『善の研究』を読む②
文字数 6,464文字
『善の研究』は、かなり誤読されまくってると思う。
なんでそうなってしまうかというと、
こいつをマトモに理解しようとするなら、
西洋哲学的な素養・知識はむしろ邪魔、災いとなり、
古代インド哲学や、仏教について知っていたほうが間違えなくて済むからなんだよ。
たとえば、『善の研究』の中では、「神」について、たくさん語られていくが、
この「神」を一般的な意味での、もっと言うと、西洋的な意味での「神」だと受け取ってしまうと、
完全に西田の主張を間違えてしまうことになる。
さらには、あとで詳しくふれるけれども、有名な純粋経験なる概念についても、
たしかに、欧米の思想から強い影響を受けて提示されているわけなんだが、
それは認めるが、そのとおりだが、
ただし、その欧米思想の延長線上でとらえ続けてしまうと、やはり間違う。
西田の言う私の純粋経験は、私の根底にある純粋経験は、
なんと私の底を突き抜けて、いわば私とあなたを包含しているので、え? となるし、戸惑うし、
純粋経験こそ真なる実在だと言うが、真なる実在は「神」だと言う。
となると、純粋経験は「神」? は? え? となるだろう。
でもって、純粋経験において、私と「神」は合一することになる? ということで、???となる。
意味がわかりませぬなぁ・・・・・・
読み進めるうちに、どんどん頭が混乱していくことになるだろう。
結局、超訳してしまうなら、
この『善の研究』って、
古代インド哲学でいう、
ブラフマン=アートマンの思想を、
西洋風の言いまわしでもって語り直しているだけ、にみえなくもないんだ。
ちなみに、『善の研究』の中でも、ブラフマン=アートマンのことについてはね、ときどき出てくるし。
たとえば、ストレートに、ブラフマン=アートマンの思想をベースに、
あるいは表立って仏教をベースに、つまり、
東洋思想の言葉で語ってくれたなら、なんとことはない、
『善の研究』は、わりと平凡な一書となり、わかりも良かったと思うんだが、
それを、なんつーか、むりやり西洋の衣装を着せて語ろうとしているから、
途端にややこしくなる。
詳しく、いや、超訳してかな、
このサイトのチャットノベルの中で、
[世界宗教探求]インド篇、あるいは解脱のススメ?
の中でふれたので、先に目を通してもらえると、ありがたいんだが、
ここでは、ただでさえ超訳したものを、さらに超訳して語ることとしよう。
ただし、ここで注意が必要なのは、ブラフマンは実体ではない、ということ。
実体ではなく、〈はたらき〉。
このブラフマンは、一応、「神」だとされる。神。
ここで、頭の中が西洋にかぶれちゃってる人たちは、一瞬にして、つまづく。
なぜなら、「神」とは実在するものだと、そのように(西洋では)位置づけられてる概念だからさ。
実在しない「神」、存在しない「神」なんて、そもそも「神」と言えるのかい? @西洋では。
しかしそれはホントは「空」なんだという。
「空」とは、空っぽってことなんだが、まぁ要するに、独立自存した実体ではない、ということ。
つまり色即是空とは、ぼくらが通常、実体だと思い込んでいるものは、じつは実体ではない、ということを言っている。
思いますに、じつは、色即是空より、空即是色の方が重要、というか、空即是色の方に、むしろアクセントを置いてしまった方がわかりやすいと思う。
空即是色というのは、本来、実体がないはずなのに、なぜかしらいつも、実体があるかのように立ち上がってしまう、ということ。
本来、そいつは実体がないはずなのに、なぜかしらいつも、あたかも実体があるかのように立ち上がってくる・・・・・・けれど、やはりホントは実体じゃないんだよね、ということ。
答え。そのように、実体がないはずのものを、実体があるかのように立ち上げてくる〈はたらき〉が、この世界には満ち満ちているからだ。
そして、その〈はたらき〉こそ、ブラフマンだ。
ブラフマンの〈はたらき〉により、「空」は「色」となって顕現するが、やはりそうではあっても、「色」はその本性において「空」なのだ。
色即是空、空即是色。
そうなると、ここで最初のポイントが訪れるのだが、
