隠 太郎 (カクレタロウ)さんのプロフィール
画家でありながら小説を書いています。
小説を書きはじめたのは、…といっても、小冊子がはじまりだったのですが、今から40年前のことです。
その内容を十数年掛けてまとめた物語が、第三作目の「黄金龍と星の伝説」です。
今後、毎日一話のペースで投稿して行く予定です。
第一作目の「片おもい」は、現在のじぶんに至るキッカケになった出来事を小説に仕立てたものです。
現在のじぶんとは、絵を描き、小説を書いている自分です。
第二作目の「クレヨン・アイ」は、絵を描きながら色について思うことを物語にしたものです。
まったくの新参者ですが、なにとぞ宜しくお願いいたします。
<著者 プロフィール>
1958年8月9日 本名:瀬﨑 正人(せさき まさひと)
広島県江田島に生まれる
1974年
佐世保工業高校入学。同年、東京へ家出。都会の巨大さに恐れと憧れを抱きつつ一週間で戻る。
1977年
同校卒業、両親の望む道へ進む。が、一年目の終わり頃、憧れていたスタントマンのオーデション のチラシを見て、それを受けるために両親の望んでいた道を辞めることを決める。
1978~1980年
あらゆる反対を押し切りスタントマンの道へ。
スーツアクターとして日米合作[THE IVORY APE]に出演。当のゴリラ役を演じ、ジャックパランス とも共演。
その後、[ウル○○マン80]として大抜擢をうけるが太腿が太すぎて怪獣役に転じ、第三話[ホ○]を演じている最中にウルトラ○○のキックを目に受け大怪我。芸能界を去る。
1982年
〝人間の幸せの本質〟についてインスピレーションを受け、冊子に纏めるが、誰一人の理解も得られ ずに悶々とした日々を送る。
1983年
自分の生涯を、その実現のために生きると決意。
フォアン・ミロの作品に出会い〝愛〟をモチーフにした油彩画を描き始める。
1985~1992年
上京、画家として活動。銀座、ギャラリーケルビームにて油彩画展開催。
その後、同ギャラリーにて個展、グループ展、コンテンポラリーアート展などを毎年開催。が、この 間、支援活動に溺れて多額の借金を負い、サラ金地獄に堕ちる。
この頃、八つの禍を抱え、〝闇〟に溶けてなくなる自分と、そこから現れた〝光〟の内的体験をする。
同時期、三男の弟(舞台監督)の紹介で、油彩3点が当時人気の[T・BORUN] のコンサートのステ ージにて起用される。
1992~1995年
借金返済のため栃木へ、コックを始める。
スケッチとの出会い。オイルクレヨンにてスケッチ開始。
1996年
ギャラリーオーナーとオーナーの友人。そして僕の友人と親の支援により借金返済終了、退社。
初冬の北海道へ野宿しながらのスケッチ旅行に出る。そこで、地球を包み込む虹に出会う。
1997年
帰郷。
佐世保・島瀬美術センターにて「北海道放浪スケッチ展」開催。
そのころ、生月島の原始を感じる風景に出会う。
1998年~
虹の色を重ねて自然の色彩を表現する「虹彩法(こうさいほう)」を考案。
1998年~
生月島に二度目に訪れた際、ここにギャラリーを作りたいと切望して通い始め、その時に出会った方に、最北端の大バエ灯台下に放置してあった廃屋を紹介して頂く。
その敷地内にてテントギャラリーを開始。同時期、「虹彩法」スケッチ会を開始。
同年
日向地方をスケッチ旅行中「日向新しき村」の松田省吾さんと出会う。
松田さんと、ご友人の方々の全面的な協力と、生月の方々ほか多くの方の協力を頂き、廃屋の改修工 事を行う。
2000年
結婚、生月島に定住。娘を授かる。
以後、クレヨン画家として毎年10回程度の展覧会を九州各地で開催。(東京・広島展開催)
同時期より生月町博物館主催の「夏休み子供スケッチ会」を毎年開催。
メルヘン小説など書きはじめる。
2002年
生月島初の天皇皇后両陛下御来島の際、ご休憩場所である[島の館]館内各所に作品を展示して頂く。
2008年~
展覧会収入が思うように得られなくなり、画家活動を休止。
様々な仕事に就く。この間、執筆活動に没頭。「人の世の物語」と題して、当物語の執筆を開始。
2023年
この年、「人の世の物語」を「黄金龍と星の伝説」と題名を改めて上梓(電子書籍化)する。現在保留中。
様々な条件が整い、それまでの仕事を辞めて絵描きとしての活動を再開する。
