第49話 第二章/ふたつの葛藤 ナジムの回想 -10

文字数 2,229文字

 
 そんなある晩のこと――、

 夢とも(うつつ)ともしれないできごとがナジムのからだにおこりました。

 気がつくと、ナジムのからだは暗黒の宇宙の中にひとりで浮かんでおりました。

――と、つぎの瞬間、
ナジムの足は闇のなかにとけだし、
それが……、まず肉体となる肉質の部分が溶けおち、
ついで血液と血管が、
そして骨の組織と神経組織の一本一本までもがつぶさにとり去られ、なくなってゆく味わったこともない感覚で、
やがてそれが足の付け根へとのぼり、
太腿から腰のあたりへとすすんで――、
むねへ……、
そして肺も、
しんぞうも、
脳も、
記憶も、
自分のすべてが消えてなくなる――‼

と、うったえる叫びが、
この世のものとは思えぬ、阿鼻叫喚(あびきょうかん)となってナジムを襲いました。

 それは、

『生きている、自覚そのものを失う』
ことへの――、
恐怖でした。


 しかもそのようすを、
じぶんという

が、
とじることができないままみつめつづけておりました。

 そして

は……、
自分が、
宇宙のなかから消えてなくなった、その瞬間を見届けて――、
なお、
そこにありました。

 すると――、

いままで見ていたそこに、
自分のかたちをなぞるように……ひかりがあらわれて、

 ひかりは、


―…  ワタシ  …―  


 と、

を発しました。


 ナジムは、そのことばにみちびかれるように現実の自分に引きもどされてゆきました。

 目が()めると、寝台のシーツは脂汗でびっしょりに濡れておりました。

 ナジムは身体をさわり、
そこに

のあることを確かめて――、

『……わたしは、わたしを苦しめているものの正体を視たのだ!

 わたしが恐れていたものとは、
自分のつくりだした世界ではないか!

 わたしはまだ、
現実の世界のことなんか、なんにも()らないではないか!

 わたしはただ、自分の作る影に、
(おび)えていただけだったんだ!』


 ナジムを苦しめていた

は、宇宙の闇の中に溶けだして、
まるで、
(さなぎ)(ちょう)にすがたを変えるように……、

になって現れ出たのでした。


 ナジムは思わず叫びました。

「逃げることなんてなにもなかった。

 今の自分がほんとうなんだ!

 

のが――、

なんだ!」


 夜が明けると、ナジムは母のもとへ行き、

「――お母さま、
わたしはもういちどあの場所へ行ってまいります。
行って、しっかりと、
あの人たちの生活を見届けてまいります!」


 こうしてナジムはふたたびその場所を目指しました。

 急ぎ足で街を通りぬけ、見ちがえるほど整備された道に沿って進んでゆくと、周りは、真新しい家ばかりで、そのあまりの変貌(へんぼう)に、
『道をまちがえたのか?』と、引きかえしたほどでした。

 そうして土手までやって来て、あの日とおなじ斜面をかけあがり、金網の柵までのぼり上がって顔をあげると、
あのときとおなじ、真っ赤な柱がそこにありました。

……すると不意に、あの日とおなじ異臭が嗅覚(きゅうかく)をとらえて、
ナジムの記憶を、四年まえのあの日に(さら)ってゆきました。

 ナジムは、あの日とおなじように、左手のゆびさきで金網をたどりながら、
あのときとおなじ穴を見つけて、あの日とおなじようにくぐりぬけて……、
ここにくるまでに見た家々のように、変わっているかもしれない佇まいを思い願って……、道の対岸に目をやりました。

 しかし、見おろす土手の底には、あの日とすこしもかわらぬ景色ばかりがひろがっていて、四年前そのままに、その家もありました。

 すると、最初おとずれたときには気づかなかった、煙突がひとつ、少し離れた場所に立っているのが目に留まりました。

 煙突の先からは白っぽい煙が立ちのぼっていて、異臭はどうやらそこからやってきているようでした。

『なにを燃やしてるんだろう?』

 ナジムは、吸い込んだ息を吐きだし、もういちど大きく吸い込むと、
土手の斜面を、目的の家を目がけて一気に駆け下りました。

 そして家の前にきて立ち止まると、……呼吸を整えなおして、
あの日とおなじ梯子に手をかけ、覚悟を決めて、二段目の段に足をのばしました。

 すると、
踏みしめる段の(きし)む音が……、
あの日の老婆が頭の上からのしかかってくるようで、危うく、段を踏みはずしそうになりながら、
……あのとき腐って落ちかかっていた段に差しかかると、そこだけがあたらしく造りなおされていて、
そこに足をかけた、そのとき……、
扉の開く音が聞こえました。

 ナジムは、
こんどは(あわ)てぬように、
最後の段をはなれた足が……床を踏んで、
からだを返した……そこで、
深々と頭を下げて、ゆっくりと起こしました。

 すると、以前、老婆が立っていたそこにはちがう女性が立っていて、
女性は、腰に手を当て顔を斜めに、
「なんだい」
と、ぶっきらぼうに言いました。

 ナジムは、
「……あっ、と、とつぜんすいません。
 わたくし、四年ほどまえにこちらにうかがった者ですが……、
 そのときにいらした、フエお(ばば)さまはいらっしゃいますか?」

 五十歳くらいの女性は、髪の中に右手をつっこむと、音がするほど()穿(ほじ)りながら、

「あー、おっ()んじまったよ」
と、指の先のものをふき飛ばしながら、こともなげに言ってのけました。

 そのことばを聴いた瞬間、

「あぁぁー、おそかった!
 どうしても――、
どうしてもお会いしたかったのに……」


 苦しみつづけたこの四年間、
やっと、その壁をとりはらえるときが来た!
 と、勢い勇んでやってきたその思いが、
見るも無惨(むざん)に打ちくだかれて、

ナジムは、
がっくりとその場にへたりこんでしまいました。
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