本当の意味で存在していると言えるもの、真実在とは、すなわち、この〈はたらき〉のみ、ということになる。
それぞれの「色」は真に実在しているとは言えない。なぜなら、ホントは「空」だから。
通常、はたらきというと、たとえば、ぼくが机を押すように、
実体Aが実体Bに加える力、とか、まぁ要するに、
ある実体が、ある実体へ影響を与えることだ、と思われてしまう。
だが、これは違う。
色即是空、空即是色の思想では、そもそも実体は無いのだから。
真に実在するのは〈はたらき〉のみである。
この〈はたらき〉の中から、〈はたらき〉において、本来はありもしない実体が、あたかも実体としてあるかのように立ち現れているだけなのだから。
実体Aが実体Bへ、はたらきかける、のではなく、
いわば〈はたらき〉の渦中から、実体Aが、実体Bが、ホントは実体ではないけれど、あたかも実体であるかのように、それぞれ立ち上がってくるのだから。
つまり、実体Aも実体Bも〈はたらき〉と共にあり、〈はたらき〉からは切り離せない。
そうだねー、だったら、みなさんが一般に、現実を記述してると思ってる物理学からも、助け舟を出してもらうとしよう。
ぼくの後ろの本棚に、
カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている -美しくも過激な量子論-』(冨永星訳、NHK出版、2020=2021)なんて本がある。
少し前だと、数学的かつ思弁的な超ひも理論、なんてのもでてきて期待されてたが、
最近じゃ、量子重力理論が注目されている。
カルロ・ロヴェッリは、この量子重力理論の論客だ。
結論だけ言うね。
量子論の世界では、一般常識的に考えて、奇妙奇天烈なことが起きるわけだが、
それらを整合的に解釈しようとするなら、
それこそ、ある一般常識を捨てる必要がある、と、カルロ・ロヴェッリは言う。
その金属も、鉄だったり何だったり、するわけだよね。
ちなみに、鉄は、原子番号26の元素。
さらにね、その鉄となっているものをさ、さらに細かくみていくと、
一つ一つの原子からなっているわけでしょう。
この原子も、さらに細かくみていくと、
原子核と電子より成っている。
で、さらに・・・・・・と分解していくわけなんだけど、
結局、ここで暗黙の大前提にしちゃっていることは、
なんだかんだで、この世界に存在するものは、
細かくみていくと、とてもとても小さなものになっていくけれども、
やはり「モノ」から成っているよね、
「モノ」がドッキングして、より大きな「モノ」になってるだけだよね、っていう思い込みなんだ。
超ミクロな物理現象を記述する量子論の舞台へ移るとだ、
この世界は「モノ」より成っている、という一般常識を前提にしていると、
理解できないことだらけ、となってしまう。
頭が大混乱してしまうのさ。
理屈に合わない、矛盾だらけでね。
カルロ・ロヴェッリの結論というか、仮説だけをここで言うことにするけど、
要は、世界の基本単位を「モノ」だと考えるな、ということ。
そうなると、なんと、ここで意外にも、量子論が仏教と出会うことになる。
色即是空、空即是色。
実際、カルロ・ロヴェッリは、本書の中で、大乗仏教の大理論家であるナーガールジュナ(2世紀頃の人)について言及してるし、
色即是空、空即是色、「空」についても語っているんだ。
【ナーガールジュナの著作の中心となっているのは、ほかのものとは無関係にそれ自体で存在するものはない、という単純な主張だ。この主張はすぐに量子力学と響き合う。(中略)何ものもそれ自体では存在しないとすると、あらゆるものは別の何かに依存する形で、別の何かとの関係においてのみ存在することになる。ナーガールジュナは、独立した存在があり得ないということを、「空」という専門用語で表している。事物は、自立的な存在でないという意味で「空」なのだ。事物はほかのもののおかげで、ほかのものの働きとして、ほかのものとの関係で、ほかのものの視点から、存在する。】(P152-153)
もし、この世界にさ、ぼくしか存在しなかったとしたら、
それは果たして、存在してると言えるのか?
