『善の研究』を読む③

文字数 4,386文字

でね、いよいよここから『善の研究』の中身へ入っていくわけだが、

西田は、この〈はたらき〉を「神」だと表現する。

〈はたらき〉=「神」

もう一度繰り返しておくね、くどいけど、

事物など存在しない。

真に実在すると言えるのは〈はたらき〉のみ。

そして、その〈はたらき〉の渦中から、

いわば空即是色として、

事物だと思えるような「モノ」が立ち上がってくる、だけ。

ただし「モノ」の本性は、「空」。

そして、この〈はたらき〉こそが、「神」。

ここまで理解してしまえばもう、

西田幾多郎『善の研究』についてはね、

半分くらいわかってしまったも同然だよ。

え? もう半分?
イエス!
『善の研究』は、全部で4つのブロックにわかれている。

第一編 純粋経験

第二編 実在

第三編 善

第四編 宗教

じつは『善の研究』って、

べつべつに書かれた論文の寄せ集めなんだな。

でね、用語に統一性がなかったりするんだけど、

それはさておき、

全体のバランスがとれているようで、とれていない。

だから必ずしも頭から読み進めるのがいい、とは限らない。

西田本人は、いっそ第一編「純粋経験」をスッ飛ばして、第二編「実在」から読み進めていくのもアリ、と言っているが、

ぼくはね、おそらくこんなことを言ってるのは、日本ではぼくだけ、とも思うんだが、

以上のことを踏まえて、

むしろ逆にね、逆さから、第四編「宗教」から始めて、第三編、第二編、第一編、と進んでいったほうが、じつは案外わかりが良い、と思うんだよね。


ところがたいてい、とりわけ哲学の研究者はね、

第一編「純粋経験」からスタートしてしまい、

結局、そこで踏み止まったまま、袋小路にハマってしまう人が多いように感じる。

というのも、ベルクソン(1859-1941)なりジェームズ(1842-1910)なり、

西洋系の思想に明るいとね、かえってそれがアダとなり、

なるほどたしかに、第一編「純粋経験」については理解しやすくなり、

とっつきやすくなり、よくわかるようになるんだけど、

西田の言う「純粋経験」は、西洋思想から衣装を借りてるわりには、異質でね、

毛並みが違うんだよ。

だから、そこから第二編、第三編、第四編へと読み進めていくうちに、

わけがわからん! となる。

でもって、ひどいケースになると、

『善の研究』への理解を、第一編「純粋経験」のところで止めてしまい、

なんとまぁ、「純粋経験」のお話だけで、『善の研究』すべてを語り尽くしてしまう、という暴挙にでる。

結果、見事なまでの誤読をしでかすことになる。

実際、ぼくの話を聞いてから、世の中にあまたある概説書を読んでみてよ。

これからぼくが言うことと、かなりのズレがある、というか、結構違うよ。

はいはい、それはいいから、

話しを進めてくださいな。

オッケー。
西田にとっては、〈はたらき〉が「神」だと言った。

さて、第四編「宗教」へ踏み入ろう。

そこでは、繰り返し、神は宇宙の根本だと語られる。

ここで、「神」を一般的な意味での神だと受け取らないでくれよ。頼むから。

西田の言う「神」とは、言葉を足すなら、

「この宇宙に宿る、この宇宙をこの宇宙たらしめている根本的な〈はたらき〉」ということになる。

カルロ・ロヴェッリ流の量子重力理論でいうなら、

その〈はたらき〉がなければ、そもそも宇宙がこのようには成立していない、相互作用、関係性のことになる。

だから西田は言う。

【余は神を宇宙の外に超越せる造物者とは見ずして、ただちにこの実在の根底と考えるのである。】(P402)

西田はキリスト教についても独自の解釈をするから、

西田流のキリスト教解釈は脇へ置くとして、

一般論で言うならさ、キリスト教の神は、世界の「外」にいるよね。

だって、この世界を造った、ってことはさ、そういうことなんだから。

ところが西田の言う「神」は、この世界をこのように立ち上げている根本的な〈はたらき〉のことなんだから、世界内在的、世界の内側にあるものなんだ。

普通、神とは、この世界を超越する存在者なんだが、

西田の場合、超越者ではなく、内在する〈はたらき〉

ていうか、それならもう、「神」って呼ばないほうがよくない?

わかりにくいし。

わしもそー思う。
ちなみに、この第四編に、興味深い記述がある。

唯物論者や一般の科学者のいうように、物体が唯一の実在であって万物は単に物力の法則に従うものならば神というようなものを考えることはできぬであろう。】(P403)

これ、ぽろっと読み落としがちだけど、すげぇこと書いてるんだよ。

つまり、もうすでに、ぼくが言っちゃってることだけど、

一般常識でいうと、この世界は「モノ」から成り立ってる、と思う。

あらかじめ事物があり、実体AならA、BならBがあり、それらが決められたパターンで相互作用する、そんな法則を描き出す、のが科学だと思われているし、これが唯物論的な世界観だ。

しかしそれが正しいとするなら、西田に言わせれば、それなら「神」が出てこない、というわけ。

そうではなく、じつは事物が存在しないからこそ、事物が実体として自立自存していないからこそ、つまり、カルロ・ロヴェッリの言うように、むしろ相互作用、関係性こそが事物を事物たらしめているのだとするなら、〈はたらき〉こそが「モノ」を生み出しているのだとするなら、そこでこそ、はじめて「神」(=〈はたらき〉)が問われるようになるのだ、というわけ。

つまり、西田は当時の一般的な自然科学観をすでに突き抜けちゃってるんだよね。

すでにこの時点で、カルロ・ロヴェッリに近い見方をしている。



さらにここで、さらなる難解な主張が・・・・・・

西田にとって、「神」=〈はたらき〉なのは、よいとして、

その「神」とは、【宇宙の根底たる一大人格】(P409)だと言う。

え? 人格?

