きゅう

文字数 1,411文字

(シャッ)

「いらっしゃいませぇぇぇえええ~」

 そいつは、両手で襟を正しながら、真顔でこちらを一直線に見つめている。

・・・鰐渕だ。

 愕然とした。なぜ・・・なぜ、コイツがいるんだ。俺はチラッと時計を見て、天を仰いだ。

 しまった。ファッションショーをやり過ぎてしまった。というか、コイツは非番ではないのか?

「試着終わりました?」

「・・・」

 言葉を失う俺に構わず、鰐渕は続けた。

「お客様、試着は終わりましたか?」

「・・・終わりました。これを買います」

 その場を立ち去ろうとする俺に、右手で制した。

「パンツは良いとして、お客様に似合いそうなカーディガンをピックアップしてみました」

「・・・は?」

 呆気に取られる俺に構わず、鰐渕は続けた。

「よかったら、着てみませんか?」

 三着ほどのカーディガンが手に取られているが、全て地味な色のものだ。

「いや、僕はカーディガン探しにきていないので」

「赤はお客様に似合う色味ではないですよ」

 ミホさんも有崎さんも褒めてくれたのに、コイツだけは一貫して俺のことを否定してくる。ワクワクした気持ちで買い物しているのに、いつも急に現れて邪魔をしてくる。俺はいよいよ、コイツに対して怒りを露わにした。

「似合わないって言ってるけど、別にあなたの感覚なだけでしょ」

「そうですね。僕の感覚です」

「僕にとっては、この赤いカーディガンのおかげで勇気が出たんです」

「何の勇気ですか?」

「こんな僕でも格好良くなれるんだって」

「それはありがたいことです。ですが、お客様にはまだ早いと思います」

「赤はとても華やかな色です。内から出る魅力がない、赤の強さに負けてしまいます」

「僕には魅力がないってことですか?」

「鏡を見てください。髪はボサボサのまま、無精ひげ、そして何よりも、内面から出てくるはずのエネルギーの無さ。これを見ても、あなたに似合ってると言えますか?」

「髭はあなたも生えているじゃないですか」

「私の髭はあなたの髭とは違います。これはオシャレ髭です」

「じゃあどうすればいいんですか?せっかく買いに来ている僕の自由を奪うんですか?」

「私はあなたのために言っているんです」

 お互いに交わることの無い、平行線の会話が続いた。お互い語気が荒くなってきたところで、有崎さんがこちらへやって来た。

「鰐渕さん。ここは私が対応しますので、レジをお願いできますか?」

 彼は鰐渕を制しつつ、それとなく鰐渕と俺との距離を離した。

「お客様。大変失礼いたしました。私が対応いたします」

「いや、今日はもう大丈夫です」

「お、お客様・・・」

「その代わり、次は有崎さんに接客をお願いしてもいいですか?」

「かしこましりました。本日は大変申し訳ございませんでした」

 今回何も買わなかったのは、もちろん鰐渕の接客に腹が立ったのが大きな理由だ。しかし、
それに加えてもう一つ打算があった。敢えて何も買わずに『怒っている』という意思表示をすれば、店側に貸しを作ることができる。
 その対価として、次店に行った時は鰐渕ではなく、有崎さんの接客を優先的に受けることができると思ったからだ。


 後日俺はもう一度、黒の方を買うために『Step.2』を訪れた。有崎さんが丁寧に対応してくれたおかげで、俺は気分良く買い物ができた。次来店するときかも、有崎さんに接客してもらおう。

 今後俺が、鰐渕の接客を受けることは無いだろう。
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