は何をお探しですか?」
敢えてそうしているのだろうか。あくまで普段通りのテンションを貫いている。
「赤いカーディガンを着たいんです!」
「今、着てるじゃないですか」
「違うんです。服を着ているんじゃなくて、服に着られているんです」
「急にどうしたんですか?」
「僕は中身が伴ってないのに、見た目だけ取り繕おうとしていたんです」
鰐渕の質問には答えず、一方的に自分の想いを吐き出した。見てくれだけ整えて、それっぽい言葉を吐いて、自分を良く見せて、少し褒められるだけで満足していた。少しお金を掛けさえすれば自分の価値が上がると錯覚していた。そんなことを思うのは、上辺だけの人間だということも本当は心のどこかで分かっていたのかもしれない。
しかし、ついさっき、赤いカーディガンの男を目の前にして気付いた。
人間の魅力は、内から滲み出てくるものだということを。
「言いたいことは分かりました。で、お客様はどうなりたいんですか?」
「変わりたいんです!」
気付けば涙が滝のように頬を伝っていた。
嗚咽を押さえながら、片袖ずつで交互に涙を拭いた。
鰐渕は号泣している俺に困惑することなく、言葉を掛けてきた。
「あなたの気持ち分かりますよ。僕もこのブランドに出逢ったことで人生が変わったんです。だから、皆さんにもこのブランドを着る喜びを心から感じて欲しいと思っているんです」
「・・・」
俺は黙って聞いていた。相槌すら打つのが難しいくらい泣いていた。
鰐渕は構わずに続けた。
「年を重ねるにつれ、『このブランドに見合っている人に着て欲しい』という思いが強くなりました。だからあなたにも排他的な態度を取ってしまった。しかし、本当はお客様のような方にこそ、このブランドを着て欲しいんです」
俺は黙って一度だけ頷いた。
「ちなみに、『Step.2』は、どんな意味が込められていると思いますか?」
「・・・身だしなみを整えることがステップ1、その上でこのブランドがステップ2だと思います」
俺は鼻水を啜りながらゆっくりと答えた。
「惜しいですが、違いますね。身だしなみを整えるのは当たり前。ステップゼロです」
鰐渕は大きく息を吸った後、優しい口調で続けた。
「ステップ1は、自分を磨くこと。その上で、この『Step.2』を着てさらに魅力的になって欲しいという願いが込められているんです」
「・・・」
「お客様、まず自分を磨いてください。そうすれば、本当の意味で『Step.2』を着こなすことができますよ。どんな色だったって良い!あなたの好きな色でも何でも!!」
「・・・はいぃ!」
「この後のステップ3は僕個人の想いですが、夢を叶えたり、好きな人と上手くいったり、その後の人生を素敵なものにしていただきたいんです」
俺は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭いた。
多分、今までで一番この赤いカーディガンが似合っていないだろう。
「もしあなたにとってこの赤いカーディガンを本当の意味で着れると思ったときにまた来てください。僕はいつでもお待ちしていますよ」
言葉の一つも出なかった。俺は何度も頷いて、店を後にした。ミホさんへの恋は実らなかったが、それで良かったのかもしれない。俺は一ミリもミホさんに見合う男ではないからだ。
ゆくゆくは自分でカフェを経営したいという夢に向かって走るミホさんが、他の誰よりもキラキラして見えた。手の届きそうな存在と勝手に思っていたが、全くそんなことは無かった。
しかしもう二度と、こんな悔しい思いをしたくない。
俺は歩きながら涙を拭ったが、それでも溢れる涙で前が良く見えなかった。
それでも、進むべき俺のステップ1の道しるべは足元にしっかりと示されていた。