結局、「神」は人格をもってるってこと? え?

と、いうふーに読んでしまうと、ドツボにはまる。
非人格的な〈はたらき〉なのに、え? 人格? と。

やっぱりキリスト教の神っぽい感じなんじゃね? と。

だからインド哲学とか、仏教とかにある程度造詣がないと、西田哲学を読み誤ってしまうんだよね・・・・・・
ここに、ぼくの後ろの本棚に、『ブッダのことば スッタニパータ』(中村元訳、岩波文庫、1984)がある。

そこから、ちょっと引用してみようか。

自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。】(P236)

素朴心理学というか、一般常識では、ぼくならぼくという、れっきとした人格がある、と思うよね。

当たり前でしょ。

私は私だし、あなたはあなた。同じじゃない。別人格。

それが違うんだよ。
はい?
仏教では、そのような人格は存在しない。

無我の思想、なんて呼ばれたりするけど。

この話をしはじめると、またしても終わらなくなるから、

思いっきり短絡して言ってしまうけど、

さっき、娘の前では母に、恋人の前では女になる、なんて話をしたけれど、

あらかじめ人格があり、人格と人格がコミュニケーションしているんじゃなく、

コミュニケーションの渦中において、その人がその人として立ち上がってくるんだよ。

それは、カルロ・ロヴェッリが、あらかじめ事物に属性がそなわっているのではなく、

相互作用において事物の属性が定まる、と言ってるのと重なる。

だから、釈尊は自我に固執するなよ、と言う。

だって、自我とは実体ではないから。

もっと言うと、そのような意味においては、自我なんて存在しないから。

自我の本性は「空」なんだから。

ちなみに、それがわかってしまえば、死を乗り超えられると釈尊は言う。

だって、自我の本性が「空」なのだとしたら、

いったい誰が死ぬのか?

死にゆくAとは、いったい誰のことなのか?

だから般若心経では、不生不滅、なんて言葉がでてくる。

もし実体というものが存在するのであれば、生まれて、滅することもあろう。

そうではなく、この世界に実体なるものが存在しないのであれば、

終始一貫して、実在するものは〈はたらき〉のみであり、

この〈はたらき〉は、生まれることも、滅することもないのであるから。

でね、西田の言う「人格」とは結局、

一般的な意味での、日常用語で使われるような人格のことではなく、

この、〈はたらき〉のことなんだよ。

それでもなぜ、あえて「人格」なんて言葉を使ってしまうのかというと、

ぼくは西田本人じゃないから、真意はわからないけれど、

たぶんきっと、この〈はたらき〉には方向性があるから、デタラメじゃないから、

そういうことをね、表現してるんだろーなー、と思う。

たとえば、ノドが渇いたら、コンビニでジュースを買うよね。

ノドが渇いたのに、コンビニで本を買おうとは思わない。そんなのデタラメな行為だ。

ぼくには「人格」がある、というのは、ぼくがデタラメにふるまわない、ということでもある。

ぼくは、ぼくらしい行為をする。

同様に、この世界を生成させている〈はたらき〉は、デタラメなものじゃない。

ノドが渇いてコンビニで本を買ってしまうような〈はたらき〉ではない。

そんな〈はたらき〉だったら、そもそも世界は成立していないかもしれないし。

激ムズ~。

超まぎらわしい。

わしもそー思う。
西田は、万物は神の表現であって神のみ真実在である、とか言うが、

その意味も、ここまできたら容易に理解できるだろう。

すべては〈はたらき〉によって生まれるわけだし、そうであるから、あらゆる事物は自立自存する実体ではない。

ゆえに、真に実在するものがあるとすなら、それは唯一〈はたらき〉のみ

そうやって言えばいいのに、

あえて難しく、わかりにくい表現してるよーな気がする~

わしもそー思う。
とはいえまぁ、以上が、

第四編「宗教」の内容の、おおむね半分かな。

残り半分が、じつは、より厄介なんだが、

西田は、ぼくたちの精神は「神の部分的意識」(P394)だとか言う。

つまり、「我々の意識は神の意識の一部」(P408)とか・・・・・・

はい~?

わけわかめ。

インド哲学とか、仏教思想を知らないと、

結構ここで完全に、つまづくような気がするな~。

今までのお話は、インド哲学でいう、

ブラフマン(=〈はたらき〉)がわかっていると、

あっさり理解できてしまうんだが、

ここから先は、同じくインド哲学でいう、というか、

インド哲学(ウパニシャッド)の根本的な主張なんだが、

ブラフマン=アートマン

が、わかってないと、つらいし、逆に知っていると、

これもすんなり理解できるようになる。

ちなみに、

ブラフマン=アートマンは、

真言密教で翻訳すると、

梵我一如

となる。

西田は同じ仏教でも、

とりわけ禅の人だし、それ以外では浄土真宗に造詣が深かったんだが、

とはいえ、禅においても、その思想、無位の真人、は、アートマンと重なるが、

ここでは長くなるから述べない。

とりあえず、第四編「宗教」の後半戦といきましょう。
ど、ぞー。
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