第44話 第二章/ふたつの葛藤 ナジムの回想 -5
文字数 2,163文字
ナジムにとって、街なかをひとりで歩くことははじめての体験でした。
サラは、
夫(ハン)が留守にすることが多かったために、サム王様の寝るまえのお噺のとき以外は、常にナジムは自分の傍におき、街へ出るときも、〝マギラ〟との距離を測りながら、自由にうごくことを許しませんでした。
ナジムは、人びとの行き交うその煌 びやかな喧噪 のなかを、
まるで夢の中でもさまようように歩いてゆきました。
街なかをしばらく行くと、
どこから現れたのか、いつのまにか少女が目の前に立っていて、
うでにかかえた花束のなかから一輪をとりだして、
にっこり笑って差しだしました。
つぎはぎだらけの服の少女の履いている靴のさきからは、小さな親指がのぞいておりました。
ナジムは躊躇 なく手をのばし、
「ありがとう」と微笑みながら、
その白い造花の一輪を受けとりました。
すると少女は、手渡したその手をくるりとかえすと、
掌 を開いて、ナジムの顔をじっと見つめました。
ナジムは、
「……あっ」と、
右手にあった花を左手にもちかえて、
右手の掌 を上着の裾 でこすって、その小さな掌をとって微笑みかえしました。
すると少女は、
サッ、と手を引き、
引いたその手をナジムの目の前に突きだして、眉間 の皺 を強 くしました。
ナジムが、少女のうったえに首を傾 げていると、背後から少し大きな少女が現れて、
小さな少女の掌 の上に自分の掌を重ねて、
「金だよ。カネ――!」
と、ナジムを睨み上げました。
ナジムはその歳になるまで、お金というものをもったことがありませんでした。
「あっつ、ご、ごめんなさい。お金がないんだ」
すると大きな少女は、ナジムの手から花をとり上げて、
「カネもないのにうろつくんじゃねーよ。
ばーか!」と、
ナジムの足もとに唾を吐きつけ、
小さな少女の手をとって、
踵 を返して立ち去ってしまいました。
ナジムは、見たことも聞いたこともないその台詞 に、
驚くどころか、感動すらおぼえてしまいました。
『カッコいいー!
しかしなんて不思議な少女たちなんだ。
いったい……、
どんな生活をしてるんだろう?』
少女たちとの出会いをきっかけに、ナジムの好奇心は街の不思議に一気に惹きつけられてゆきました。
それからというもの、
母の巾着袋 の中から小銭をぬきだしては街へとくりだし、
そこで行われるさまざまなできごとを見て、さわって、味わって歩きました。
そんな日がしばらくつづいたある日のこと――、
ナジムは、街を賑 やかに見せているその大本 には、
周りの音を掻き消しながら幾重にも重なりあって鳴りやまない激しい音と、
目まぐるしい明滅をくりかえしては、
網膜を刺激して止まない目映 い光の色彩とがあって、
それらをとり除いてみれば、
……およそ、人と街がバラバラに、
ちがう景色になって見えてくることを発見しました。
しかも街なかには、
最初に見たような貧しい格好をした子どもの姿はどこにもなく、
子どもたちはみなカラフルな衣装に身をつつみ、
いくつものグループに分かれて、
目も眩 むまばゆい色彩と音のなかを、
手に手に食べものや飲みものを持ち、
休みなくはなし、
ころがるように笑いあいながら、
……それはまるで、
〝マギラ〟から〝マギラ〟へと、
花を求めていそがしく飛びまわるチョウチョのようでした。
しかし……ナジムにとって、
〝マギラ〟のあふれる場所にいて親の保護もなく、
子どもたちだけでひらひらひらひらと飛び交っているようなその姿が、
いつか、街に潜 む危険な網に捕まりはしまいか……、
悪いできごとにまき込まれはしまいか――、
と、そのことが気になって、
楽しい気分に浸 っていることができなくなってしまいました。
それほど街なかは、母親がいっしょであれば許されないであろう危険なにおいにあふれて見えました。
ナジムより年上の人たちに目を移すと、
その目はまるで、
〝マギラ〟のなかに現実を見ているような虚 ろなまなざしで、
また、街なかの方方にいて、祭りのかっこうをしてなにやら配り歩く人たちは、
満面の笑みを湛えて道行人に近づくと、相手の素振りもかまわず無理矢理それを持たせ、
また、耳当てから流れる音に陶酔する人びとは、
虚空をみつめ、身をくねらせながら、それらの人びとのあいだをすりぬけてゆきました。
ナジムは歩き疲れ、小さなベンチを見つけて腰をおろすと、
口にハンカチを当てて前かがみに、
胃から迫り上がってくるものを吐き出しました。
顔をあげると、空間はどこも広告板や広告灯であふれかえり、
道行く人のだれもが、
こころここにあらずの様相であわただしく、
現実の足を〝マギラ〟の中につっこんだまま、
追いたてられるように通りすぎてゆくのが見えました。
目をとじると、
見えない威圧感におそわれ、
たまりかねて立ちあがり、
どこか……、こころのおちつける場所へ、と、ベンチをあとに、街なかを逃げるようにさまよい歩いてゆくと、