まず、名前は要らないよね。他に誰もいないんだから、名前をもつ意味がない。
それに、ぼくには性格もないよね。
なぜなら、恐いとか、優しいとか、それって、誰かと比べてのことでしょ。
この世界に、もし最初から、ぼくだけしかいなかったのだとしたら、
果たして、ぼくは何者なのか?
ぼくが何者かになるのは、みなさんと関わり合う中でのことでしょ。
宇宙誕生以来、ぼくしかいないのなら、それってもう、何者でもないんだよ。
これと同じではないけれど、似たようなことが、
ミクロの世界、量子論の世界でも起きている、とカルロ・ロヴェッリはみる。
ぼくはただ、あなたとの関係において、ぼくである。
もっと言うと、ある女が、娘の前では母となり、愛する男の前では女になるとして、
じゃあ、そのある女は、母なのか? 女なのか?
どちらでもあり、かつ、どちらでもない。
なんというか、お互いがお互いを映し合い、開かれた関係性の中で、相互作用の中で、様々な相貌をみせてくれる、というわけ。
それは厳密な意味で「わからない」のであって、観測してないからわからない、ということではない。
ただ言えることは、あそこで電子がみつかる確率は、あそこでみつかる確率より高いとか低いとか、そういうことだけ。
これは摩訶不思議なことだが、
ある事物が私たちにとって意味のある事物であるためには、相互作用が必要、だとするなら、クリアになる。
観測していない、つまり相互作用していないのであるなら、
その事物が何者であるのか、わからない、
というより、その事物は、未だ何者でもない。
だから、どこにいるのかわからない。どういうヤツなのかわからない。属性がわからない。
観測という相互作用があってはじめて、その事物は意味のある事物として現象する。
私たちに言えることは、もし相互作用するとしたら、そこで出会える確率が、高いとか、低いとか、そういうことだけ・・・・・・
カルロ・ロヴェッリは、【対象物の属性を、そもそもそれらの属性が発現するために相互作用している別の対象物から切り離すことは不可能なのだ。対象物のあらゆる属性(変数)は、煎じ詰めればほかの対象物に関してのみそのような属性として存在する】(P143)と言うのだが、
さっき、ぼくは、あえての擬人化をして、
ある女が、娘の前では母に、恋人の前では女になる、と言ったが、
これがカルロ・ロヴェッリの言う【対象物のあらゆる属性(変数)は、煎じ詰めればほかの対象物に関してのみそのような属性として存在する】の、たとえ話だとしても、
この場合、とりあえず「ある女」がいる、ということは事実としてある、と考えてしまうと、間違うことになってしまう。
つまり、対象物Aが事前に、あらかじめ存在し、その対象物Aが対象物Bと相互作用することにより、AがA’になるとか、そういうことを言ってるんじゃない。
そうではなく、相互作用を抜きに、対象物は存在しない、AはAたりえない、ということを言っている。
つまり、もっと過激なことを言っているんだよ。
対象物Aすなわち「色」は、あらかじめ事前にAとして自立自存してるわけじゃない。
それは相互作用、関係性のうちに内在している。
相互作用、関係性の内部から立ち上がってくるものだ。
だから、Aという実体をもっているわけじゃない。Aという実体があるわけじゃない。
その本性は、「空」でしかない。
しかし一方では、「空」なのに、「空っぽ」なのに、
あたかもAがAとして存在するかのように、相互作用、関係性の渦中から、
それが立ち上がってくるのである。
これが、色即是空、空即是色、ということなんだ。
何がホントの意味で存在すると言えるのか、
カルロ・ロヴェッリの論調を踏まえて発言するなら、
彼流の量子論の立場からすると、
相互作用、関係性こそ存在する、ということになる。
存在するのは事物ではない。
事物など存在しない。
事物は相互作用、関係性から内在的に立ち上がってきて、都度都度、様々な相貌をみせてくれる。
事物は、相互作用、関係性が在るからこそ、立ち上がってくる。
「我思う、ゆえに我あり」をもじって言うなら、
「事物が立ち上がってくる、ゆえに相互作用、関係性あり」。
もっと違う言い方をするなら、端的に言って、
〈はたらき〉が存在する。〈はたらき〉一元論、となる。