生月最北端の地に、ギャラリーオープンを目指して準備中。
小説を書きはじめたのは、…といっても、小冊子がはじまりだったのですが、今から40年前のことです。
その内容を十数年掛けてまとめた物語が、第三作目の「黄金龍と星の伝説」です。
今後、毎日一話のペースで投稿して行く予定です。
第一作目の「片おもい」は、現在のじぶんに至るキッカケになった出来事を小説に仕立てたものです。
現在のじぶんとは、絵を描き、小説を書いている自分です。
第二作目の「クレヨン・アイ」は、絵を描きながら色について思うことを物語にしたものです。
まったくの新参者ですが、なにとぞ宜しくお願いいたします。
<著者 プロフィール>
1958年8月9日 本名:瀬﨑 正人(せさき まさひと)
広島県江田島に生まれる
1974年
佐世保工業高校入学。同年、東京へ家出。都会の巨大さに恐れと憧れを抱きつつ一週間で戻る。
1977年
同校卒業、両親の望む道へ進む。が、一年目の終わり頃、憧れていたスタントマンのオーデション のチラシを見て、それを受けるために両親の望んでいた道を辞めることを決める。
1978~1980年
あらゆる反対を押し切りスタントマンの道へ。
スーツアクターとして日米合作[THE IVORY APE]に出演。当のゴリラ役を演じ、ジャックパランス とも共演。
その後、[ウル○○マン80]として大抜擢をうけるが太腿が太すぎて怪獣役に転じ、第三話[ホ○]を演じている最中にウルトラ○○のキックを目に受け大怪我。芸能界を去る。
1982年
〝人間の幸せの本質〟についてインスピレーションを受け、冊子に纏めるが、誰一人の理解も得られ ずに悶々とした日々を送る。
1983年
自分の生涯を、その実現のために生きると決意。
フォアン・ミロの作品に出会い〝愛〟をモチーフにした油彩画を描き始める。
1985~1992年
上京、画家として活動。銀座、ギャラリーケルビームにて油彩画展開催。
その後、同ギャラリーにて個展、グループ展、コンテンポラリーアート展などを毎年開催。が、この 間、支援活動に溺れて多額の借金を負い、サラ金地獄に堕ちる。
この頃、八つの禍を抱え、〝闇〟に溶けてなくなる自分と、そこから現れた〝光〟の内的体験をする。
同時期、三男の弟(舞台監督)の紹介で、油彩3点が当時人気の[T・BORUN] のコンサートのステ ージにて起用される。
1992~1995年
借金返済のため栃木へ、コックを始める。
スケッチとの出会い。オイルクレヨンにてスケッチ開始。
1996年
ギャラリーオーナーとオーナーの友人。そして僕の友人と親の支援により借金返済終了、退社。
初冬の北海道へ野宿しながらのスケッチ旅行に出る。そこで、地球を包み込む虹に出会う。
1997年
帰郷。
佐世保・島瀬美術センターにて「北海道放浪スケッチ展」開催。
そのころ、生月島の原始を感じる風景に出会う。
1998年~
虹の色を重ねて自然の色彩を表現する「虹彩法(こうさいほう)」を考案。
1998年~
生月島に二度目に訪れた際、ここにギャラリーを作りたいと切望して通い始め、その時に出会った方に、最北端の大バエ灯台下に放置してあった廃屋を紹介して頂く。
その敷地内にてテントギャラリーを開始。同時期、「虹彩法」スケッチ会を開始。
同年
日向地方をスケッチ旅行中「日向新しき村」の松田省吾さんと出会う。
松田さんと、ご友人の方々の全面的な協力と、生月の方々ほか多くの方の協力を頂き、廃屋の改修工 事を行う。
2000年
結婚、生月島に定住。娘を授かる。
以後、クレヨン画家として毎年10回程度の展覧会を九州各地で開催。(東京・広島展開催)
同時期より生月町博物館主催の「夏休み子供スケッチ会」を毎年開催。
メルヘン小説など書きはじめる。
2002年
生月島初の天皇皇后両陛下御来島の際、ご休憩場所である[島の館]館内各所に作品を展示して頂く。
2008年~
展覧会収入が思うように得られなくなり、画家活動を休止。
様々な仕事に就く。この間、執筆活動に没頭。「人の世の物語」と題して、当物語の執筆を開始。
2023年
この年、「人の世の物語」を「黄金龍と星の伝説」と題名を改めて上梓(電子書籍化)する。現在保留中。
様々な条件が整い、それまでの仕事を辞めて絵描きとしての活動を再開する。
生月最北端の地に、ギャラリーオープンを目指して準備中。