なな
文字数 1,631文字
店を出て歩を進めていく。いつもよりも少し街の景色が速く動いた。
あの店には、もう二度と行くことはないだろう。このカーディガンに合うズボン は、きっと他にあるはずだ。十分程経過した後、顔を上げた。すると、俺はあのカフェの目の前に立っていた。
無意識に向かっていたのだろう。ここまでの記憶がほとんど無い。とにかく、今の俺には安らぎが必要だ。ガラス張りの店の前を右往左往してみる。
すると、奥の方にミホさんの姿が見えた。
パーマ髭への怒りで気持ちが高揚しているため、店内に入るのに何の迷いもなかった。もしかすると、吊り橋効果と同じような理論なのかもしれない。
「いらっしゃいませ」
客がまばらな店内で、ミホさんがこちらを見ながら微笑んでいる。
その笑顔と癒しのおかげで、俺の怒りは一瞬で鎮まった。
「ご注文はいかがいたしますか?」
「アイスコーヒーを一つ、お願いします」
「ミルクや砂糖はお付けしますか?」
「い、いえ・・・大丈夫です!」
「かしこまりました!お作り致しますので、お席でお待ちください」
この店に来るのも二回目なのだから、ミホさんに少しでも顔を覚えてもらいたい。
周りを見渡すと、俺以外の客は二、三人程しかいない 。ミホさんが俺に費やしても良い時間はある程度あるはずだ。
しかし、どうやって話しかけたらよいのだろうか。この赤いカーディガンに、話が上手くなる効果はもちろん無い。限られた時間の中で、ミホさんへの質問をいくつか挙げた。
『お元気ですか?』
いきなり聞かれても困るな・・・
『趣味は何ですか?』
唐突過ぎるな・・・
『ミホさんにとって、コーヒーとは何ですか?』
初めての会話でこんな哲学的な問いは意味不明すぎるな・・・
そうこうしているうちに、コーヒーが来てしまった。
「お待たせしました。アイスコーヒーのブラックです」
「あ・・・ありがとうございます」
いくら予習をしても、ミホさんを目の前にするとどうしても思考停止してしまう。
今日もダメかと諦めかけたそのとき、ミホさんの方から俺に問いかけてきた。
「あ、これもしかして『Step.2』ですか?」
「え?あ・・はい、そうです」
「私このブランド好きなんです!」
「え、そうなんですか?」
意外にもミホさんがこの服に食いついてくれている。確かメンズしか無かった気がするが、とにかく良い掴みができた。
嗚呼、あのパーマ髭のクソ接客に屈しなくて本当に良かった。土俵際で降ってきた絶好のチャンス。これを逃すわけにはいかない。
「このワニのロゴがすごく可愛くて、愛着がすごく沸いているんです」
ミホさんはカーディガンのワニのロゴを見ながらニコッと笑った。
つられて俺も笑った。この距離でミホさんの笑顔を見られるのは格別だ。今日、俺とミホさんの間に、貴重な共通点が一つ生まれた。もう少し、あと少し、時間がゆっくり流れていれば良いのに。このまま話を続けて、まずは名前を覚えてもらおう。
「あ、僕、服部って・・・」
勇気を振り絞って口を開いた刹那、カウンターから男性店員の声がした。
「アリちゃーん!ちょっと対応お願いしていい?」
邪魔をするなと叫びそうになった。しかし、お客さんが店に入ってきたため、対応をしなければならないのだろう。俺は入り口のベルの音に一切気が付かなかった。ミホさんは「ただいまお伺いします」と言い、一枚の紙ナプキンをテーブルの上に置いた。
「すみません、喋りすぎましたね。ごゆっくりどうぞっ!」
ミホさんは早足で俺の元から去っていった。
ここまで会話ができたのだから、落胆する必要なんて無い。
俺は気を取り直して、ブラックコーヒーに口を付けた。
・・・『ワニ』に愛着があるのはなぜだろうか。
・・・『ありちゃん』というのは名字だろうか。
これらの疑問は、少しでもミホさんのことを知れた証拠だ。手元の紙ナプキンで、緩んだ口元の周りを拭いた。コーヒーの旨味だけが、口の中に広がっていった。