街なかのどこにも、老人のすがたのないことに気がつきました。
街が、〝マギラ〟にあふれていることは知っていましたが、
物珍しかった光景も、いよいよ街と人とがバラバラに、
街全体が……、なにか巨大な謀 のなかに呑み込まれているような、
自分もこのまま呑み込まれてしまいそうな……そんな恐怖感に魘 われ、
歩いているだけでも息は苦しく、頭は締めつけられて押しつぶされそうでした。
サラは、
夫(ハン)が留守にすることが多かったために、サム王様の寝るまえのお噺のとき以外は、常にナジムは自分の傍におき、街へ出るときも、〝マギラ〟との距離を測りながら、自由にうごくことを許しませんでした。
ナジムは、人びとの行き交うその
まるで夢の中でもさまようように歩いてゆきました。
街なかをしばらく行くと、
どこから現れたのか、いつのまにか少女が目の前に立っていて、
うでにかかえた花束のなかから一輪をとりだして、
にっこり笑って差しだしました。
つぎはぎだらけの服の少女の履いている靴のさきからは、小さな親指がのぞいておりました。
ナジムは
「ありがとう」と微笑みながら、
その白い造花の一輪を受けとりました。
すると少女は、手渡したその手をくるりとかえすと、
ナジムは、
「……あっ」と、
右手にあった花を左手にもちかえて、
右手の
すると少女は、
サッ、と手を引き、
引いたその手をナジムの目の前に突きだして、
ナジムが、少女のうったえに首を
小さな少女の
「金だよ。カネ――!」
と、ナジムを睨み上げました。
ナジムはその歳になるまで、お金というものをもったことがありませんでした。
「あっつ、ご、ごめんなさい。お金がないんだ」
すると大きな少女は、ナジムの手から花をとり上げて、
「カネもないのにうろつくんじゃねーよ。
ばーか!」と、
ナジムの足もとに唾を吐きつけ、
小さな少女の手をとって、
ナジムは、見たことも聞いたこともないその
驚くどころか、感動すらおぼえてしまいました。
『カッコいいー!
しかしなんて不思議な少女たちなんだ。
いったい……、
どんな生活をしてるんだろう?』
少女たちとの出会いをきっかけに、ナジムの好奇心は街の不思議に一気に惹きつけられてゆきました。
それからというもの、
母の
そこで行われるさまざまなできごとを見て、さわって、味わって歩きました。
そんな日がしばらくつづいたある日のこと――、
ナジムは、街を
周りの音を掻き消しながら幾重にも重なりあって鳴りやまない激しい音と、
目まぐるしい明滅をくりかえしては、
網膜を刺激して止まない
それらをとり除いてみれば、
……およそ、人と街がバラバラに、
ちがう景色になって見えてくることを発見しました。
しかも街なかには、
最初に見たような貧しい格好をした子どもの姿はどこにもなく、
子どもたちはみなカラフルな衣装に身をつつみ、
いくつものグループに分かれて、
目も
手に手に食べものや飲みものを持ち、
休みなくはなし、
ころがるように笑いあいながら、
……それはまるで、
〝マギラ〟から〝マギラ〟へと、
花を求めていそがしく飛びまわるチョウチョのようでした。
しかし……ナジムにとって、
〝マギラ〟のあふれる場所にいて親の保護もなく、
子どもたちだけでひらひらひらひらと飛び交っているようなその姿が、
いつか、街に
悪いできごとにまき込まれはしまいか――、
と、そのことが気になって、
楽しい気分に
それほど街なかは、母親がいっしょであれば許されないであろう危険なにおいにあふれて見えました。
ナジムより年上の人たちに目を移すと、
その目はまるで、
〝マギラ〟のなかに現実を見ているような
また、街なかの方方にいて、祭りのかっこうをしてなにやら配り歩く人たちは、
満面の笑みを湛えて道行人に近づくと、相手の素振りもかまわず無理矢理それを持たせ、
また、耳当てから流れる音に陶酔する人びとは、
虚空をみつめ、身をくねらせながら、それらの人びとのあいだをすりぬけてゆきました。
ナジムは歩き疲れ、小さなベンチを見つけて腰をおろすと、
口にハンカチを当てて前かがみに、
胃から迫り上がってくるものを吐き出しました。
顔をあげると、空間はどこも広告板や広告灯であふれかえり、
道行く人のだれもが、
こころここにあらずの様相であわただしく、
現実の足を〝マギラ〟の中につっこんだまま、
追いたてられるように通りすぎてゆくのが見えました。
目をとじると、
見えない威圧感におそわれ、
たまりかねて立ちあがり、
どこか……、こころのおちつける場所へ、と、ベンチをあとに、街なかを逃げるようにさまよい歩いてゆくと、
街なかのどこにも、老人のすがたのないことに気がつきました。
街が、〝マギラ〟にあふれていることは知っていましたが、
物珍しかった光景も、いよいよ街と人とがバラバラに、
街全体が……、なにか巨大な
自分もこのまま呑み込まれてしまいそうな……そんな恐怖感に
歩いているだけでも息は苦しく、頭は締めつけられて押しつぶされそうでした。