あの店には、もう二度と行くことはないだろう。このカーディガンに合うズボン は、きっと他にあるはずだ。十分程経過した後、顔を上げた。すると、俺はあのカフェの目の前に立っていた。
無意識に向かっていたのだろう。ここまでの記憶がほとんど無い。とにかく、今の俺には安らぎが必要だ。ガラス張りの店の前を右往左往してみる。
すると、奥の方にミホさんの姿が見えた。
パーマ髭への怒りで気持ちが高揚しているため、店内に入るのに何の迷いもなかった。もしかすると、吊り橋効果と同じような理論なのかもしれない。
「いらっしゃいませ」
客がまばらな店内で、ミホさんがこちらを見ながら微笑んでいる。
その笑顔と癒しのおかげで、俺の怒りは一瞬で鎮まった。
「ご注文はいかがいたしますか?」
「アイスコーヒーを一つ、お願いします」
「ミルクや砂糖はお付けしますか?」
「い、いえ・・・大丈夫です!」
「かしこまりました!お作り致しますので、お席でお待ちください」
この店に来るのも二回目なのだから、ミホさんに少しでも顔を覚えてもらいたい。
周りを見渡すと、俺以外の客は二、三人程しかいない 。ミホさんが俺に費やしても良い時間はある程度あるはずだ。
しかし、どうやって話しかけたらよいのだろうか。この赤いカーディガンに、話が上手くなる効果はもちろん無い。限られた時間の中で、ミホさんへの質問をいくつか挙げた。
『お元気ですか?』
いきなり聞かれても困るな・・・
『趣味は何ですか?』
唐突過ぎるな・・・
『ミホさんにとって、コーヒーとは何ですか?』
初めての会話でこんな哲学的な問いは意味不明すぎるな・・・
そうこうしているうちに、コーヒーが来てしまった。
「お待たせしました。アイスコーヒーのブラックです」
「あ・・・ありがとうございます」
いくら予習をしても、ミホさんを目の前にするとどうしても思考停止してしまう。
今日もダメかと諦めかけたそのとき、ミホさんの方から俺に問いかけてきた。
「あ、これもしかして『Step.2』ですか?」
「え?あ・・はい、そうです」
「私このブランド好きなんです!」
「え、そうなんですか?」
意外にもミホさんがこの服に食いついてくれている。確かメンズしか無かった気がするが、とにかく良い掴みができた。
嗚呼、あのパーマ髭のクソ接客に屈しなくて本当に良かった。土俵際で降ってきた絶好のチャンス。これを逃すわけにはいかない。
「このワニのロゴがすごく可愛くて、愛着がすごく沸いているんです」
ミホさんはカーディガンのワニのロゴを見ながらニコッと笑った。
つられて俺も笑った。この距離でミホさんの笑顔を見られるのは格別だ。今日、俺とミホさんの間に、貴重な共通点が一つ生まれた。もう少し、あと少し、時間がゆっくり流れていれば良いのに。このまま話を続けて、まずは名前を覚えてもらおう。
「あ、僕、服部って・・・」
勇気を振り絞って口を開いた刹那、カウンターから男性店員の声がした。
「アリちゃーん!ちょっと対応お願いしていい?」
邪魔をするなと叫びそうになった。しかし、お客さんが店に入ってきたため、対応をしなければならないのだろう。俺は入り口のベルの音に一切気が付かなかった。ミホさんは「ただいまお伺いします」と言い、一枚の紙ナプキンをテーブルの上に置いた。
「すみません、喋りすぎましたね。ごゆっくりどうぞっ!」
ミホさんは早足で俺の元から去っていった。
ここまで会話ができたのだから、落胆する必要なんて無い。
俺は気を取り直して、ブラックコーヒーに口を付けた。
・・・『ワニ』に愛着があるのはなぜだろうか。
・・・『ありちゃん』というのは名字だろうか。
これらの疑問は、少しでもミホさんのことを知れた証拠だ。手元の紙ナプキンで、緩んだ口元の周りを拭いた。コーヒーの旨味だけが、口の中に広がっていった。